第三十一話 忘れていくもの
朝になっても、こはくは猫の姿のままだった。
直人は会社を休んだ。
猫用のフードを出すと、こはくは迷わず食べた。
水の場所も、窓辺のお気に入りの場所も覚えている。
直人が呼べば来る。
けれど、人間だった頃の写真には関心を示さない。
榊へ電話すると、「姿を行き来する際、新しい形で得た記憶が不安定になる」という古い記述があったと教えられた。
「戻ったら思い出すんですか」
『分かりません』
その答えが一番怖かった。
直人はノートを一冊出し、最初のページへ日付と『こはくが人間になった日』と書いた。
直人は、朝の胸の上に知らない女がいたことから書き始めた。
人間になったと気づいて大喜びしたこと、初めて靴を履いたこと、スーパーで魚から離れなかったこと、スマートフォンを買ったこと、美咲と友達になったこと、一人で帰ってきたこと、喧嘩したこと、そして手をつないだことまで書いていく。
思ったより、残しておきたい出来事は多かった。
途中で『名前を呼ぶ回数が多い。でも呼ばれないと少し寂しい』と書き、直人は少し恥ずかしくなった。
消そうとして、やめた。
夕方、美咲から連絡が来る。
《今日こはくと連絡つかないんですけど、大丈夫ですか?》
《ちょっと体調崩して寝てます》
と返す。
《起きたら、また遊ぼうって伝えてください》
直人はその言葉もノートへ書いた。
翌朝、胸の重みで目を覚ますと、薄茶色の髪が見えた。
「……こはく?」
人間の姿へ戻っている。
「直人」
声を聞いた瞬間、直人の肩から力が抜けた。
「猫だったこと覚えてる?」
「夜、痛くなったところまで。そのあと分かんない」
「人間になってからのことは?」
「美咲。スマホ。髪切った。直人と手つないだ」
「よかった」
こはくが直人の顔を覗き込む。
「そんなに心配した?」
「ああ」
直人はノートを渡した。
こはくはページをめくり、「呼ばれないと少し寂しい」の行で手を止める。
「これ消さない」
「そこ読むなよ」
「私の?」
「お前用」
こはくはノートを胸へ抱えた。
「これから、一緒に書く」
「何を?」
「忘れたくないこと」
直人はその言葉を受け止めるように頷いた。
今失ったのは、猫だった一日分だけだった。
次も同じとは限らない。
だから二人で残すことにした。




