第5話 家族の裏切り
第5話 家族の裏切り
エレノアは、自分の中で何かが静かに壊れていくのを感じていた。
悲しいのかと問われれば、そうなのだろう。
悔しいのかと問われれば、それもそうだ。
けれど、そのどれよりも先にあったのは疲労だった。
もう何もかもが重かった。
ヴァルト公爵家の応接室には昼食が並んでいた。
湯気を立てる野菜のスープ。
香草をまぶした仔羊のロースト。
焼きたてのパン。
苺ジャムとスコーン。
未来の王妃を迎える家にふさわしい食卓だったが、エレノアには何一つ美味しそうに見えなかった。
窓の外では春の陽光が庭園を照らしている。
噴水の水が光を弾き、小鳥が枝を渡っていた。
世界は何も変わらない。
変わってしまったのは、自分だけだった。
「聞いているのか、エレノア」
父の声が響いた。
エレノアはゆっくり顔を上げる。
父は正面に座っていた。
母は紅茶のカップを手にしたまま視線を落としている。
兄は窓辺に立ち、こちらを見ようともしない。
「申し訳ありません、お父様。もう一度お聞かせください」
掠れた声だった。
父は迷いなく言った。
「マリア嬢への毒殺未遂については、お前が責任を取る」
エレノアは瞬きをした。
意味を理解するまで数秒かかった。
「……わたくしが?」
「そうだ」
父は淡々と続ける。
「王家との対立は避けねばならん。お前は修道院へ入る。謝罪金も支払う。これで終わりだ」
エレノアは椅子から立ち上がった。
「お待ちください」
声が震えた。
「わたくしは無実です」
父は表情一つ変えない。
「神の声が証明したではありませんか。先月十二日、わたくしは別荘で帳簿整理をしていました。王宮にはおりませんでした」
「だから何だ」
父は冷たく言った。
「だから……何だ、とは?」
「王家との争いを避ける方が重要だ」
エレノアは言葉を失った。
真実ではない。
無実でもない。
父が見ているのは家だけだった。
「お父様……」
「理解しなさい」
父の声は硬かった。
「公爵家のためだ」
すると兄が口を開いた。
「家のためだ、エレノア」
振り返りもしない。
「お前が犠牲になれば済む」
胸の奥が痛んだ。
幼い頃、剣術を教えてくれた兄だった。
熱を出した時、夜通し看病してくれた兄だった。
その兄が今、自分を切り捨てている。
「十年間頑張ってきたんだろう」
兄は言う。
「最後くらい家の役に立て」
エレノアは目を閉じた。
何も浮かばなかった。
いつもなら出てくるはずの反論も。
皮肉も。
怒りも。
何も。
頭の中は静かだった。
母が優しく声をかける。
「エレノア」
その声が余計につらかった。
「少し我慢すればいいのよ」
母は微笑んだ。
「あなたは昔から我慢強い子でしょう?」
その瞬間だった。
胸の奥で何かが完全に切れた。
ああ。
そうだったのか。
誰も私を愛していたわけじゃない。
我慢する私が都合よかっただけなんだ。
エレノアは俯いた。
涙は出なかった。
泣く力すら残っていなかった。
「……わかりました」
母の顔が明るくなる。
「よかったわ」
そう言いながらスコーンに苺ジャムを塗る。
甘い香りが漂った。
なぜだろう。
吐き気がした。
その時だった。
耳の奥で微かに続いていた砂嵐が大きくなる。
ザー……。
ザー……。
エレノアは顔を上げた。
何も聞こえない。
あれほど賑やかだった神の実況が。
そして。
プツン。
完全に消えた。
王都の市場で商人が空を見上げた。
酒場では客たちが会話を止める。
通りを歩く人々も足を止めた。
「どうした?」
「声が聞こえないぞ」
「まさか……」
不安が広がっていく。
昨日まで笑っていた人々が黙り込んだ。
誰もが気づいてしまった。
あの実況の向こうにいた少女が、本当に傷ついていたことを。
笑い話ではなかった。
自分たちは、一人の少女が壊れていく様子を面白がって見ていたのではないか。
そんな後悔が王都を覆った。
その頃、応接室の扉が開いた。
重い足音が響く。
ルスタムだった。
後ろにはマリアもいる。
だが、その二人より先に声が響いた。
「これで満足ですか、兄上」
低く冷たい声だった。
第二王子アルベルト。
灰色の瞳には怒りが宿っていた。
彼はゆっくり歩き、エレノアと家族の間に立つ。
まるで壁のように。
「アルベルト」
ルスタムが眉をひそめた。
「何の真似だ」
「真似ではありません」
アルベルトは答えた。
「事実を確認しに来ただけです」
その視線が父へ向く。
「ヴァルト公爵。あなたは無実の娘に罪を着せるおつもりですか」
父の顔色が変わった。
「王家への配慮だ」
「違います」
アルベルトは言い切った。
「保身です」
部屋が静まり返る。
誰も反論できなかった。
「私はすでに別荘へ人を向かわせました」
アルベルトは続ける。
「帳簿も書類も回収済みです」
ルスタムの顔が強張った。
マリアの唇が震える。
「調べれば全て分かります」
静かな声だった。
だが逃げ場はない。
「誰が嘘をつき、誰が罪を犯したのか」
ルスタムの顔から血の気が引いた。
エレノアはその光景を眺めていた。
本来なら嬉しかったはずだ。
本来なら怒りをぶつけたかったはずだ。
けれど今は何も感じない。
ただ疲れていた。
アルベルトはそんな彼女の前に膝をついた。
そして冷え切った手を包み込む。
「エレノア嬢」
今日初めてだった。
自分の名前をこんなふうに呼ばれたのは。
「もう十分です」
アルベルトの声は静かだった。
「あなたは頑張りすぎました」
その言葉だけが。
凍りついた心の奥に。
ほんの少しだけ届いた気がした。




