↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
14/42

言っていないこと

 聞こえてくる言葉は、すぐには止まらなかった。


 ――やった。

 ――惜しかった。

 ――次だな。


 高いものも、低いものもある。拾おうとしなくても、勝手に入ってくる。


 すみれは、しばらく動けずにいた。


 周りでは、もう人が動きはじめている。紙を細かくちぎっている人。丸めて足元へ落とす人。まだモニターを見上げたまま、口を半分開けている人。


「うそでしょ。何番人気の馬なの……」


 ほのかさんの声が、やっと近くから聞こえた。


「なんか、みんな怒ってない?」


 りあさんが、あたりを見回している。


「だって大荒れなんだもん!」


 ほのかさんが両手で顔を覆って、すぐにまた離した。


「……実質、当たってた」


「え、当たったん?」


 鞄から新聞を引っぱり出して、折り目のついたところを指で叩いている。


「ほら、ここ。朝、丸つけてるでしょ」


「……それ、買ってないん?」


「迷ったの! でも見てたの! 実質当たってる!」


「実質ってなんなんよ」


 りあさんが噴き出した。ほのかさんは、それでも新聞を畳もうとしない。


 いつもなら、ここで笑っていたと思う。けれど、二人の声の向こうから、まだ入ってきていた。


 ――なにやってんだよ、ほんとに。


 自分の考えと同じ大きさで鳴っている。


 早く帰りたい、と思った。


 思ってから、それが自分のものなのかどうか、分からなくなった。


「すみれちゃんの馬も惜しかったねー」


「……」


 何を言われたのか、少し遅れて分かった。


 さっきまで目で追っていたはずなのに、レースのことが、もう頭に残っていなかった。


 喉の奥が乾いている。胃のあたりが、重い。


「すみません」


 自分の声が、思ったより低く出た。


「ちょっと、お手洗いに行ってきます」


「え」


 ほのかさんが新聞から顔を上げて、それからこちらをまじまじと見た。


「すみれちゃん、顔……」


「少し、顔を洗ってきます」


「一人で平気? あーし行こっか」


 りあさんが、もう一歩こちらへ出ている。


「大丈夫です。すぐ戻ります」


「……うん。気をつけてね」


     ◇


 階段を下りると、下の通路は上より音が遠かった。お手洗いには短い列ができていたが、それでもさっきまでより届いてくるものは少ない。


 洗面台で冷たい水を顔に当てる。二度、三度。顔を上げると、鏡の中の自分はひどい顔をしていた。


 ハンカチで頬を押さえながら、息を吐く。頭の奥に溜まっていたものが、少しだけ引いたような気がする。


 これなら、戻れそうだ。


     ◇


 通路へ出ると、人はまだ多かった。どちらから来たのか、一度考えないと思い出せない。売店の看板を目印にして、来た方へ歩き出す。


 階段を上がりきったところで、風が来た。スタンドへ出る手前だった。片側だけが外へ開けていて、光が床の途中まで入っている。柵の向こうに、緑が見えた。


 その手前で、女の人の声が耳へ入った。高くて、強い。まわりの話し声の上を、まっすぐ通ってきた。


「三千円ずつって言ったよね。今日は二人で、遊ぶ分だけって」


 人の流れから少し外れたところに、若い男女が向かい合って立っている。通りかかった人がちらりとそちらを見て、そのまま歩いていく。


「……言った」


「それが、なんでこんなに使ってるの」


「戻すつもりだったんだよ」


「戻すつもりって、言ってたよね」


 すみれは、足を止めていた。


 怒りだった。強くて、まっすぐで、向いている先がはっきりしている。隣に立っている男の人だけを、正確に向いていた。


 胸元が、ざらつく。


 男の人は、丸めた紙を手のひらに握っていた。握って、開いて、また握る。


 そのすぐあとに、別のものが来た。


 ――どうすりゃいいんだよ。


 男の人の口は、閉じている。


 どこから来たのかは、やはり分からない。分からないのに、目の前にいる人のものだとしか思えなかった。


「今日だって、遊びに来たんじゃないの」


「……来たよ」


「来て、なんで買うの」


 女の人が、提げていた売店の袋を持ち替えた。中で、何かが軽い音を立てる。


 ――なにもかも、もう、うまくいかない。


 通り過ぎればいい。


 そう思って、片足を前へ出した。


 ――返せない……。


 足が、止まった。


「なんで黙るの。黙って、ごめんって言えば終わりなの?」


 声が、一段上がった。すぐ横を通った人が、二人を見てから足を速める。


 男の人は、もう言い返さなかった。持っていた紙を、細く折っている。折って、また折って、それ以上折れなくなっても、指が動いていた。


 届いてくるものも、一緒に強くなっている。胸元が、また熱い。顔を洗って引いたはずのものが、そっくり戻ってきていた。


 何があったのかは分からない。それでも、男の人から届く苦しさだけが、あまりに近かった。


「あの」


 二人が、同時にこちらを向いた。


 自分の声だと分かるまでに、一拍かかった。


「……そこまで、言わなくても」


 女の人が、まばたきをした。


「……は?」


「あの、えっと」


「関係、ないですよね」


 声が、低くなった。


 すみれは、半歩下がった。


 下がりかけたところで、届いた。


 ――もう、無理だ。


 小さかった。


 小さいのに、いちばん近くで鳴った。


 なぜか、それだけは聞き流せなかった。


 このままにしてはいけない、と思った。


「……でも」


 女の人が、こちらを見る。


 喉が乾いていた。それでも、口は動いた。


「その方も、かなり苦しんでいると思います」


 女の人は、何も言わない。


「……これ以上、責めないであげてください」


 女の人の表情が、固くなった。


 ――知ってる。


 唇は、動いていない。


 ――そんなの、知ってる。


「……知ってますよ」


 女の人が、そう言った。


 さっきまでより、ずっと低い声だった。


「知ってます。この人が大変なのは、私が一番知ってます。仕事のことも、お金のことも、全部聞いてます」


 すみれは、何も言えなかった。


「今日、三千円ずつって決めたのも、もう使いすぎないって約束したからです。それなのに、八万円ですよ」


「……八万」


「今月入れるって言ってたお金です。先月も、その前も、私、何も言わなかったんですよ。今度こそって言うから、そのたびに待ってたんです」


 言葉が、途中から速くなっていく。


「来年の春に式を挙げようって言ったのも、この人です。先月、二人で式場まで見に行ったんです。それなのに」


 ――また、これだ。


 女の人が、袋を持ち替えた。持ち手が、手のひらに食い込んでいる。


「……私だって」


 そこで、声が変わった。


「私だって、こんなこと言いたくないですよ」


 目のふちが濡れている。拭こうとして、手が袋でふさがっていた。


「言いたくて言ってるんじゃないんです。……こんなの、言いたくない」


 ――私だって、一緒にいたかった。


 息が、吸えなかった。


「――なんなんですか、あなた」


 女の人の声が、震えていた。すみれの正面に、知らない二人が立っている。男の人の方は何も言わない。ただ、こちらを見ていた。


 周りで、何人かが足を止めている。戸惑い。呆れ。おもしろがっているもの。誰のものとも分からないまま、次々に届いてきた。


「何も知らないくせに」


 女の人の声は、今度は低かった。さっきまで、こちらへは向いていなかったものが、はっきりと向きを変えている。


 布の上から胸元を押さえた。強く押さえても、収まらなかった。


 わたしは、なんてことを――


「すみれちゃん!」


 後ろから、声がした。


 振り返るより先に、人の間からほのかさんが出てくる。りあさんが、そのすぐ後ろにいた。


「すいません、すいません」


 ほのかさんが、両手を前へ出したまま二人の間へ入った。


「連れなんで。ほんと、すいません」


 腕を、掴まれた。


「スミレっち、こっち」


 りあさんだった。


 引かれるままに、足が人の流れの方へ動く。


 二人があのあと何か言ったのかどうかは、分からない。


 振り返ったときには、もう背中しか見えなかった。


     ◇


 りあさんは、通路の突き当たりまで歩いてから右へ曲がった。売店の裏側で、そこだけ人が薄い。壁ぎわに、低い段がある。


「座んな」


 すみれは、言われたとおりに腰を下ろした。ほのかさんが、少し遅れて追いついてくる。息が上がっていた。


「すみれちゃん、」


 言いかけて、そこで止まる。


「……座ってて。ほんとに、座ってて」


「はい」


「顔、白いよ」


 ほのかさんが、すみれの前へしゃがんだ。


「……何があったの。戻ってこないから探しに来たら、知らない人と揉めてるし」


「……すみません」


「怒ってるんじゃなくて。びっくりしただけ」


 膝の上で手を握った。どこから話せばいいのか、分からない。言えば、たぶん、もう戻れない。


 息を吸った。


「わたし、聞こえてしまったんです」


「聞こえたって、何が」


「あの方が、言っていないことが」


 ほのかさんの動きが、止まった。


「……え?」


 膝の上の手を握り直す。勘です、と言えばいい。前だって、それでなんとかなった。


 でも、みなさんに嘘をつくのは、もう。


 すみれは、顔を上げた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。