【第8章21話】 沈黙の重さ
測定器の熱が引かない。
四時間が経過しても鞄の中から伝わる異常な熱量に、レイはある疑念を抱く。
影は退いたのではなく、ただ「条件」を確認するために移動しただけではないのか。
森の沈黙は、相変わらずだった。
木々の間を風が通り抜けても、鳥の声がない。
葉の揺れだけが音で、それ以外は足音と、装備が擦れる微かな音だけ。
昨日も、一昨日も、同じだった。
レイは測定器に手を伸ばしかけて、やめた。
外装がまだ熱い。
指先が近づくだけで分かる。
触れれば火傷するほどではないが、長く持てる温度ではない。
鞄の中で、測定器は沈黙したまま熱を持ち続けている。
影が退いてから四時間が経つのに。
(まだ、引かない)
引かないということは。
考えかけて、やめた。
考えても答えは出ない。
今は歩くことだけをする。
隊列はゆっくりと進んでいた。
マーカスが前、トーマスが左側面、アリスが右後方。
エルネストは中央で記録帳を見ながら歩いていた。
ガルムはレイのすぐ隣にいて、時折、右前の方向へ顔を向ける。
三歩歩いて、止まる。
確認して、また歩く。
その繰り返しが、もう何度もあった。
影が退いたとき、森の生き物が戻るかと思っていた。
鳥が鳴き始めるか、草むらが揺れるか。
でも何も戻ってこなかった。
森は今も静かで、それが示すことを、レイは考えないようにしていた。
セラが隣に来た。
「……測れてる?」
「熱が引かなくて」
セラは一度、鞄の方を見た。
それから前を向いて、何も言わなかった。
その沈黙が答えだった。
右肩の傷は、朝カイラが包帯を巻き直した。
深刻、とは言われていない。
でもカイラの手が少し止まる瞬間を、レイは見ていた。
言わなかっただけで。
ガルムがまた、右前を向く。
一秒。
二秒。
それから歩き始める。
レイはその視線の先を見た。
木々が続いているだけだった。
何もない。
でもガルムが見るから、何かある。
(いる)
退いたのではなく、移動しただけ。
影はまだ、いる。
カイラが止まったのは、沢の手前だった。
「少し、いいですか」
エルネストが振り返った。
カイラはセラを見ていた。
「傷を確認させてください。
動き続けているので」
短い停止。
エルネストが頷いて、マーカスとトーマスが自然に周囲の確認に動いた。
アリスが測定器を取り出して、東を向ける。
セラが立ち止まって、肩の包帯をカイラに渡す。
カイラの手が慎重に動き始めた。
「……染みてますね」
声を落としたつもりだったが、聞こえた。
セラは表情を変えなかった。
レイは聞こえないふりをしようとして、できなかった。
このペースで、あと六日。
傷が移動を止めるとしたら、北の塔には——考えを打ち切った。
考えても今は変えられない。
レイは測定器に手を伸ばした。
確認したかった。
影の方向が分かれば、何か——
熱が、指先に触れた。
持てない。
手を引いた。
分かっていたのに、試してしまった。
魔力は残っていない。
測定器は持てない。
影の方向も分からない。
何も、できない。
「レイ」
エルネストだった。
記録帳を閉じて、少し離れた場所に立っていた。
手招きするでもなく、ただそこに立っている。
レイは近づいた。
エルネストは周囲を一度見てから、声を落とした。
「話す」
「……はい」
「昨日、言いかけてやめた。
タイミングを選んでいたが、もう選んでいられない」
レイは黙って聞いた。
「影の記録を、俺は六件持っている。
今回を入れれば七件だ。
類似事例として本部に報告されていたものを、集めていた」
エルネストが記録帳を開いた。
ページを捲る音だけが、一瞬、森に響いた。
「六件全て、同じだ」
視線が上がって、レイを見た。
「影は、一度も攻撃していない」
静かな声だった。
だから余計に、重かった。
「接触した人間は全員傷を負っている。
お前の空気圧縮が当たった後、退いた。
セラフィナが傷ついた。
でも、影が直接手を出した事例は、六件のどれにもない」
「でも、セラの傷は——」
「セラフィナの傷は、お前の魔法に引きずられた際に負ったものだろう。
影がつけたわけではない」
言われて、思い返した。
あの瞬間。
影が動いて、セラが動いて——
そうだ。
影は、セラに触れていなかった。
「近づいて、見て、退く。
それだけだ」
エルネストが続けた。
「六件とも、接触時間は数分から十分程度。
毎回、対象者の周囲を一定の距離から観察して、条件を確認するように動いて、退く」
「条件」
「そうだ。
何かを、確認している。
測っている、と言ってもいい」
エルネストが記録帳のページを指した。
「測っている対象は——お前かもしれない。
あるいは、測定器かもしれない。
そこまでは分からない」
セラが来ていた。
カイラの処置が終わって、話を聞いていた。
エルネストはセラを見て、続けた。
「ただし、これは安心する話ではない。
六件のうち、一件だけ、事例が異なる。
影が退かなかった例だ」
レイは止まった。
「退かなかった」
「そうだ。
その事例だけ、対象者が何らかの条件を満たした可能性がある。
その場合、影は退かなかった。
接触を続けた」
沈黙があった。
六件。
一件だけ違う。
条件を満たした。
今、自分たちは——何かに近づいていないか。
測定器の熱が引かない理由が、影が退いても近くにいる理由が、森の生き物が戻らない理由が、一列に並んだ気がした。
並んで、それが何を示すか、まだ分からない。
「条件が何かは、まだ分からない。
だが、その事例の対象者は——今はいない」
短い答えだった。
それ以上は言わなかった。
レイは、また測定器に手を伸ばしかけた。
影が何を測っているか、方向だけでも確認できれば——
熱が指先に触れた。
できない。
知りたいのに、確認する手段がない。
空気圧縮式を頭の中で組もうとした。
記号を並べて——
そこで、何かが引っかかった。
いつもと同じ式のはずなのに、どこかが余分な気がした。
でも何が余分なのか、言葉にならなかった。
セラが口を開いた。
「古い記録に。
管理者が観測を行う際のプロトコルとして——応答の手順が存在していた可能性があります。
もし影が観測型であれば、接触の段階が決まっているはずです。
第一段階、対象の確認。
第二段階、応答の有無の確認。
第三段階——」
セラが止まった。
「第三段階は」
「……確認できていません。
記録が、そこで途切れていて」
エルネストは否定しなかった。
「その記録の出所は」
「管理者の記録の断片です。
完全なものではありません。
ただ——」
セラが一度、右前の方向を見た。
「段階があるとすれば、今は第一段階か第二段階にいるかもしれない」
森の沈黙が、続いた。
世界は何も返さなかった。
移動を再開する前に、ガルムがレイの横に来た。
右前を、見た。
「……いる」
「まだいるか」
返事の代わりに、鼻先が微かに右前を向いた。
レイは鞄に手を伸ばした。
熱が、ある。
でも——
一瞬、引いた。
手の平から感じていた熱が、ふっと薄くなった。
同時に、ガルムが止まった。
いつもの確認動作ではない。
四肢に力が入って、低く、静止した。
一秒。
二秒。
熱が、戻った。
ガルムがゆっくりと歩き始めた。
右前ではなく、一瞬だけ別の方向を向いてから、また前へ。
影が動いた。
方向が変わったのか、距離が変わったのか、分からない。
何かが変わって、また戻った。
でも、ガルムが反応を変えたということは——
第二段階。
応答の有無の確認。
自分たちは今、何かに応答しているか。
あるいは、していないか。
それが条件に関わるなら、測定器を向けようとした行動は——測定器の熱で断念した行動は——
「満たしていない」と仮定して、一歩踏み出すしかない。
その仮定が正しいかどうか、確認する方法は今の自分にはない。
エルネスト「行くぞ」
声がして、隊列が動き始めた。
レイは踏み出した。
条件が何かを知らないまま。
満たしているかどうかも知らないまま。
森の沈黙は、続いていた。
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(8章21話 終)
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エルネストが語った過去の記録。
それは影が「攻撃」ではなく「観測」を行っている可能性を示唆していた。
応答を求めるかのような一瞬の熱の消失は、レイに第二段階の始まりを予感させる。
次にレイは、何を"確かめにいく"のか。
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