第2話 実況開始
第2話 実況開始
エレノアは生まれて初めて、自分の人生が音を立てて崩れていく感覚を味わっていた。
婚約破棄だけでも十分だったはずだ。
十年間愛した相手に捨てられた。
その事実だけで胸は痛いほど苦しい。
今も心のどこかで、これは悪い夢なのではないかと思っている。
けれど現実は容赦なかった。
婚約破棄された上に、自分の本音が王国中へ放送されているのである。
何なのだろう、この地獄は。
王宮大広間には重苦しい空気が漂っていた。
シャンデリアの灯りは変わらず輝いている。
銀の食器が並ぶ長卓には料理も残っている。
香草を効かせた仔牛肉のロースト。
蜂蜜を塗った焼きリンゴ。
色鮮やかな果実の盛り合わせ。
けれど誰も料理に手を伸ばさない。
全員の視線がルスタムへ集まっていた。
「静まれ!」
ルスタムが怒鳴る。
「これは神託などではない! 何者かの妨害だ!」
しかし誰も同意しない。
ほんの少し前まで鼻毛騒動を繰り広げていた王子に威厳など残っていなかった。
エレノアは疲れ切った気持ちで思う。
(もう帰りたい……)
『エレノア選手、本日の目標は帰宅です!』
「やめてください!」
反射的に叫んでしまった。
広間がどっと沸く。
笑いを堪える声が聞こえた。
エレノアは顔が熱くなる。
恥ずかしい。
本当に恥ずかしい。
このまま王都の外まで走って逃げたい。
『なお現在、逃亡願望が発生しております!』
「実況しなくて結構です!」
『残念ながら実況は継続されます!』
誰かが吹き出した。
もう駄目だった。
神の声は絶対に空気を読まない。
ルスタムは怒りで震えている。
「エレノア! 貴様が何か企んでいるのだろう!」
「わたくしにも何が起きているのか分かりません」
「嘘をつくな!」
「本当に分からないんです!」
それは本心だった。
もし止められるなら今すぐ止めたい。
しかし神は勝手に喋る。
しかも妙に楽しそうだった。
「マリア!」
ルスタムが呼ぶ。
「お前が受けた被害を皆に話せ!」
「は、はい……」
マリアが震える声を出した。
白いレースのハンカチを握り締め、目元を押さえる。
桃色のドレスの肩が小刻みに震えている。
一見すると可憐な被害者そのものだった。
「わたくし……ずっとエレノア様にいじめられていたんです……」
周囲から同情の声が漏れる。
ルスタムが頷いた。
「聞いただろう!」
「お茶会でも無視されました……」
エレノアは瞬きをした。
お茶会。
確かにあった。
春の王宮茶会。
あの日は――。
彼女は思わず記憶を辿る。
ルスタムに失礼がないように。
王家の婚約者として恥をかかないように。
誰よりも周囲へ気を遣っていた頃だ。
だから何か粗相をしたのではないかと真剣に考える。
そして思い出した。
(王宮パティシエ特製の苺タルトがめちゃくちゃ美味しかった日だ)
神の声が即座に反応した。
『エレノア選手、記憶を検索中!』
嫌な予感しかしない。
『なお記憶の九割が苺タルトです!』
爆笑が起きた。
貴族たちの肩が震える。
騎士が顔を背ける。
侍女は必死に唇を噛んでいた。
『ふわふわのスポンジ!』
『濃厚カスタード!』
『大粒苺がたっぷり!』
「やめてくださいぃ!」
エレノアは真っ赤になる。
しかし神は止まらない。
『ちなみにマリア選手が無視されたと主張する時間帯、エレノア選手はタルトのおかわりを検討中でした!』
広間が再び揺れた。
笑い声が響き渡る。
エレノアは頭を抱えたくなった。
事実だから反論できない。
確かにあの日のタルトは人生最高だった。
「う、嘘です!」
マリアが叫ぶ。
「わたくしは本当に苦しんで……!」
『マリア選手、渾身の嘘泣きです!』
神の声が被せる。
空気が止まった。
『涙が出るまで現在二秒経過!』
マリアの顔が引きつる。
『三秒経過!』
ぽろり。
涙が一粒落ちた。
『出ました! 涙一滴確認!』
大爆笑。
老伯爵など本当に椅子から転げ落ちそうになっている。
ルスタムは真っ赤になった。
「貴様ぁ!」
『実況は事実のみをお届けしております!』
「だから誰なんだ!」
『秘密です!』
エレノアは思う。
(絶対この神、楽しんでるよね……)
『エレノア選手、鋭い指摘です!』
「お願いだから黙ってください!」
しかし神は元気だった。
元気過ぎた。
婚約破棄の悲劇はどこへ行ったのか。
もはや王宮全体が大喜劇の舞台だった。
その時。
後方から低い笑い声が聞こえた。
「くくっ……」
皆が振り返る。
そこに立っていたのは第二王子アルベルトだった。
黒の礼装軍服。
銀の肩章。
鋭い灰色の瞳。
辺境軍総司令官として知られる男である。
彼は腕を組みながらこちらを見ていた。
正確には。
怒り狂うルスタムでもなく。
涙を流すマリアでもなく。
必死に平静を装いながら内心で悲鳴を上げ続けているエレノアを見ていた。
その視線は妙に鋭かった。
まるで彼女の表情の奥まで見透かしているようだった。
エレノアは居心地の悪さを覚える。
(何あの人。怖いんだけど)
『エレノア選手、第二王子を怖い認定!』
「だから言わないでください!」
アルベルトの肩が震えた。
笑っている。
間違いなく笑っている。
そして彼は静かに口を開いた。
「兄上」
「何だ」
「その断罪劇、まだ続けるのですか?」
ルスタムが顔をしかめる。
「当然だ!」
「そうですか」
アルベルトは小さく笑った。
その笑みは面白い玩具を見つけた子供のようだった。
そしてどこか獲物を見つけた狩人にも似ていた。
『第二王子アルベルト選手、参戦です!』
神の声が響く。
広間が再びざわめいた。
まるで祭りのような騒ぎだった。
誰もが笑っている。
誰もが神実況に夢中になっている。
けれどエレノアの胸の奥にある痛みだけは消えていなかった。
十年の恋を失った傷。
信じていた人に捨てられた苦しみ。
それは今も確かに存在している。
神の陽気な実況の裏で。
誰にも気付かれない場所で。
エレノアの心は少しずつ、確実に摩耗を始めていたのである。




