【第8章20話】 残滓
鳥も虫も、すべての音が森から消えた。
前回とは異なる右斜め前方から、空気を押し除けるように現れる巨大な影。
測定器は指先が痺れるほどの熱を帯び、赤い光で警告を発し続ける。
「使えるか」──その問いに、レイは震える手で最後の一撃を形にした。
森が、音を飲んだ。
最初にそれに気づいたのはガルムだった。
前を歩いていた黒い背中が、ぴたりと止まる。
耳が立つ。
尾が低くなる。
レイは測定器を握り直した。
鳥がいない。
虫もいない。
葉が揺れているのに、音がない。
風だけが残って、それ以外のすべてが消えた。
マーカスが盾を構える気配を背中で感じた。
トーマスの双剣が鞘から抜かれる金属音が、やけに遠く聞こえた。
「……来る」
ガルムが言った。
低く、短く。
前ではなく、右斜め前を向いたまま言った。
前回と、方向が違う。
レイは測定器を東へ向けた。
赤い光が脈打つ。
次に右斜め前へ向けた。
赤い光が、さらに強くなった。
外装が熱を持つ。
持ちにくい。
指先が、じわりと痺れる。
「セラ」
「……東より、強い」
セラフィナが左手で測定器を構えながら言った。
右肩を動かさないまま、体だけを向けている。
「右前です。
前回と来る方向が違います」
来る方向が変わっている。
その意味を考える前に、木々の向こうから重い音がした。
踏みしめるような、引きずるような——足音ではない。
もっと大きなものが、空気を押しのけながら移動している。
レイの足元を、小さなものが走り抜けた。
茶色い毛玉が二つ、三つ、南へ向かって逃げていく。
影が近づくとき、いつもそうだった。
エルネストが静かに記録帳を開いた。
書きながら、小さく言う。
「右斜め前か」
影は、予想より早く現れた。
木々の間から来た。
姿が見える前に、空気が変わる。
密度が上がるような、息を吸っても吸えないような感覚。
輪郭が現れた。
黒い。
前回より、内側が詰まっているように見える。
同じ大きさのはずなのに、重量感が違う。
レイはそう感じたが、確認する方法がなかった。
測定器を向けると熱くて持ちにくい。
指を離しかけて、堪えた。
ガルムが飛んだ。
爪が、影の中心部を薙ぐ。
通り抜けた。
前回と同じ。
影の輪郭が、わずかに乱れ——すぐに戻った。
「効かない」
マーカスが盾を構えて前に出た。
金属が影に触れた瞬間、腕が弾かれた。
押し返されたのではない。
すり抜けた。
「触れない」
影は止まっていた。
攻撃してこない。
前回も攻撃はしなかった。
ただ、そこにいる。
輪郭の内側で、何かが沈んでいる。
見ているような——測っているような。
「レイ」
エルネストが呼んだ。
記録帳に目を落としたまま。
「使えるか」
使えるか。
残り、一回。
使えば、もう次はない。
六日の移動が残っている。
測定器が熱を持ったまま回復していない。
影はまだ消えていない。
それでも——使わなければ、今この影がどこまで来るかわからない。
手が震えていた。
空いている左手が、小さく震えている。
「レイ」
セラフィナが低く言った。
命令でも、問いかけでもなかった。
ただ名前を呼んだ。
それだけで、迷いが一つ、落ちた。
マナを集める。
体の中心から引き絞るように。
集まりが遅い。
疲弊しているせいだ。
それでも、形にした。
左手を、影に向けた。
空気が爆ぜた。
影の輪郭が揺れた。
揺れたが——前回より、小さい。
レイはそう感じた。
同じ出力のはずなのに、揺れが浅い。
内側の密度が上がっているから、それとも自分の出力が落ちているから、どちらなのか判断できなかった。
影は、静止した。
攻撃するわけでも、退くわけでもない。
ただ静止した。
まるで何かを——確かめているように。
三秒。
影が、後退した。
来た方向とは逆、左斜め後ろへ。
木々の間に溶けていく。
左斜め後ろ。
来た方向とも、前回退いた方向とも違う。
レイは、膝をついた。
地面が冷たかった。
落ち葉の感触が掌に伝わる。
魔力が尽きた感覚は痛みではない。
内側が空洞になる感覚だ。
軽くなって、それが酷く心許ない。
「使い切りました」
セラフィナが静かに言った。
誰も、何も言わなかった。
「よかった」と言えるものが、何もなかった。
ガルムが、森の奥を見ている。
影が消えた方向——左斜め後ろではなく、右前を見ている。
来た方向だ。
「……いる」
退いた場所と、いる場所が違う。
レイは測定器を確認しようとした。
熱い。
外装がまだ熱を持っている。
接触させると痛い。
持てないわけではないが、長くは持てない。
これで次の接近を事前に検知できるか——わからない。
森の生き物が、戻ってこない。
影が退いたなら、戻るはずだ。
いつもそうだった。
しかし葉が揺れているだけで、音がない。
沈黙が、続いている。
エルネストが記録帳に何かを書いた。
書きながら、一度レイを見た。
何かを言いかけて——止まった。
記録帳に、また目を落とした。
「動けますか」
レイは立ち上がった。
膝が笑っている。
それでも、立った。
「動けます」
エルネストはうなずいた。
「行くぞ」
隊列が動き始めた。
北へ向かって。
空気圧縮で輪郭が揺れた。
でも前回より揺れが小さかった。
影が退いたのはそのせいなのか、それとも最初からそのつもりで退いたのか。
来た方向と退いた方向と、いる方向がすべて違う。
測定器の熱が、歩くたびに掌の中で脈打っている。
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(8章20話 終)
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放たれた空気圧縮。だが、影の揺らぎは前回よりも明らかに小さかった。
魔力を使い切り、内側が空洞になったような心許なさがレイを襲う。
影が退いた方向と、ガルムが今も見据える方向が食い違っているのは、何を意味するのか。
次にレイが、その沈黙の正体を"確かめにいく"のは──。
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