星乃先輩は来なかった
星乃先輩は来なかった。
集合場所の駅前で携帯を開くと、短い文字が並んでいた。
『急に用ができた。今日は行けない。悪い』
文章は、それだけだったが、その下に、リンクが一つ貼られていた。
押してみると、曲が始まる。この間、星乃先輩が名前を出したものだ。すみれは慌てて音を小さくして、画面を伏せた。
「あたしにも来てる」
ほのかさんが自分の画面をこちらへ向けてくる。すみれが受け取ったものと同じだった。
「どうしたんだろう。だってビール工場だよ」
「そうですね」
「星乃さんがお酒より優先する用事って……ちょっと心配かも」
りあさんが、鞄の紐から手を離した。
「ほっしーも、まあ、いろいろあるんじゃない」
言い方が、少しゆっくりだった。
「いろいろって?」
「んー」
耳元の飾りを一度押さえてから、りあさんの声が急に軽くなる。
「二日酔いとか」
「あー」
ほのかさんの声が、そこで納得の形になった。
「ありそう」
「それはありそう」
奈々子先輩まで乗ったので、ほのかさんが噴き出した。
すみれは、少しだけ笑いそこねた。
いろいろ、と言ったときの間だけが、ほかと違っていた。家のことだろうか。
りあさんは、もう次の話をしている。
◇
電車は、それなりに混んでいた。
細く折った新聞を持って立っている人が、何人かいる。今日は、そういう日らしい。
星乃先輩がいないぶん、すみれは少しだけ身構えていた。届いてくるものは、ある。それでも、どれも思ったほど近くない。
電車は、府中本町駅へ近づいていった。
◇
駅から歩いて、工場に着いた。
中は思っていたより静かだった。高い天井の下では低い音が続き、麦を煮たような、甘くて香ばしい匂いが漂っていた。
「なんだかいい匂いがしませんか」
奈々子先輩が、香りを確かめるように小さく息を吸った。
「麦芽かな。仕込みの方から来てるのかも」
「ビールって、こんな匂いするん?」
りあさんが、天井の方を見上げる。
「あーし、もっとお酒くさいと思ってた。味は知らんけど」
四人で、列の後ろについた。
「こちらでは、地下深くから汲み上げた天然水を、ビールの仕込みに使っています」
案内の人がそう言ったところで、奈々子先輩の足が止まった。
「地下水なんだ」
「そうみたいですね」
「水のあるところって、昔から人が集まりやすいの。飲めて、洗えて、田んぼが作れるから」
半分はこちらへ、半分は自分へ言っているようだった。
「あの。ここも、そういうところなのですか」
「府中でしょう。国府の府に、真ん中の中。昔このあたりに、武蔵の国の役所があったの。国の出先みたいなもので、そこが真ん中だったから、府中」
「地名が、そのまま残っているのですか」
「残ってる。だから面白い」
奈々子先輩の歩く速さが、少しだけ上がっている。
「ナナコ先輩」
りあさんが、後ろから顔を出した。
「工場来てもぶれないねー」
「さすが奈々子先輩です」
「なんでスミレっちが得意げなんよ。ね、ほのっち」
ほのかさんは、少し後ろで携帯を見ていた。
「ほのっち?」
「ん?」
「聞いてた?」
「……なにを?」
「もう競馬のことばっかじゃん」
「まだ何も言ってないでしょ」
「顔に出てるんよ」
ほのかさんが、携帯を伏せた。
◇
試飲の部屋へ向かう通路で、ほのかさんが鞄から新聞を出した。細長くたたんだまま、歩きながら開いている。
りあさんが横から覗き込んだ。
「なにこれ、字ちっちゃ」
「……うん」
試飲の席は、明るい部屋だった。
注がれたばかりのグラスが、卓の上に並んでいく。表面の泡が、細かく詰まっていた。
りあさんの前には、ソフトドリンクが置かれる。ストローの袋を、指先で細く折り始めた。
ほのかさんは卓の端で新聞を広げている。その脇に、水のグラスだけが置かれていた。
「ほのっち、飲まんの?」
「やめとく」
「せっかく工場来たのに?」
「……もうすぐ、勝負だから」
それきり、顔が上がらない。
りあさんが、新聞の端を指で軽く弾いた。
「ほのっち」
「……複勝でこれだけ付いてるのは……」
「ほのっちー」
「……やっぱり距離が……」
りあさんが、椅子ごとこちらへ向き直った。
「ナナコ先輩、聞いてよ。ほのっちが人間やめてる」
「そっとしておいてあげれば」
「冷たっ。みんなあーしに冷たい! 優しいのはスミレっちだけだよ~」
りあさんが椅子を少しずらして、こちらへ身を寄せてきた。
「奈々子先輩はいつも通りですよ」
「スミレっちまでそっち側じゃん!」
頬を少しふくらませたまま、りあさんがストローの袋を指先で折る。
「まあ、ほのっちが楽しみにしてんのは知ってるからいいんだけどさ。あーしも馬は見たいし」
ほのかさんが、ようやく新聞から顔を上げた。
「りあすけ、ごめん。今度、縁結びの神社一緒に行こ」
「期待しとく」
りあさんは、まだ少し頬をふくらませたまま笑った。
「では、わたしもいただいてみます」
奈々子先輩と一緒に、小さなグラスを受け取った。
口をつける。少し苦い。それでも、思っていたより飲みやすかった。
「……おいしいです」
「スミレっちって、お酒強かったん?」
「強いかは分かりません。でも、お酒は好きです」
気がつくと、グラスは空になっていた。
すみれは席を立った。
「あの。もう一杯、いただいてきます」
「え、行くん?」
「せっかくですから」
注ぎ足してもらって戻ると、奈々子先輩がこちらを見ていた。
「すみれ」
「はい」
「このあと、人多いと思うよ。競馬場でしょう」
「……そうですね」
「大丈夫?」
頬に手を当てると、熱い。それでも、電車でも、工場でも、思っていたほど近くなかった。
「――今日は、大丈夫な気がします」
「そう」
奈々子先輩は、それだけ言って自分のグラスへ口をつけた。
「無理そうになったら、言ってね」
「はい」
「スミレっち、顔まっか」
「そうですか」
「まっか」
頬に当てた手を、そのままにしておいた。
◇
外へ出ると、日が少し傾いていた。
風が、来るときより冷たい。熱の残った頬に、それがちょうどよかった。
「行きましょう!」
ほのかさんが、真っ先に立った。新聞をたたんで、鞄の外側の隙間へ差している。すぐ出せるところだ。
四人で、来た道を戻る。
りあさんが工場の看板を撮って少し遅れ、奈々子先輩は冊子を鞄へしまいながら歩いていた。ほのかさんは、半歩ずつ前に出る。
道は、途中まで同じだった。
府中本町駅の近くまで戻ると、頭上に長い歩道橋が伸びていた。
「これ、ここから行けるはず!」
ほのかさんが、階段を見上げる。
奈々子先輩が足を止めた。
「じゃあ、私はあっちだから」
奈々子先輩が、ほのかさんを見る。
「一瀬さん、頑張ってね」
「はい。ビクトリーロードが見えました」
ほのかさんが、親指を立てた。
「なにが見えてんの」
りあさんが笑う。
「すみれも、楽しんできて」
「はい」
奈々子先輩は、そのまま先へ歩いていった。
「ナナコ先輩、いってらっしゃーい」
りあさんが手を振った。
「すみれちゃん、りあすけ、こっち!」
ほのかさんは、もう階段を上り始めていた。
「ほのっち、張り切りすぎ」
「レースは待ってくれないんだよ」
「工場んときと全然テンション違うんだけど、この人」
笑いながら、りあさんはちゃんとついていく。
「すみれちゃんも、置いてくよ!」
「置いていかないでください」
すみれは裾を少し持ち上げて、二人のあとを追いかけた。




