第1話 婚約破棄は全国放送
第1話 婚約破棄は全国放送
胸の奥が冷たく沈んでいく感覚を、エレノアは静かに受け止めていた。
王宮大広間は今夜も眩い光に包まれている。幾重にも吊るされた巨大なシャンデリアが黄金色の輝きを降り注ぎ、磨き上げられた白大理石の床は鏡のように人々の姿を映していた。
楽団が奏でる優雅なワルツ。
香草をまとった仔牛肉のローストの香り。
蜂蜜とナッツを使った焼き菓子の甘い匂い。
熟成された赤葡萄酒の芳醇な香り。
王国でもっとも華やかな夜会。
本来ならば、未来の王妃となる自分が微笑みながら立っているはずの場所だった。
だが今、エレノアの心は重く沈んでいた。
視線の先にはルスタム・アルカディアがいる。
第一王子。
婚約者。
そして十年間、彼女が愛し続けてきた人だった。
幼い頃から共に学び、共に育った。
いつか彼の隣で国を支えたい。
その一心で努力してきた。
王妃教育。
礼儀作法。
歴史。
外交。
財政。
泣きたい日も我慢した。
苦しい日も耐えた。
そうして得たのが「氷の令嬢」という呼び名だった。
感情を見せない完璧な淑女。
それがエレノアだった。
けれど今、ルスタムの隣にいるのは自分ではない。
桃色のドレスを纏った男爵令嬢マリアだった。
ルスタムは彼女の腰を抱いている。
その光景を見るたび胸が痛んだ。
嫌な予感はしていた。
ここ数か月の彼は明らかに変わっていたからだ。
それでも信じたかった。
十年という歳月を。
共に歩んできた日々を。
しかしその願いは無残に打ち砕かれる。
ルスタムが広間の中央へ進み出た。
「皆の者、聞け!」
演奏が止まる。
談笑していた貴族たちが振り返る。
数百人の視線が集まった。
そしてルスタムは高らかに宣言した。
「エレノア・フォン・ヴァルト! お前との婚約を破棄する!」
その瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
ああ、やはり。
本当に終わったのだ。
十年の恋が。
それでもエレノアは微笑みを崩さない。
泣いてはいけない。
ここは王宮だ。
「理由をお聞かせいただいてもよろしいでしょうか」
震えそうな声を押し殺して問い掛ける。
ルスタムは勝ち誇ったように笑った。
「よくもそんな顔ができるな! お前は長年マリアを虐げてきた!」
広間がざわつく。
「嫌がらせ、脅迫、毒殺未遂! 全ての罪を認めろ!」
マリアが目元を押さえる。
「ルスタム様……もうよろしいのです……」
どう見ても芝居だった。
あまりにも芝居だった。
毒殺未遂?
脅迫?
何を言っているのだろう。
意味が分からない。
あまりにも馬鹿げていて。
思わず。
本当に思わず。
心の中で呟いてしまった。
(は?)
その瞬間だった。
ゴゴゴゴゴゴ……!
窓ガラスが震えた。
シャンデリアが軋む。
空気そのものが揺れた。
そして天から荘厳な声が響く。
『さあ始まりました婚約破棄劇場ーーー!!』
大広間が静まり返る。
いや。
静まり返ったのはここだけではなかった。
王都の夜市。
酒場。
城門。
農村。
港町。
王国中の人々が足を止めて空を見上げていた。
その声は今、アルカディア王国全土へ響き渡っている。
『本日の主役は第一王子ルスタム選手と、公爵令嬢エレノア選手!』
「…………は?」
今度はエレノアが声に出していた。
『なおエレノア選手の現在の心境は「は?」であります!』
広間が凍る。
ルスタムの顔が引きつる。
マリアが青ざめる。
『さらに毒殺未遂については「知らんがな」と思っております!』
「なっ!?」
ルスタムが叫んだ。
貴族たちの肩が震え始める。
笑いを堪えているのだ。
エレノアは顔色を失った。
待って。
これ私の心の声?
全部?
全部聞こえているの?
嫌な汗が背中を流れた。
しかし神の声は止まらない。
『追加情報です!』
やめて。
お願いだからやめて。
『なお王子の鼻から鼻毛が一本こんにちはしております!』
完全な沈黙。
そして。
プッ。
誰かが吹き出した。
ルスタムの顔が真っ赤になる。
「ど、どこだ!?」
慌てて鼻を触る王子。
そして親指と人差し指で何かをむしり取った。
『あーっとルスタム選手! 証拠隠滅を図りました!』
会場が震える。
『抜けました! 間違いなく毛です!』
爆笑が起きた。
貴族も騎士も侍女も耐えられない。
ルスタムは怒りで震えている。
エレノアはその光景を呆然と見つめた。
婚約は破棄された。
十年の恋は終わった。
本来なら涙が止まらないはずなのに。
目の前で鼻毛を抜いている元婚約者を見ていたら。
悲しみより先に。
(いや本当に抜いてるし……)
と思ってしまった。
すると神の声が高らかに響く。
『エレノア選手、鋭いツッコミ入りましたーーー!!』
再び笑いが爆発する。
その瞬間。
エレノアは別のことに気付いた。
冷たい汗が背中を伝う。
待って。
今のも聞こえた?
ということは。
まさか。
(私の本音、全部聞こえてるの……?)
『エレノア選手、ここにきて大パニック!』
エレノアの顔から血の気が引く。
『なお現在、「恥ずかしさで消えたい」と思っております!』
広間中の視線が彼女へ集まった。
完璧だったはずの氷の令嬢。
その人生は、この日。
けたたましい実況中継とともに、とんでもない方向へ転がり始めたのである。




