知らない呼び方
りあさんは、さっきから三度、入口を見ている。
夕方には、まだ少し早い時間だった。カウンターの端に客が二人いるだけで、店の中は静かである。厨房の奥から、出汁の匂いと包丁の音が届いていた。
「りあすけ、これ好きでしょ」
ほのかさんが小鉢を置いていく。今日は仕事である。
「ほのっち、天才」
「知ってる」
卓の反対側では、奈々子先輩がクリップで留めた紙の束を広げていた。りあさんへ渡す神社の資料らしい。
らしい、というのは、まだ書き足しているからだ。ちらりと見えた紙面は、細かい字で余白がほとんど残っていない。
「ナナコ先輩、それ、もう十分すぎじゃない?」
「ここ、行き方が二通りある」
「あーしのために?」
「片方は坂」
「うわ、こわ」
「こわ?」
「褒めてるし」
◇
あの日、廊下で。
「なんで分かったの?」
りあさんは、まっすぐこちらを見ていた。
「えっと。その、あの……」
言葉を探して、見つからなかった。嘘はつきたくない。でも、本当のことは言えない。
「……勘です」
「勘!?」
我ながら、無理があると思う。
りあさんはしばらくすみれの顔を見ていた。それから、ふっと息を吐く。
「……ま、そういうことにしとこっか」
「すみません」
「なんで謝るん」
それから、りあさんは少しだけ間を置いた。
「あのさ。さっき、またねって言ったけど」
「はい」
「……今度さ、あーしも星乃に会わせてほしいな」
そこだけ、言葉がゆっくりだった。
「分かりました」
自分でも、返事が早かったと思う。
「ありがと」
りあさんが、耳元の飾りを指で一度押さえる。
「あ、あーしがいるの、内緒にしてもらってもいいかな?」
「どうしてですか?」
「んー、サプライズ?」
サプライズ。そういうものだろうか。
「それとさ」
「はい」
「スミレっち、顔に出すぎ」
◇
その日のうちに、星乃先輩へ連絡を入れた。この日に「結」で集まりませんか、あともうお一人、会っていただきたい方がいるのですが。
返事は短かった。
『行けたら行く』
来ないときの返事ではないだろうか。そう相談すると、ほのかさんは笑った。
「普通ならね。でもあの人なら、お酒飲みに来ると思うよ」
◇
「……星乃って、ほんとに来るん?」
「来るって。そろそろじゃない?」
厨房へ戻りかけたほのかさんが、軽く答える。
りあさんの視線が、また入口へ動いた。
胸元が、ひやりとした。
すみれが顔を上げる。ほとんど同時に、暖簾が揺れた。
黒い上着が入ってくる。いつもの席へ行きかけて、止まった。
りあさんも、止まっている。箸が、小鉢の上で浮いたままだった。
店の音だけが続いている。皿の触れ合う音と、油の跳ねる音。
「……りあか」
りあさんの唇が、少しだけ開いた。
「ほっ……」
一度、そこで止まる。
「……ほっしー?」
「なんだそれ」
「今決めた」
厨房から出てきたほのかさんが、盆を抱えたまま立ち止まった。
「……ほんとに知り合いだったんだ」
「幼馴染なんだよね」
りあさんは、星乃先輩を見ていた。
奈々子先輩がペンを置く。
星乃先輩が、一度だけこちらを見た。
会っていただきたい方がいる、としか書かなかった。すみれは、番茶へ目を逸らしてしまった。
星乃先輩は何も言わず、りあさんの正面へ座る。
胸元は、冷たいままだ。
「……久しぶり」
「そうだな」
「何年ぶり?」
「知らん」
「そこ数えようよ」
ほのかさんが運んできたグラスを、星乃先輩が半分ほど空ける。
りあさんは、その手元を見ていた。
「ほっしー、なんか雰囲気変わったね」
「そうか」
「うん。でも、そのジャケットは変わってないんだ」
「……」
「それってやっぱ、今でも――」
グラスが、卓へ下りた。いつもより、少しだけ強い音だった。
「それ以上は言うな」
りあさんが、口をつぐむ。
星乃先輩はグラスを持ち直して、りあさんを見た。
「そういうお前だって、昔は――」
「あーあー、ストップ」
りあさんが両手を出す。
二人が、黙った。
どちらも、目を逸らさない。
すみれは番茶へ手を伸ばしかけて、やめた。
先に動いたのは、りあさんだった。浮いたままだった箸を下ろして、小鉢へ伸ばす。
「てか、ほっしー今なにしてんの?」
星乃先輩は答えなかった。グラスを傾けたまま、下ろさない。
すみれは首をかしげた。この間、お話ししたはずだけれど。
「星乃先輩は、同じ大学の四年生ですよ?」
「……え?」
りあさんの箸が止まる。
視線が少し上へいって、指が卓の上で折れていく。
「あれ。年齢……四年?」
「四年だ」
「え、浪人?」
「違う」
「じゃあ何」
「留年」
「「留年!?」」
二つの声が重なった。
カウンターの客が振り向く。
「ほのちゃん、声大きい!」
厨房の奥から、女将さんの声が飛んできた。
「すみませーん!」
「謝る声も大きい!」
カウンターの客が笑った。一人が隣へ何か言って、二人でまた笑う。
りあさんが、小さく首をすくめる。
奈々子先輩のペンが、資料の上で止まっていた。
それから、りあさんは一つずつ聞いていった。どの授業の単位を落としたのか。卒業まで、あといくつ足りないのか。
星乃先輩は面倒そうにしながら、全部答えていた。
すみれの問いには「ん」で済ませることも多いのに、りあさん相手だと、短くても最後まで言葉になっている。
りあさんが、出汁巻きへ息を吹きかけた。
星乃先輩が、こちらを見ないまま水のグラスを押しやる。
りあさんは礼も言わずに、それを取った。
「でも星乃さん」
通りがかったほのかさんが、足を止める。
「いつも昼からここにいますけど、今年は大丈夫なんですか」
「ああ。任せろ」
りあさんが、噛むのをやめた。
「何を任せるん」
すみれは、そっと奈々子先輩を見た。
奈々子先輩も、こちらを見ていた。
それから、何も言わずに首を横へ振った。
りあさんが噴き出した。ほのかさんも、横を向いて笑っている。
笑いがおさまると、厨房の音だけが残った。
りあさんが、箸を置く。
「……今まで、どうしてたの」
星乃先輩は、すぐには答えなかった。
グラスの縁を、指が一度なぞる。
「……色々あった」
「そっか」
りあさんは、それ以上聞かなかった。
奥の席で、客の笑い声が上がる。
りあさんが箸を取り直して、小鉢を星乃先輩の方へ少し押した。
「これ、おいしいよ」
「ん」
「んじゃ分かんないんよ」
「……もらう」
星乃先輩が箸を伸ばす。
厨房から女将さんの何か言う声がして、ほのかさんの返事が重なった。奈々子先輩は、まだ資料に何か書き足している。
すみれは冷めた番茶を飲みほして、お代わりを頼んだ。




