結び目
昼休みも、そろそろ後半に入っていた。
食券機の列は短くなり、代わりに、盆を持って立ち上がる学生が増えていた。
奈々子は開いたままのノートをりあの方へ寄せて、いくつか名前を挙げている。りあはスマートフォンへ打ち込みながら、何度も頷いていた。
その横で、すみれはほのかへ顔を向ける。
「あの、ほのかさん」
「ん?」
「ほのかさんは、星乃先輩とは、以前からお知り合いなのですか」
「星乃さん? そんな前からってわけじゃないよ」
ほのかはスプーンを持ったまま、少しだけ上を見た。
「あたしが『結』でバイト始めた時には、もう常連だったから。それで、少しずつ話すようになった感じ」
「昔のことなどを、伺ったことは」
「ないなあ。あの人、自分のこと話したがらないし。知ってるのは、大将とは前から知り合いっぽいってことくらい」
「そうですか」
ほのかさんも、星乃先輩のことはあまり知らないらしい。
大将――あのスキンヘッドの方なら、何かご存じかもしれない。
……いや。あの方に伺うのは、さすがに勇気がいる。
「星乃さんのことが気になってるの?」
「気にはなっています」
ほのかが、口へ運びかけたスプーンを皿へ戻した。
「もしかして、すみれちゃんってそっちの……? だから海老名で、お酒飲ませようとしてたってこと!?」
「ち、違います!」
声が大きくなって、隣の卓から視線が飛んできた。すみれは背筋を伸ばし、座り直す。
「なになに? 恋バナ?」
スマートフォンから顔を上げたりあが、椅子ごとこちらへ寄ってきた。
「すみれちゃんが、大学の気になる先輩をお酒に酔わせて、持ち帰ろうとしたって話」
「ほのかさん!?」
「お、お持ち帰り。スミレっち……意外と大胆なんだね」
りあは自分で口にした言葉にでも驚いたように、頬を手であおぎ始めた。
「すみれ?」
きゅ、と椅子の脚が床を擦った。
奈々子先輩が、さっきより少し遠くなった気がする。
「皆さん、からかわないでください」
◇
「ごめんごめん。話、戻すね」
ほのかが片手を立てた。
「あたしが知ってるのは、いつも黒いジャケットなのと、お酒好きで昼からしょっちゅう飲んでるのと、あとは名字で呼ばれるの嫌がるってことくらいかな」
りあは片手で頬をあおぎながら、もう片方の手でストローをくるくる回している。
「え、ほしのって下の名前? 男の人じゃないん?」
「星乃先輩は女性ですよ」
「へー……黒いジャケットかあ。ちな、漢字ってどう書くん?」
「夜空の星に、乃木坂の乃です」
くるくる回っていたストローが、止まった。
氷が、からんと鳴る。
「……ふ~ん」
「どうされました?」
「いや。……まさか名字、日渡とかじゃないよね?」
「日渡です」
しばらく、りあは何も言わなかった。
「うっそ。え、同じ大学にいたん……?」
「お知り合いなんですか」
「幼馴染。あーし、ちっちゃい頃から知ってるんよ」
「ええっ!?」
今度は、ほのかの声で周りが振り向いた。
「そんなことある!?」
「一瀬さん、声」
奈々子だけが、いつもの声だった。
◇
星乃先輩を昔から知っている人が、目の前に座っている。
胸元の石は、まだ少し冷たい。
「へー、お酒好きになったんだ。ってか、昼から飲んでるって、それ大丈夫なん?」
すみれは、うまく答えられなかった。奈々子も、何も言わない。
「この間は、朝から電車で飲み始めたよ」
「ええ!? ちょ、それやばくない?」
りあが、紙コップを卓へ戻す。
「……ん~。名字嫌がってるってことは、やっぱ、なんかあったんかな」
「何か、思い当たることがあるんですか」
りあはストローの袋を、指先で細く折っていく。
「まあ、いろいろあってね」
折り目が、途中で曲がった。
「気になるなら、本人に聞いて。それでほっ……星乃が話したくないって言ったら、そこから先は聞かないであげてほしいな」
「……はい」
「なら、そこまででいいよ」
奈々子が、そこで話を切った。
すみれは膝の上で手を重ねる。
「すみません。ご本人のいないところで、聞きすぎました」
「ううん。気になるのは分かるよ」
りあは折りかけの袋を伸ばして、卓の端へ寄せた。
「あーしだって、久しぶりに名前聞いてびっくりしたし」
周りでは、椅子が次々に引かれている。時間を確かめた学生が、盆を持って立ち上がっていく。
「やば。あたし、次の教室が遠いんだった」
ほのかが手早く盆をまとめた。
「あたしたちも行こっか」
奈々子が冊子を鞄へしまう。りあも、空の紙コップを盆へ載せて立ち上がった。
◇
廊下は、食堂よりも暑い。
開いた窓の向こうで、蝉が鳴いている。
「あたし、ほんとに走らないと間に合わないから! またね!」
ほのかが人の間へ駆けていった。
「私も行くね。次の授業、別の棟だから」
奈々子はそう言って、反対側へ歩き出す。一度だけ振り返ったのが、視界の端に残った。
「ナナコ先輩、ありがとね!」
りあが奈々子の背中へ声をかけてから、すみれを見る。
「スミレっちも、またね。今度、星乃の話聞かせてよ」
「はい」
「じゃ、あーしも」
りあが片手を上げる。
その背中が、人の流れへ入っていった。
遠ざかるほど、肩が重くなる。教室へ急ぐ人の焦り。前の詰まった階段の苛立ち。誰かへ向いたまま、行き場のない気まずさ。
胸元も、うっすらと温い。
今なら、確かめられる。
「りあさん」
声は、思ったより通った。
りあが振り返る。人の流れを逆にたどって、戻ってきた。
近づくにつれて、肩のものが少しずつ遠くなる。石も、もう一度ひやりとした。
神社の中ほど、静かにはならない。星乃先輩のそばほど、はっきり冷たくもならない。それでも、りあさんが近づくたびに、同じことが起きている。
ここに、冷房はない。
「ん、なになに?」
「りあさんのことも、少し伺ってもよろしいでしょうか」
鞄の持ち手を握り直しながら、りあが首をかしげる。
さっきは、少し踏み込みすぎた。
ここは、慎重に。
「りあさんのご実家は、神社か、それに近いものと関係がありますか」
りあは、すぐには答えなかった。
蝉の声が、窓の外で一度大きくなる。
「……神社ではないよ。でも、全然関係ないわけでもない」
すみれの顔を、まっすぐ見返してくる。
「まあ、遠くはないかな」
「やはり」
「やはりっていうか」
揺れていた耳元の飾りが、止まった。
「なんで分かったの?」




