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聞こえないはずの、声

 競馬場に入ると、思っていたよりずっと明るかった。


 天井が高い。見上げた先に照明がいくつも並び、その下を、数えきれないほどの人が行き交っている。太い柱のあいだには売店が並んで、明かりのついた掲示が、奥の方まで途切れずに続いていた。


「うわ、広っ」


 りあさんが足を止めた。後ろから来た人が、その横を避けて通っていく。


「なんだか、遊園地みたいですね」


「それ思った! ちょっとディズニーっぽくない?」


「あたし、もっと渋いとこ想像してた」


 ほのかさんが、高いところを見上げたまま言った。


「分かる」


 三人で笑った。


「スミレっち、写真撮ろ」


 りあさんが携帯を掲げる。


「ほのっちも」


「あたしも?」


「三人でしょ」


 顔を寄せて、画面の中へ収まった。


 撮ったものを見せてもらうと、真ん中の自分は、思っていたより笑っていた。頬には、まだ少し熱が残っている。


 少し、酔っているのかもしれない。


「あ、なんかやってる」


 りあさんが指した先に、モニターが並んでいた。その下だけ、人が固まっている。


 画面の中を、馬が走っていた。


「もう始まってない!?」


「まだ、ここのレースまで時間あるから、よその競馬場だと思う」


 ほのかさんがスマホの画面を見ながら答えたところで、モニターの馬たちがゴールへ飛び込んだ。


 周りから、歓声とどよめきが同時に上がる。


 喜びも、悔しさも、一度に届いた。強かった。強かったけれど、来たときと同じ速さで遠ざかっていく。


 すみれは、胸元へ指を当てた。石は、いつもと変わらない。


 今日は、大丈夫そうだ。


「スミレっち、置いてくよー」


 りあさんが、もう先の方で振り返っていた。


     ◇


 パドック、というところらしい。人垣の向こうを、馬がゆっくり歩いていた。


 人の肩越しでも、思っていたよりずっと大きい。蹄が土を踏むたびに、低い音が足元まで届く。


「ここ、なんか見たことある気がする」


 りあさんが呟いた。


「あの競馬のゲームでしょ」


 ほのかさんが、あっさり言った。


「……ほのっち」


「この前、ライブとか言ってたじゃん」


「あれは忘れてほしいんよ」


「りあさんも、ゲームをされるんですね」


 りあさんが、こちらを見た。


「わたしも最近、イケメモを始めましたよ」


「……そっか」


 りあさんは少しだけ間を置いて、それから笑った。


「うん。ゲーム、楽しいんよ」


 そう言って、また馬の方へ顔を戻す。


 すみれも、人の肩と肩のあいだから、通っていく馬を目で追った。


 ほかの馬がまっすぐ前を向いて歩いていくなかで、一頭だけが、ゆっくりと首を回している。柵の外に並んだ人を、端から端まで見ていた。


 その目が、こちらで止まる。


「……あ」


 ほんの数秒だった。馬はまた前を向いて、そのまま歩いていく。


「そろそろ買いに行かないと!」


 ほのかさんが、鞄の紐を握り直した。


     ◇


 馬券売り場は、パドックよりも混んでいた。


 ほのかさんが台の上のマークカードを一枚抜き取って、鉛筆を握る。


「これで……たぶん大丈夫!」


「また、たぶんなん?」


「だって、マークカードで買うの初めてなんだもん」


「ほのっち、さっきから初めてだらけじゃん」


「うるさい! 楽しい!」


 すみれも、同じものを一枚取った。


「ここを塗るんですか?」


「そう。たぶん」


「また、たぶんです」


 りあさんが、声を立てて笑った。


「りあすけは見てるだけね」


「はよ誕生日きてほしいわ」


「じゃあ、すみれちゃんは一緒に選ぼっか」


「いえ」


 すみれは、首を横に振った。


「自分で、選びます」


 こんなに人の多いところへ、自分から来ることなんて、ほとんどなかった。それなのに今日は、帰りたいとは思わない。


 初めて来た場所で、初めて見た馬を、自分で選ぶ。


 嬉しい、と思った。


 どの馬が強いのかは、まだ分からない。それでも、決めているのは一頭だけだった。


 さっき、目の合った馬。


 番号を探して、そこを塗る。


「お、いいじゃん。なんでその馬?」


「こちらを、見ていたので」


「それ理由になる?」


 ほのかさんが振り返る。


「なるでしょ。あーし、そういうの好きだよ」


     ◇


 スタンドへ出ると、視界が一度にひらけた。


 緑が、遠くまである。その内側を、砂の色をした帯がもう一周していて、どちらも、端の方は霞んで見えるほど遠かった。


「うわ、広っ! 長っ!」


 りあさんが、手すりから身を乗り出す。


「でしょ」


 ほのかさんが、自分の手柄みたいに頷いた。


 周りにも、次々と人が集まってくる。それでも、すみれはまだ平気だった。


     ◇


 しばらくして、遠くで馬たちが走り出した。


 向こう側を回っていく馬を目で追っているうちに、周りの声が、少しずつ大きくなっていく。


「折り合ってる! いい感じ!」


 ほのかさんが身を乗り出した。


「え、なに? 折り合ってるって」


「なんかいい感じってこと!」


「なんそれ」


 りあさんが、隣で肩を揺らしている。すみれにも、よく分からなかった。


 馬たちが近づいてくる。声が、後ろからも横からも膨れ上がった。


「差せ!」


「……ざきーーー!」


「粘れ! ねばれ!!」


 あちこちから声が飛んでくる。ほのかさんも何か叫んでいる。りあさんは、何を言えばいいのか分からないような声で、それでも一緒に叫んでいた。


 気づいたら、すみれも笑っていた。


 白い柵の前を、色のかたまりが過ぎていく。その中に、あの馬がいた。


 手の中の馬券を握る。


「……がんばってください!」


 届いてくるものが、一気に濃くなる。期待。緊張。祈るような何か。粒はひとつずつ違うのに、向いている方角だけが、みんな同じだった。


 すみれは手すりを掴んだ。押されているのは体ではないのに、前へ持っていかれそうになる。


 馬たちが、目の前を駆け抜けた。


 その瞬間。


 割れた。


 悔しさ。

 落胆。

 苛立ち。

 後悔。


 さっきまで同じ方を向いていたものが、ばらばらになって、一度に押し寄せてきた。


 歓声は、まだ続いている。すぐ後ろで手が打ち鳴らされて、少し離れたところから高い声が上がった。


 喜んでいる人も、確かにいる。


 それなのに、胸元へまとわりついて離れないのは、重いものばかりだった。


「ギャーーーー!」


 ほのかさんが、両手で顔を覆って叫んだ。


「なんなん、その声」


 りあさんが、ほのかさんの肩を叩きながら笑っている。


「スミレっち、今の見えた?」


 りあさんが、モニターの方を向いたまま言う。


 返事ができなかった。


 りあさんは、返事を待たずにほのかさんの方へ顔を戻していた。


 胸元が、熱い。


 布の上から押さえると、いつものざらついた熱とは違い、手のひらへ脈のようなものが返ってきた。一度収まりかけて、また返ってくる。


 押さえても収まらない。馬券を持ったままの手が、汗ばんでいた。


 人の声は、まだ続いている。


 紙を破る音。ため息。誰かが手すりを叩いた音。


 そのあいだに、それは入ってきた。


 ――なにやってんだよ!


 すみれは顔を上げた。怒鳴り声だと思った。競馬場なら、そういう声も飛ぶのだろう。


 けれど、どこから聞こえたのかが分からない。歓声はちゃんと前から来ている。紙を破る音は後ろから来る。


 いまの声だけが、どこも通らずに、すみれの内側で鳴っていた。


 ――こんなもん買えんわ。

 ――うわ、買えたわ。


 続けて、二つ来た。ひとつは吐き捨てるように。もうひとつは、どこか自分へ言い聞かせるように。


 誰が言ったのか探そうとしたけれど、目で追いつく前に消えていく。耳から入ってきたものは、ひとつもなかった。


 これは、感情じゃない。


 怒っている。

 悔しい。

 嬉しい。


 そういうものではなかった。


 言葉だった。


 隣で、ほのかさんが何か言った。


 りあさんが笑い声を上げる。


 二人の声だけが、遠かった。


 すみれは周りを見た。笑っている人がいる。誰かと話している人もいる。券を数え直している人も、モニターを指さしている人もいた。


 声はいくらでもある。けれど、いま聞こえた言葉を口にしている人は、どこにもいない。


 ――あと一頭だったのに。


 すぐ耳元だった気がして、すみれは振り返った。


 誰の顔も、こちらを向いていない。


 それなのに、はっきりと聞こえる。


「……なに、これ」

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