伝えられない言葉
「……あの方、何も言っていなかったんです」
「え?」
「それなのに、聞こえました」
言ってから、自分の声が思ったより小さかったことに気づいた。
ほのかさんは、しゃがんだままだった。すぐには、何も言わない。
「……そんなことって、あるの」
「わたしにも、分からないんです」
すみれは、胸元の石を服の上から握りしめる。
「ごめん。疑ってるとかじゃなくて。何を言われてるのか、まだ追いついてなくて」
言いながら、首を小さく横に振る。
りあさんは何も言わず、すみれを見ている。
「……前から、人の気持ちが、言葉にされなくても届いてくることはあったんです」
「届くって……」
「怒っている、とか。悲しい、とか。……でも今日は、それが、言葉みたいに聞こえてきて」
ほのかさんが、手のひらで目元を覆った。しばらくそのまま考えてから、顔を上げる。
「それって……考えてることが分かっちゃったってこと?」
「……考えていることなのかは、分かりません。でも、言葉として聞こえたんです」
口にしながら、自分でもうまく分からなくなってくる。
りあさんが、半歩だけ通路側へずれた。すみれと人の流れのあいだに、その背中が入る。少しだけ、息がしやすくなった。
「……ねえ、すみれちゃん」
「はい」
「さっきの人たちとは、何があったの?」
すみれは、膝の上へ目を落とした。
「……お二人が言い争っていて、男性の声みたいなものが聞こえてきたんです。苦しんでいるんだと思って、間に入ってしまいました」
「それで?」
「これ以上、責めないであげてください、と」
ほのかさんも、りあさんも何も言わなかった。
「でも、わたしは何も知らなかったんです」
あのときの声が、頭の中をよぎった。
――知ってますよ。
低くて、震えていた。
「……泣いて、いらっしゃいました」
すみれは、腰を浮かせた。
「戻ります」
「え」
「戻って、謝ってきます」
ほのかさんが、立ち上がりざまに腕をつかんだ。
「待って。待って、すみれちゃん」
「もう、いないよ」
りあさんだった。通路の方を見たまま言った。
「あーし、見てた。二人とも、もう出口の方行った」
二人がどこの誰なのかも、すみれは知らなかった。
すみれは、また段に腰を下ろした。
「……すみません」
「あーしにじゃないでしょ、それ」
ほのかさんも、隣へ腰を下ろした。
通路の向こうでは、次のレースの案内が流れはじめている。少し離れたところから、大きな笑い声が聞こえた。
もっと、いろいろ聞かれるのかと思っていた。けれど、二人ともそれ以上は聞かなかった。
しばらくして、ほのかさんが立ち上がった。
「……とりあえず、ここ出よっか」
「はい」
「奈々子さんとも合流しなきゃだし」
りあさんも立ち上がる。
「スミレっち」
「はい」
差し出された手を見た。
「行こ」
すみれは、少し迷ってから、その手を取った。
◇
歩道橋は、来たときより混んでいた。それでも、りあさんと手をつないでいると、さっきほど苦しくはなかった。
階段を下りきったところで、ほのかさんが振り返る。
「……そういえばさ」
「はい」
「海老名のときの、あの迷子の子も?」
その話が続くのだと思い、気づけば胸元へ手を添えていた。
「はい。心細い、という気持ちが届いてきました」
「そっか」
ほのかさんは少し考えてから言った。
「でも、海老名のときは、そのおかげで気づけたんだよね」
すみれは顔を上げた。
胸元の石を、布の上から指で押さえた。まだ少し熱い。
「はい……そう、ですね」
「なになに。迷子って何の話?」
りあさんが、つないだ手はそのままに、すみれとほのかさんを交互に見る。
「前に海老名で、迷子の子がいたの。泣いてなかったから、誰も気づいてなくて」
「それをスミレっちが見つけたん?」
「そう。しかも急に走り出したんだから。あの格好で」
「スミレっちが走ったん?」
「そこ?」
「いや、想像つかんし」
「わたしも、走ることくらいあります」
二人が笑った。
その声を聞いていると、目の奥が少しだけ熱くなった。すみれは一度、強く瞬きをする。
そんなことを話しているうちに、駅の入口が見えてきた。
改札の前には、まだ人が溜まっている。すみれは足を止めた。奈々子先輩の顔が浮かんだ。
もう少し静かなところにいたい。それに、早く会いたかった。
「奈々子先輩、まだ神社にいらっしゃいますか」
ほのかさんが携帯を確認する。
「まだいるって」
すみれは、駅の人波を見た。
「……わたし、神社へ行ってもいいでしょうか」
「今から?」
「はい」
ほのかさんが、りあさんを見る。
「じゃ、みんなで迎えに行こっか」
「行こ行こ」
「はい」
三人で、駅に背を向けた。
◇
道を一本入ると、人の数が減っていった。鳥居の前で、りあさんの手が離れる。すみれは一礼して、境内へ入った。
肌にまとわりついていたものが、すっと遠のく。けれど、胸元の石はまだ熱かった。
いつもなら、ここですぐ冷えるのに。
「……静かです」
「そう? まあ、人少ないもんね」
「……そうかもしれません」
人の数ではない。けれど、今はそれでよかった。
参道を歩くうちに、石の熱も少しずつ引いていく。
奈々子先輩は、参道の脇のベンチにいた。
「おかえり」
「ただいま戻りました」
奈々子先輩が、すみれを見る。
「どうだった、競馬」
――無理そうになったら、言ってね。
工場で言われたことを思い出す。
「……いろいろ、ありました」
その先は、出てこなかった。
「そっか」
奈々子先輩が、ベンチの隣を少し空ける。
「じゃあ、ちょっと休んでから行こうか」
「はい」
すみれは、空いたところへ腰を下ろした。
ほのかさんとりあさんは、少し離れたところで境内を眺めていた。
奈々子先輩も、それ以上は聞かなかった。
布の上から、胸元へ触れた。
冷たい。
いつのまにか、いつもの冷たさに戻っていた。頭の奥には、まだ重さが残っている。それでも、さっきより息はしやすかった。
「そろそろ、ごはん行く?」
奈々子先輩が立ち上がる。
「行きます!」
ほのかさんの返事だけが、やけに早い。
「ほのっち元気になったな」
「お腹はずっと元気だよ」
「それ元気って言うん?」
ほのかさんとりあさんが、また言い合いながら歩き出す。
すみれも立ち上がった。
奈々子先輩と並んで、そのあとを歩いた。
◇
夕食を終える頃には、駅の人波もずいぶん落ち着いていた。ほのかさんもりあさんも、食事のあいだ、あの話には触れなかった。
奈々子先輩が隣にいるうちに、話してしまおう。何度かそう思ったけれど、口を開くところまではいかず、結局何も言えないまま店を出た。
電車にはまだ人がいる。それでも、競馬場を出た直後ほどではない。疲れている人。眠そうな人。少し苛立っている人。いくつかの気持ちが届いてくる。
けれど、あのときのように、言葉にはならない。
――知ってますよ。
ふいに、あの女性の声がよみがえった。すみれは俯いた。
謝りたかった。けれど、名前も、どこの人なのかも知らない。
指先で、服の上から石を押さえる。あのとき聞こえたものが何だったのかも、まだ分からない。




