言っていないこと
聞こえてくる言葉は、すぐには止まらなかった。
――やった。
――惜しかった。
――次だな。
高いものも、低いものもある。拾おうとしなくても、勝手に入ってくる。
すみれは、しばらく動けずにいた。
周りでは、もう人が動きはじめている。紙を細かくちぎっている人。丸めて足元へ落とす人。まだモニターを見上げたまま、口を半分開けている人。
「うそでしょ。何番人気の馬なの……」
ほのかさんの声が、やっと近くから聞こえた。
「なんか、みんな怒ってない?」
りあさんが、あたりを見回している。
「だって大荒れなんだもん!」
ほのかさんが両手で顔を覆って、すぐにまた離した。
「……実質、当たってた」
「え、当たったん?」
鞄から新聞を引っぱり出して、折り目のついたところを指で叩いている。
「ほら、ここ。朝、丸つけてるでしょ」
「……それ、買ってないん?」
「迷ったの! でも見てたの! 実質当たってる!」
「実質ってなんなんよ」
りあさんが噴き出した。ほのかさんは、それでも新聞を畳もうとしない。
いつもなら、ここで笑っていたと思う。けれど、二人の声の向こうから、まだ入ってきていた。
――なにやってんだよ、ほんとに。
自分の考えと同じ大きさで鳴っている。
早く帰りたい、と思った。
思ってから、それが自分のものなのかどうか、分からなくなった。
「すみれちゃんの馬も惜しかったねー」
「……」
何を言われたのか、少し遅れて分かった。
さっきまで目で追っていたはずなのに、レースのことが、もう頭に残っていなかった。
喉の奥が乾いている。胃のあたりが、重い。
「すみません」
自分の声が、思ったより低く出た。
「ちょっと、お手洗いに行ってきます」
「え」
ほのかさんが新聞から顔を上げて、それからこちらをまじまじと見た。
「すみれちゃん、顔……」
「少し、顔を洗ってきます」
「一人で平気? あーし行こっか」
りあさんが、もう一歩こちらへ出ている。
「大丈夫です。すぐ戻ります」
「……うん。気をつけてね」
◇
階段を下りると、下の通路は上より音が遠かった。お手洗いには短い列ができていたが、それでもさっきまでより届いてくるものは少ない。
洗面台で冷たい水を顔に当てる。二度、三度。顔を上げると、鏡の中の自分はひどい顔をしていた。
ハンカチで頬を押さえながら、息を吐く。頭の奥に溜まっていたものが、少しだけ引いたような気がする。
これなら、戻れそうだ。
◇
通路へ出ると、人はまだ多かった。どちらから来たのか、一度考えないと思い出せない。売店の看板を目印にして、来た方へ歩き出す。
階段を上がりきったところで、風が来た。スタンドへ出る手前だった。片側だけが外へ開けていて、光が床の途中まで入っている。柵の向こうに、緑が見えた。
その手前で、女の人の声が耳へ入った。高くて、強い。まわりの話し声の上を、まっすぐ通ってきた。
「三千円ずつって言ったよね。今日は二人で、遊ぶ分だけって」
人の流れから少し外れたところに、若い男女が向かい合って立っている。通りかかった人がちらりとそちらを見て、そのまま歩いていく。
「……言った」
「それが、なんでこんなに使ってるの」
「戻すつもりだったんだよ」
「戻すつもりって、言ってたよね」
すみれは、足を止めていた。
怒りだった。強くて、まっすぐで、向いている先がはっきりしている。隣に立っている男の人だけを、正確に向いていた。
胸元が、ざらつく。
男の人は、丸めた紙を手のひらに握っていた。握って、開いて、また握る。
そのすぐあとに、別のものが来た。
――どうすりゃいいんだよ。
男の人の口は、閉じている。
どこから来たのかは、やはり分からない。分からないのに、目の前にいる人のものだとしか思えなかった。
「今日だって、遊びに来たんじゃないの」
「……来たよ」
「来て、なんで買うの」
女の人が、提げていた売店の袋を持ち替えた。中で、何かが軽い音を立てる。
――なにもかも、もう、うまくいかない。
通り過ぎればいい。
そう思って、片足を前へ出した。
――返せない……。
足が、止まった。
「なんで黙るの。黙って、ごめんって言えば終わりなの?」
声が、一段上がった。すぐ横を通った人が、二人を見てから足を速める。
男の人は、もう言い返さなかった。持っていた紙を、細く折っている。折って、また折って、それ以上折れなくなっても、指が動いていた。
届いてくるものも、一緒に強くなっている。胸元が、また熱い。顔を洗って引いたはずのものが、そっくり戻ってきていた。
何があったのかは分からない。それでも、男の人から届く苦しさだけが、あまりに近かった。
「あの」
二人が、同時にこちらを向いた。
自分の声だと分かるまでに、一拍かかった。
「……そこまで、言わなくても」
女の人が、まばたきをした。
「……は?」
「あの、えっと」
「関係、ないですよね」
声が、低くなった。
すみれは、半歩下がった。
下がりかけたところで、届いた。
――もう、無理だ。
小さかった。
小さいのに、いちばん近くで鳴った。
なぜか、それだけは聞き流せなかった。
このままにしてはいけない、と思った。
「……でも」
女の人が、こちらを見る。
喉が乾いていた。それでも、口は動いた。
「その方も、かなり苦しんでいると思います」
女の人は、何も言わない。
「……これ以上、責めないであげてください」
女の人の表情が、固くなった。
――知ってる。
唇は、動いていない。
――そんなの、知ってる。
「……知ってますよ」
女の人が、そう言った。
さっきまでより、ずっと低い声だった。
「知ってます。この人が大変なのは、私が一番知ってます。仕事のことも、お金のことも、全部聞いてます」
すみれは、何も言えなかった。
「今日、三千円ずつって決めたのも、もう使いすぎないって約束したからです。それなのに、八万円ですよ」
「……八万」
「今月入れるって言ってたお金です。先月も、その前も、私、何も言わなかったんですよ。今度こそって言うから、そのたびに待ってたんです」
言葉が、途中から速くなっていく。
「来年の春に式を挙げようって言ったのも、この人です。先月、二人で式場まで見に行ったんです。それなのに」
――また、これだ。
女の人が、袋を持ち替えた。持ち手が、手のひらに食い込んでいる。
「……私だって」
そこで、声が変わった。
「私だって、こんなこと言いたくないですよ」
目のふちが濡れている。拭こうとして、手が袋でふさがっていた。
「言いたくて言ってるんじゃないんです。……こんなの、言いたくない」
――私だって、一緒にいたかった。
息が、吸えなかった。
「――なんなんですか、あなた」
女の人の声が、震えていた。すみれの正面に、知らない二人が立っている。男の人の方は何も言わない。ただ、こちらを見ていた。
周りで、何人かが足を止めている。戸惑い。呆れ。おもしろがっているもの。誰のものとも分からないまま、次々に届いてきた。
「何も知らないくせに」
女の人の声は、今度は低かった。さっきまで、こちらへは向いていなかったものが、はっきりと向きを変えている。
布の上から胸元を押さえた。強く押さえても、収まらなかった。
わたしは、なんてことを――
「すみれちゃん!」
後ろから、声がした。
振り返るより先に、人の間からほのかさんが出てくる。りあさんが、そのすぐ後ろにいた。
「すいません、すいません」
ほのかさんが、両手を前へ出したまま二人の間へ入った。
「連れなんで。ほんと、すいません」
腕を、掴まれた。
「スミレっち、こっち」
りあさんだった。
引かれるままに、足が人の流れの方へ動く。
二人があのあと何か言ったのかどうかは、分からない。
振り返ったときには、もう背中しか見えなかった。
◇
りあさんは、通路の突き当たりまで歩いてから右へ曲がった。売店の裏側で、そこだけ人が薄い。壁ぎわに、低い段がある。
「座んな」
すみれは、言われたとおりに腰を下ろした。ほのかさんが、少し遅れて追いついてくる。息が上がっていた。
「すみれちゃん、」
言いかけて、そこで止まる。
「……座ってて。ほんとに、座ってて」
「はい」
「顔、白いよ」
ほのかさんが、すみれの前へしゃがんだ。
「……何があったの。戻ってこないから探しに来たら、知らない人と揉めてるし」
「……すみません」
「怒ってるんじゃなくて。びっくりしただけ」
膝の上で手を握った。どこから話せばいいのか、分からない。言えば、たぶん、もう戻れない。
息を吸った。
「わたし、聞こえてしまったんです」
「聞こえたって、何が」
「あの方が、言っていないことが」
ほのかさんの動きが、止まった。
「……え?」
膝の上の手を握り直す。勘です、と言えばいい。前だって、それでなんとかなった。
でも、みなさんに嘘をつくのは、もう。
すみれは、顔を上げた。




