【第8章19話】 移動再開と沈黙
朝の森は、鳥の声一つしなかった。
沈黙の中、レイは三十歩ごとに測定器を取り出し、北の微光を確認する。
安定している。だが、昨夜の影が「見極めるように」退いたあの動きが、意識の端にこびりついて離れない。
歩き出したのは、空が白み始めてからだった。
誰も喋らなかった。
ガルムが先頭を行く。
トーマスが続く。
マーカスが盾を背負い直しながらその後ろに入り、カイラが隣に並ぶ。
エルネストが無言でノートを閉じ、列に加わった。
レイはセラの歩幅を確認してから歩き出した。
測定器を取り出す。
北方向に向ける。
かすかな光——昨日と変わらない微光。
揺れていない。
安定している。
それだけ分かった。
ポケットにしまう。
また三十歩後、取り出す。
同じ光。
繰り返した。
木の間隔が変わる。
根が露出している場所を避ける。
セラが少し後ろに下がった気がして振り返ると、まだ隣にいた。
ただ、右手をどこかに当てていた。
包帯の上から。
無意識の動作だった。
声をかけようとした。
——昨夜の戦闘で、空気圧縮を使った。
あれが正しかったのか、まだ分からなかった。
影が退いたのは、あの一撃のせいなのか、それとも最初から退くつもりだったのか。
聞けば答えが出る話でもなかった。
でも聞けない理由が、そこにあった。
また前を向いた。
ガルムの耳が一度だけ後ろを向き、すぐ前に戻った。
森は静かだった。
鳥の声もなかった。
朝なのに、何も鳴いていなかった。
その静けさが、昨夜の影を思い出させた。
「見極めるように」退いたあの動きを。
測定器を取り出す。
北。
微光。
問題ない。
しまう。
セラが何かを言いかけた気配がした。
足音の変化、呼吸の変化——確かにあった。
でも言葉にならなかった。
また沈黙に戻った。
レイは横を見なかった。
Level 1遭遇と魔力温存の判断
一時間後、ガルムが止まった。
「……来る」
三体。
左の茂みから、右の木の陰から、正面から。
ウルフ種——体高は腰ほど、毛並みは黒ずんでいた。
目が光っている。
マナを帯びた獣の目だった。
マーカスが盾を構えた。
「下がれ」
トーマスが双剣を抜きながら半歩前に出た。
ガルムが跳んだ。
正面のウルフが吹き飛んだ。
左側でトーマスが動く。
マーカスの盾が右の一体を押し込む。
その瞬間、レイの視界の端で何かが動いた。
四体目だった。
茂みの奥、まだ光っていない目。
マーカスの盾の死角から、まっすぐレイに向かっていた。
マナを集めた。
ほとんど反射だった。
手のひらに圧縮点が生まれかけた——
止まった。
残り、一回。
「——」
足を横に踏み出した。
木の幹を背にして、盾の後ろに入った。
四体目がマーカスの盾に激突した。
鈍い音がした。
マーカスが踏ん張った。
押し返した。
ガルムが戻ってきた。
四体目が消えた。
測定器が赤くなった。
一瞬だけ——ポケットの中で赤い光が漏れた。
レイは取り出した。
赤い光はもう消えていた。
北に向けた。
微光。
死体の方に向けた。
反応なし。
影がいた方角——昨夜退いた東の方向——に向けた。
かすかに、揺れた。
微光ではない。
揺れた。
点滅に近い不規則な振動。
でも一秒で収まった。
普通の微光に戻った。
影の残滓か。
それとも測定器が拾っただけか。
判別できなかった。
ただ東が一瞬だけ揺れた、それだけだった。
手がまだ震えていた。
使いかけたマナの残滓が抜けていなかった。
集めかけて止めた、その感触がまだ手のひらにあった。
セラの沈黙が割れる
カイラがセラの包帯を確認した。
声を出さずに何かを確かめ、新しい包帯を巻き直した。
セラは黙って受けていた。
レイが隣に座った。
根の上だった。
測定器をまだ手に持っていた。
東方向に向けた。
もう揺れていなかった。
「さっき、何か言いかけてたけど」
セラが少し止まった。
包帯の端を押さえたまま、視線を前に向けた。
間があった。
「……空気圧縮を、残しておいてください」
静かな声だった。
「次に影が来たとき。
もし測定器が壊れていたら」
セラが続けた。
「ガルムに頼れない相手に、それしかない」
レイは測定器を見ていた。
「……効いたのか、分からない」
セラが言った。
「揺れた。
でも、それが弱点なのか、あの一回だけ通用したのか——私には判断できません」
レイは答えかけた。
「分かってる」
でも止まった。
「分かってる。
でも、今の東の反応——影がまだ近いなら、検証できる距離にいる」
「いたとしても」
セラが静かに返した。
「残り一回で検証して、使い切って、その後に本体が来たら——」
言葉が途切れた。
続けなかった。
「……正しい」
ガルムが言った。
「まだいる」
二語目が続いた。
ガルムが東を向いたまま動かなかった。
誰も喋らなかった。
レイは測定器を東に向けた。
揺れなかった。
でもさっきは揺れた。
監視距離から動いていないのか、もう離れたのか、判別できなかった。
正しい選択をしたのかどうか、その答えも出なかった。
「……行こう」
立ち上がった。
セラも立ち上がった。
傷をかばう動きは変わらなかった。
足は止まらなかった。
ガルムが最後にもう一度東を見た。
それから前を向いた。
測定器を北に向けたまま、レイは歩き出した。
東の揺れの意味が、まだ手のひらに残っていた。
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(8章19話 終)
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襲い来るウルフ種を前に、レイの指先はマナを凝縮しかけ――そして、止まった。
「残り一回」という重圧が、反射的な迎撃すら躊躇わせる。
戦闘直後、測定器が東の方角にだけ示した不気味な「揺れ」。それが影の残滓なのか、あるいは。
次にレイが、その揺れの正体を"確かめにいく"のは──。
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