中央フリーウェイ
「――なんなんですか、あなた」
女の人の声が、震えていた。
すみれの正面に、知らない二人が立っている。男の人の方は何も言わない。ただ、こちらを見ていた。
周りで、何人かが足を止めている。戸惑い。呆れ。おもしろがっているもの。誰のものとも分からないまま、次々に届いてきた。
少し離れたところで、人の声が続いている。近くではないのに、途切れない。
「何も知らないくせに」
女の人の声は、今度は低かった。
さっきまで、こちらへは向いていなかったものが、はっきりと向きを変えている。
布の上から、胸元を押さえる。強く押さえても、収まらなかった。
風が、袖のあたりを通っていく。外は、まだ明るい。
わたしは、なんてことを――
◇
数日ぶりに「結」の暖簾をくぐると、りあさんと星乃先輩は、もう卓についていた。
りあさんの前に、小鉢が三つ並んでいる。星乃先輩はその正面で、グラスを傾けていた。
「あ、来た。ナナコ先輩、スミレっち、こっち」
りあさんが手を上げる。奈々子先輩が鞄を置き、すみれもその隣へ座った。
卓の端に、クリップで留めた紙の束が出ている。この間、奈々子先輩がりあさんへ渡したものだ。付箋が増えていた。
「ナナコ先輩、これ多すぎ」
りあさんが、束を指の背で軽く叩く。
「縁結びって、こんなにあるもんなん?」
「まだまだあるよ」
「絞ってほしいんよね……」
どこへ行くのかは、この間から決まっていない。
番茶を運んできたほのかさんが、卓の脇に立ったまま動かなかった。盆を抱えている。
「ほのっち、どしたん?」
「なんでもない」
「なんでもない人は、そんなとこ立ってないんよ」
ほのかさんが、一度息を吸った。
「……もうバレたんで、言いますけど」
「うん」
「今度、競馬、付き合ってください!」
言ってしまってから、盆を胸の前で持ち直す。
「みんなで行きたいなって思って」
「ほのっち、隠してたのに開き直ったね」
「別に隠してたわけじゃないんだけど……」
言ってから、ほのかさんはりあさんの方を見た。
「あ、ごめん。今日、りあすけの話だったのに」
「いいって。あーしも競馬行ってみたいし」
りあさんが、少しだけ身を乗り出す。
「ちな、やっぱレースの後ってライブとかあるん?」
ほのかさんが、盆を持ったまま止まった。
「……は?」
「いや、なんでもないし」
りあさんは、小鉢へ手を伸ばした。
ほのかさんは、まだ盆を持ったままだった。
「てか、どこでやってるん、競馬って」
「府中だよ。東京競馬場ってところ」
星乃先輩が、グラスを卓へ置いた。
「東京競馬場……中央フリーウェイか」
「なにそれ」
りあさんが顔を上げる。
「ユーミン」
「ゆーみん?」
「調べろ」
りあさんが、言われたとおりにスマートフォンを出した。奈々子先輩は、卓の紙の束へ目を落としていた。
ユーミンは知っているけれど、その曲は知らなかった。
「この間もですが、星乃先輩は、昔の歌がお好きなんですか」
「好きなのもある。これは教えてもらった」
星乃先輩は、手元のグラスを少し持ち上げた。けれど、飲まずにそのまま戻した。
「歌詞に出てくるが、府中にはビール工場がある」
誰も、すぐには返事をしなかった。
グラスの外側を、水滴がひとつ滑った。
「どうせなら行ってみたい」
「ほっしー、工場に興味とかあったんだ?」
「出来立てのビールに興味がある」
「うん、だと思った」
りあさんが先に吹き出した。ほのかさんも、少し遅れて笑う。
「なんだ」
「いや、星乃さんだなあって」
「そうか」
ビール工場。
どうやって造っているのか、考えたこともなかった。
「あの。ビール工場に入れるんですか?」
「入れるし、ビールの試飲ができるらしい」
返事が早い。もう調べているらしい。
出来たてのビール。どんな味がするのだろう。
「じゃあ、競馬の前に工場ですね!」
ほのかさんの顔が、ぱっと明るくなった。
「私は、工場までかな」
奈々子先輩だった。
「え」
「競馬場は、私はいいかな」
「えー! 奈々子さんも行きましょうよ」
「せっかく府中まで行くなら、寄りたいところもあるし」
「神社か寺か」
「まだ何も言ってないでしょう」
「お前のことだ。あるんだろう」
奈々子先輩は、すぐには答えなかった。
「……行きたい神社は、ある」
「あるんかーい」
りあさんが卓を軽く叩いて笑う。ほのかさんは、盆で口元を隠していた。
奈々子先輩が鞄から薄い冊子を出して、膝の上へ置く。付箋が挟んであった。
「工場までは一緒に行くよ。そのあとは、私は別行動させてもらおうかな」
「まあ、それなら……」
ほのかさんの返事が、少し遅れた。
「すみれちゃんは、どうする?」
すみれは、湯呑みを両手で包んだ。
奈々子先輩の膝の上に、冊子がある。あれを開きながら歩く奈々子先輩の後ろについていくのは、好きだった。
東京競馬場。行ったことはない。
「星乃先輩は、どうされるんですか」
「酒とギャンブルだ」
「いや、字面がひどいんよ」
りあさんが即座に言った。ほのかさんが噴き出す。
「間違ってはいない」
「間違ってないのが問題なんよ」
りあさんが、呆れたように片手を振った。
「あーし、あの長い直線、ちょっと見てみたいかも」
「直線?」
「うん。ちょっとだけ知ってる」
すみれは、湯呑みを卓へ置いた。
「では、わたしも競馬場へ行ってみます」
「そう」
「やった!」
ほのかさんが、盆を抱えたままこちらへ身を乗り出した。
「ほのっち、盆、盆」
「あ、ごめん」
盆を持ち直してから、ほのかさんが奈々子先輩の方を見た。
「あ、でも奈々子さん。見るのはメインだけなんで、そんなに長くないと思います。終わったら合流して、みんなでご飯行きましょう」
「うん」
星乃先輩は、聞いているのかいないのか、グラスの底を見ていた。
「人、多いよ」
奈々子先輩だった。
すみれは、服の上から胸元へ指を当てた。
石は冷たい。
カウンターにも、奥の卓にも客がいる。届いてくるものは、遠い。
「大丈夫、だと思います」
「そう」
奈々子先輩は、それ以上何も言わなかった。
石は、冷たいままだった。




