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【第8章22話】 森の奥へ

測定器の熱が突然消え、不自然な静寂が森を支配する。

目の前に現れた影は、退くことなく二メートルの距離で静止した。

レイは、魔力のない空っぽの頭の中で、使い慣れたはずの魔法式にある違和感を抱く。

 木の葉が、赤くなっていた。


 夕方に向かう光が、森の中を斜めに切る。


 昼間は届いていた明るさが、少しずつ遠くなっている。


 レイは足元を見ながら歩いた。


 根が張り出た地面。


 湿った土。


 一歩ごとに、靴が沈む。


 測定器が、ポケットの中で熱い。


 朝からずっとそうだった。


 触れると指先が痛い。


 それでも、熱が上がっているのか下がっているのかは、触れてみないと分からない。


 手の甲で外側を確かめる。


 熱い。


 でも、さっきより少し——


 ガルムが、止まった。


 突然だった。


 前を歩いていたガルムが、右前足を上げたまま、動かなくなった。


 確認動作とは違う。


 索敵のときは鼻が動く。


 今は動いていない。


 全身が、固まっている。


「——止まれ」


 エルネストが言った。


 声が低い。


 全員が足を止める。


 森が静かだった。


 鳥の声がない。


 風もない。


 でも、木が揺れた。


 レイは顔を上げた。


 揺れている木は、一本だけだった。


 周りの木は動いていない。


 風ではない。


 地面からでもない。


 何かが、触れた。


 測定器の熱が、引いた。


 突然、温度が消えた。


 指先の痛みがなくなる。


 レイはポケットから測定器を取り出した。


 熱くない。


 でも、普通の温度でもない。


 冷たくもない。


 ただ——熱が、どこかへ行った。


 また戻ってきた。


 元の熱さに戻る。


 レイは測定器を見た。


 また引く。


 また戻る。


 引く。


 戻る。


 間隔が短くなっている。


 今度は、引いたまま戻ってこなかった。


 森の奥で、何かが動いた。


 重い。


 足音ではない。


 地面を引きずるような、低い振動。


 それが、近づいてくる。


「来る」


 ガルムの声だった。


 影が、木の間から現れた。


 光を飲み込む輪郭のなさ。


 近づくと気温が下がる感覚——前に感じたのと同じだった。


 ガルムが前に出た。


「——待て」


 エルネストが片手を上げた。


 ガルムが動きを止める。


 影が、近づいてくる。


 五メートル。


 四メートル。


 三メートル。


 エルネストがガルムの首に手を置いた。


 声には出さずに口が動く。


 レイはポケットの中で手を握った。


 測定器を持っている。


 熱がない。


 でも、手の中に形がある。


 それだけが今、確かだった。


 二メートルで、影が止まった。


 退くかどうか、分からない。


 レイは数えた。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 退かなかった。


 ガルムが跳んだ。


 爪が影に触れる。


 手応えなし。


 すり抜ける。


 ガルムが着地して振り返った。


 影は動いていない。


「——効かない」


 ガルムが言った。


 それは知っている。


 でも、今日は何かが違う。


 前に感じたときは、ここで退いた。


 退かなかった。


 マーカスが盾を前に出した。


 影に踏み込む。


 盾が影に触れた瞬間、そのまま通り抜けた。


 マーカスが盾を引いて、一歩下がる。


「すり抜けた」


 と言った。


 声が乾いていた。


 エルネストが言っていた。


 六件の記録。


 そのうち一件だけ、退かなかった。


 条件を満たした場合。


 今、自分はその条件に近いのかもしれない。


 その考えが浮かんで、胃が冷えた。


 だとしたら次は——退かないどころか、踏み込んでくる可能性がある。


 レイは測定器を持ち直した。


 影に向けた。


 熱がない状態でも、向きを変えれば何か変わるかもしれない。


 右に傾ける。


 左に傾ける。


 影の中心に合わせる。


 変化がない。


 次に、測定器を自分の胸の前に向けた。


 影から背ける。


 また影に向ける。


 角度が変わると、何か——


 足が、一歩前に出かけた。


 止まった。


 近づけば何かが分かるかもしれない。


 でも、近づいた場合に何が起きるかが分からない。


 選べなかったのではない。


 近づくことを選ばなかった。


 その判断が正しいかどうか、まだ分からない。


 レイは空気圧縮式を頭の中で組み始めた。


 反射的だった。


 集中する。


 マナを集める。


 でも——


 ない。


 マナが来ない。


 昨日消えた。


 今日の朝から何も戻っていない。


 式の形を作ろうとしても、流し込む力がない。


 式だけが、空っぽの器みたいに頭の中に浮かんでいる。


 空気圧縮式。


 外から内へ圧縮するループ。


 そのループを二段階にして——


 待った。


 二段階。


 レイは止まった。


 いつも組んでいる式を、頭の中だけで展開した。


 外側のループ。


 内側のループ。


 その二つは、同じ処理をしていた。


 重なっている。


 片方があれば、もう片方はいらない。


 なぜ、二重になっているのか。


 言葉にはならなかった。


 感覚だけがあった。


「ここが無駄だ」


 という感触。


 でも、なぜ無駄なのか、何がどう変わるのか、まだ見えない。


 森の奥で、別の音がした。


 影の方向と同じ側から、低い、かすれた声。


 二つ。


「——同じ方向」


 ガルムが言った。


 木の間から、スライムが這い出てきた。


 灰色の、大きめのもの。


 二体。


 影がいる間、別の何かが抑えられていたなら——影が止まっている今、その抑えが緩んでいる。


「私が行きます」


 セラが前に出た。


「傷が——」


 レイが言いかけた。


 止めるべきか。


 でもセラがこちらを振り返らなければ、声をかけるタイミングがない。


 レイは一瞬、呼び止めようとして——やめた。


 セラを止める言葉は出なかった。


「動けます」


 右肩を庇いながら、それでも足は止まらなかった。


 トーマスが並んで走る。


 セラの左側に入った。


 二人でスライムに向かう。


 レイは動けなかった。


 魔力がない。


 身体は動く。


 でも、戦闘の中に入っても何もできない。


 今のレイにできることは、場所を確保することと、観察することだけだった。


 影が、まだいる。


 二メートルの距離を保ったまま、動かない。


 レイの方向を向いている。


 顔はない。


 でも、向いている、という感覚だけがある。


 測定器が、赤く光った。


 赤い光は、これまで見たことがなかった。


 影の方向に向けると強くなる。


 遠ざけると弱くなる。


 また近づけると、強くなる。


 影と何かが繋がっている。


 それが分かるだけで、意味はまだ分からない。


 セラとトーマスがスライムを処理した。


 七分か、八分か。


 レイはずっと影を見ていた。


 影もレイを向いていた。


 エルネストはその間、測定器を影に向けて、何かを記録していた。


 声は出さなかった。


「終わりました」


 セラが戻ってきた。


 右肩を手で押さえている。


 白い布が、少し赤くなっていた。


 影が、動いた。


「待て」


 エルネストが言った。


 声ではなく、手の動きで。


 全員が止まる。


 レイは影を見た。


 何かが変わっている。


 輪郭の揺れ方が、さっきと違う。


 測定器の赤い光が、急に強くなった。


 それから、影が退いた。


 消えたわけではない。


 遠ざかっていく。


 強くなった赤い光が、影が動いた瞬間に——そのまま消えた。


 強くなって、消えた。


 強くなったのが先だった。


 退く前に、何かが起きた。


 それが何かは分からない。


 でも、退く前に変化があった。


「また退いた」


 ではなく


「退く前に何かが変化した」


 それだけは観察できた。


 森が、また静かになった。


 鳥が遠くで鳴いている。


 木が揺れている。


 普通の、夕方の森の音。


 誰も喋らなかった。


 エルネストが最初に動いた。


 測定器をしまって、地図を開く。


「移動する。今夜は野営だ」


 それだけだった。


 退いた理由は言わなかった。


 たぶん、分からない。


 条件を満たしたのか。


 満たさなかったのか。


 退く前の変化が何を意味するのか。


 全部、まだ分からない。


 ただ一つだけ確かなことがある。


 今夜は退いた。


 次がどうかは、分からない。


 歩き始めた。


 足元が重い。


 でも、頭の中が止まらなかった。


 あの式の、二重になっている部分。


 マナを流し込めなくても、形だけは残っている。


 何かが、引っかかっている。


 喉の奥に何かが詰まっているような、その感触。


 言葉にしようとすると逃げる。


 でも、あそこが、何かだ。


 セラが横に来た。


 右肩を左手で押さえながら、それでもレイに合わせて歩幅を変えた。


「……大丈夫か」


 レイが聞いた。


 肩のことを指していた。


「動けます」


 同じ答えだった。


 でも声が、さっきより少し穏やかだった。


 レイは少し歩いた。


 頭の中で式がまだ動いている。


 二重になっている、あの部分。


 言葉にしようとすると逃げる。


 でも、感覚はある。


「セラ」


「はい」


「魔法式の話、聞いてもらえるか」


 セラが少し振り向いた。


 疲れた顔の中に、何か違うものがあった。


「……はい」


 森の奥が暗くなっていた。


 影が消えたわけではない。


 遠ざかっただけだ。


 夜営地まで、まだ距離がある。


---

(8章22話 終)

---

二重に重なったループの無駄。

マナを流し込めない極限状態だからこそ、レイは式の本質的な欠陥に気づき始める。

影が退く直前に見せた変化と、掌に残った熱の記憶。

それらが繋がる瞬間を、彼は予感していた。


次にレイは、何を"確かめにいく"のか。


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