23:私が君を失ったとしても。
テオフィル、と。
私の名前を、呼んでくれた。「殿下」と、一歩引いて、線を引いて笑っていた彼女が、ようやく呼んでくれた。嬉しいはずだ、そうだろう。
それなのに、痛い。痛くて仕方がない。涙が、止まらない。
こんなみっともない姿を、衆人に晒すなんて良くないのに。王族たるもの、どんな状況でも毅然と立っていなければ。ああでも、私は元から駄目王子だから、これくらいは許されるだろうか。
シャンゼリン、とかすれた声で彼女を呼ぶ。
そんな意味を重ねて、名前を呼ばないで。私はこの名前が元から嫌いなのだよ。テオフィルだなんて、何の皮肉だろうか。どちらも私は存在を信じていないのに。
君が呼んでくれたら嬉しいだろうと思っていた。けれど、そんな意味を込められてしまったら、私はこの名前を二度と呼ばれたくないと思ってしまう。
「……シャンゼリン」
触れた頬は、まだ暖かい。
だがこの出血量だ。今はかろうじて、だがいつまでもつか。目蓋は半ば下りて、緑の目はぼんやりと宙を見ている。私に寄りかかる身体も、力なく動かない。
「シャンゼリン」
名前を呼ぶ。私も君のように、想いを重ねて伝えられたらいいのに。残念ながら私に魔法の才能はないので、それすら不可能だ。
せめて君の名前の意味だけでも知りたかった。君があれほど愛した家族につけられた名前なら、きっと素晴らしい意味が――、
あれ?
「……、は」
シャンゼリン。
どうして気づけなかった。
いや、気づく方がおかしいのか。この世界に英語は存在しない。『わたし』の記憶があってはじめて気づくことができた。
『フェアリーテイル・シャンゼリン』。そういうことか。お伽噺と同様に、後半部も英語読みをしなければならないのだ。
なら、彼女は。
彼女の名前の、意味は。
「……まだ、聞こえているだろう」
震える手で彼女の頬を撫でる。可愛らしい顔に血化粧が施されたが構うものか。おぼろげだった彼女の目が、ちろりと動き私を見た。まだ間に合う。
シャンゼリンは記憶喪失だった。見も知らぬ場所に突然現れた。妖精の世界から帰ってきたから、と推察されていた。何故なら彼女は、妖精に匹敵する力を持っていたから。
だが、そうではなかったら。
マルセルが話していた。お伽噺でもない限り、人間は取り換え妖精を見破れない。それほどに完璧な魔法なのだ。妖精自身が見破られるような失敗をしなければ、ずっとそのままの可能性もある。
なら、誰がどうやってシャンゼリンを連れ戻したのだろう。
「本物を返せ。本来の姿へと戻れ」
条件は満たしているはずだ。確信した者の問いかけ。たとえ魔法の才能がない者でも、妖精が自ら魔法を誘導すれば行使できる。
抱きしめた彼女の身体が、淡く光を放つ。世界が書き換えられる感覚、魔法の発動の余波だ。重なっている妖精の世界と人間の世界、それらを書き換える詠唱もまた重なった響きを持つ。
異常に気付いた周囲が騒めくのを感じるが、知ったことか。後のことを考えると頭が痛いが、今はもう、どうとにでもなれ、だ。
今はただ、君が死ぬのが許せない。
「――――【取り換え妖精《Chengeling》】」
たとえ、私が君を失ったとしても。
+++++
光が、弾けた。
私の腕の中から光の粒が花嵐のように溢れてくる。すぅと腕の中の存在が軽くなり、喪失感が沸き上がった。彼女を、失ってしまう。
いや。四重詠唱を唱えることができたということは、私の考えは間違っていなかったということだ。ならば死は避けられた。
シャンゼリンは、取り換え妖精そのものだ。
フランス語発音に置き換えただけのチープな謎かけ。彼女が妖精のごとき才能を持っていたのも当たり前だ、何せ本物の妖精なのだから。
正直、半信半疑だったが、賭けに勝ったようで何よりだ。
「……っと」
く、と腕に重みがかかる。先ほどまでのシャンゼリンの重みとは違う。それよりもずっと軽く、小さい。だ、大丈夫だよな? 華奢な感覚に、不安になってきた。
光が霧散しその姿があらわになり、拍子抜けする。ああ、そうか。【チェンジリング】の魔法が解けたなら、本物が帰ってくる。そういう魔法だものな。
腕の中で眠る少女は、5歳ほどだろうか。栗色の髪と、シャンゼリンにどこか似た顔立ち。いや、私の知るシャンゼリンが、この子を真似ていたのだろう。
ちらりと目をやるが、怪我はない。存在を入れ替えるといっても、怪我まで引き継ぐ訳ではないようで何よりだ。
妖精の方のシャンゼリンも、たぶん無事だろう。人間ならともかく、妖精があの程度の怪我で大事に至るとは思えない。死の概念が人間とは違うからな。
少し力を消耗したのか、眩暈がする。妖精に魔法を使わせると言っても、全く消費がないわけではないらしいな。マルセルに教えたら大喜びしそうだ。
「は、ぁ……」
深呼吸し、顔を上げる。まだ仕事は残っているからな。
周囲はまだ呆然とこちらを見て固まっている。当然か、お伽噺でしか語られぬ奇跡が目の前で起きたのだから。
あ、ヴィクトール。取り押さえられているか、良かった。ぽかんとした顔でこちらを見ているのが、なんだか妙におかしい。
学内の警備を任されている騎士たちに目を向ける。ふむ。
その中でも意匠の立派な制服を着ている数名に目をつけ、順々に指示を出していく。リーダーらしき者に言えば、後は上手く処理してくれるだろう。
「……ヴィクトールは身体検査の後に牢へ、間違っても殺すな。この少女とエルネストを救護室に運べ。残った者でここの片付けと、学生の誘導を。このままここで式を続けるわけにはいかないだろう」
流石にこの人数が入るホールはないな……適当に分けて東西のホールで続けさせるか。他の行事はないから空いているはずだ。細かい指示は学園長辺りに押し付けよう、そうしよう。
「殿下、少女を」
「ああ、丁重に扱え。この子は【チェンジリング】から帰ってきた子だからな」
緊張した面持ちの騎士に。少女を受け渡す。
シャンゼリンの話を元に考えるなら、この子は10年ほど前に入れ替わってしまった子だ。家族を探すのは、難しいだろうな。シャンゼリンの協力があれば見つかるかもしれないが、しかし。
「……ん、わっ」
ぐるぐると考え事をしていたからか。【チェンジリング】の消耗のせいか。立ち上がった拍子に、間抜けな声を上げてふらついた。あ、これコケる。受け身を取る余裕もないから後頭部を強打するな。
「テオフィル様!」
「っ、え、ヴィヴィアンヌ?」
身体を両側から支えられる感覚に目を丸くする。いつの間に近くに来ていたのだろう、ヴィヴィアンヌが左側から私の身体を受け止めていた。
ヴィヴィアンヌはいつもの凛とした表情を失い、泣き出しそうに眉を下げた。こうしていると、綺麗というより可愛らしいな。
「お怪我、は……っ」
「大丈夫だよ、怪我はしていない」
とん、と軽く足踏み。大丈夫だな、部屋まで歩いて戻る程度なら問題ないだろう。肩に添えられたヴィヴィアンヌの手から離れ、意識して笑みを浮かべる。
「すまないね。女性に支えられるなんて、紳士としては失格だな」
「い、いえ、そんなことは……」
不意に、ヴィヴィアンヌの言葉が途切れた。何もない場所を見つめ、困ったように小首を傾げて口を開いた。
「……いいえ、敬語はいりませんわ。むしろわたくしの方こそ、態度を改めなければならないのかしら。……え、でも……」
一瞬の混乱、そしてすぐに理解と失望が沸き上がる。ああやはり、こうなるのか。
ヴィヴィアンヌの視線の先に目を向け、苦笑する。何もない、誰もいない。少なくとも私にとっては。でも。
「そこにいるのだね、シャンゼリン」
私の言葉に、ヴィヴィアンヌの目が大きく見開かれた。聡明だな、私の一言から察したのか。
私は上手く笑えているだろうか。道化のようにへらへらと、何でもないことのように。傷ついてなんかいないと、嘘をつけているだろうか。
「私は才能が一欠けらもないようでね、妖精の姿が一切見えないのだよ」
私はもう二度と、シャンゼリンに会えない。




