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第3話 沈黙

第3話 沈黙


 エレノアは、自分の心が少しずつ擦り減っていく音を聞いているような気がしていた。


 王宮からヴァルト公爵家へ向かう馬車の中。


 窓の外には夕暮れの王都が広がっている。


 石畳の通りを行き交う人々。


 パン屋から漂う焼き立ての小麦の香り。


 屋台で炙られる肉の香ばしい匂い。


 子供たちの笑い声。


 本来なら穏やかな景色のはずだった。


 けれど今日のエレノアには、まるで遠い世界の出来事のように見えた。


 婚約破棄された。


 十年間愛した人に捨てられた。


 それだけでも十分苦しい。


 それなのに王国中の人々が、自分の心の声を聞いている。


 昨日までなら恥ずかしくて仕方なかった。


 けれど今は、その感情すら薄れていた。


 ただ疲れていた。


 ひどく疲れていた。


(疲れたな……)


 いつもなら。


 ここで神実況が飛び出してくる。


『エレノア選手、本日二十八回目の疲れた発言であります!』


 そんな声が聞こえるはずだった。


 しかし何も聞こえない。


 不自然なほど静かだった。


 エレノアは小さく眉を寄せた。


 だが考える気力も残っていなかった。


 やがて馬車は屋敷へ到着する。


 使用人たちは整列して出迎えていた。


 しかし誰も彼女の目を見ない。


 頭を下げるだけ。


 慰めの言葉もない。


 まるで厄介事そのものを見ているようだった。


 胸の奥が少しだけ冷えた。


 そして、そのまま執務室へ呼ばれる。


 重厚な扉を開く。


 父。


 母。


 兄。


 三人とも揃っていた。


 暖炉には火が入っている。


 だが部屋の空気は冷たかった。


「座りなさい」


 父が言った。


 エレノアは静かに椅子へ腰掛ける。


 嫌な予感がした。


 そして予感は外れない。


「王太子殿下へ謝罪しなさい」


 父の第一声だった。


 エレノアは一瞬だけ目を閉じる。


 やはりそうか。


「わたくしは何もしておりません」


「それは関係ない」


 父は即答した。


「王家との対立は避けなければならん」


「ですが」


「謝罪しなさい」


 娘の言葉を聞く気はない。


 真実を知る気もない。


 家を守ることだけが重要だった。


 母が優しく微笑む。


 その顔を見た瞬間、エレノアはほんの少しだけ期待してしまった。


 母なら。


 母だけは。


 そう思った。


 しかし。


「あなたは昔から我慢強い子でしょう?」


 その一言で期待は砕け散った。


「少し耐えれば済むことなのよ」


「お母様……」


「今までも乗り越えてきたじゃない」


 違う。


 乗り越えたのではない。


 我慢していただけだ。


 泣きたい日も。


 苦しい日も。


 寂しい日も。


 全部飲み込んできただけだ。


 兄が腕を組んだまま言った。


「家のためだ」


 またその言葉だった。


 家のため。


 王家のため。


 国のため。


 誰もエレノアのためとは言わない。


 十年間。


 ずっと頑張ってきた。


 ルスタムのために。


 家族のために。


 未来のために。


 なのに。


 誰一人として怒ってくれない。


 誰一人として悲しんでくれない。


「家のためだ」


 兄がもう一度繰り返す。


 エレノアは目を閉じた。


 いつもなら。


 何か言い返せたはずだった。


 心の中でツッコミを入れられたはずだった。


(いや、家のためばっかりやん)


 とか。


(私の人生はどこ行った)


 とか。


 何かしら浮かんだはずなのに。


 今は何も浮かばない。


 本当に何も。


 頭の中が真っ白だった。


 神実況も聞こえない。


 妙に静かだった。


「返事は?」


 父が問い掛ける。


 エレノアは立ち上がった。


「少し休ませてください」


「エレノア!」


「申し訳ありません」


 それだけ言って部屋を出た。


 誰も追い掛けてこなかった。


 長い廊下を歩く。


 赤い絨毯。


 壁に並ぶ先祖の肖像画。


 煌びやかなシャンデリア。


 見慣れた景色。


 けれど今日は他人の家のようだった。


 自室へ入る。


 鍵を掛ける。


 そして。


 そこでようやく力が尽きた。


 床へ座り込む。


 淡い青色のドレスが広がる。


 未来の王妃になるために仕立てたお気に入りのドレスだった。


 もう必要ない。


 その事実が胸を抉った。


「どうして……」


 涙が零れる。


「どうしてなの……」


 愛していた。


 本当に愛していた。


 信じていた。


 頑張っていた。


 それなのに。


 何も残らなかった。


 疲れた。


 本当に疲れた。


 その時だった。


 王都の空に異変が起きる。


 ザー……


 砂嵐のような雑音。


 酒場でエールを飲んでいた男たちが顔を上げた。


 市場の商人たちが手を止める。


 夜警の兵士が空を見上げる。


 ザー……


 ザー……


 神実況が聞こえない。


 誰も経験したことのない異常だった。


「おい……」


 酒場の男が呟く。


「どうしたんだ?」


「分からん……」


 しかし誰も笑わない。


 昨日までなら笑っていた。


 鼻毛で。


 苺タルトで。


 失恋した令嬢の本音で。


 けれど今は違う。


「あのお嬢ちゃん……本当に限界なんじゃないか」


 その言葉に誰も反論できなかった。


 王国中が静まり返る。


 皆が気付いてしまった。


 自分たちは、一人の少女の痛みを面白がっていたのではないかと。


 そして。


 神実況は完全に沈黙した。


 王宮の執務室で、アルベルトは立ち上がる。


 窓の外を見る灰色の瞳は鋭かった。


「……おい」


 低い声が漏れる。


「まさか、本当に心が折れるまで追い詰めたのか」


 拳が強く握られた。


「あの愚兄どもは……」


 胸の奥に湧き上がるのは怒りだった。


 そして確信だった。


 もう放置できない。


 あの令嬢を、一人にしてはいけない。


 一方その頃。


 エレノアは誰にも聞こえない部屋の中で泣き続けていた。


 王国中の人々が彼女を案じ始めたことも知らずに。


 そして誰もが理解する。


 神実況が消えた時。


 それは笑い話の終わりではない。


 一人の少女が、限界まで傷付いた証なのだと。


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