上野桜木の古い家
りあさんからの通知は、夜に来た。
『スミレっち、明日ちょっとだけ会える?』
『はい。三限のあとなら』
『じゃ、そのへんで』
用件は書いていなかった。
◇
りあさんが指定したのは、講義棟の裏だった。
非常階段の下に、木のベンチが二つ置いてある。塗装は、ところどころ剥げていた。両側を建物に挟まれていて、どこへ抜けるでもない。壁際に自転車が何台か寄せてあるほかは、何もない場所である。
昼を過ぎたばかりなのに、人はいなかった。
届いてくるものが、ほとんどない。
この間のことを聞いたから、ここにしたのかもしれない。
思ったけれど、聞かなかった。
りあさんは、奥のベンチにいた。鞄を膝に載せて、その上へ両手を置いている。
「座って」
すみれは、隣へ腰を下ろした。
りあさんは、すぐには何も言わなかった。膝の鞄を、少し抱え直す。
「一応、確認なんだけど」
「はい」
「スミレっち、あれ、困ってるってことでいいんよね」
りあさんは、こちらを見ていない。正面の自転車のほうを向いたままだった。
すみれは、すぐには答えられなかった。
気がつくと、襟の下へ手がいっている。布の上から、あるはずのところを押さえていた。
指を離す。
「……そう、ですね」
「うん」
りあさんは、それ以上聞かなかった。
しばらく、二人とも黙っていた。
「あーし、あれからちょっと考えてたんよ」
廊下の向こうを通り過ぎる足音が、すぐに遠ざかっていく。りあさんはそれを待つように少し間を置いた。
「ほっしーに聞いてみるの、どう」
「……どうして、星乃先輩なんでしょうか」
りあさんが、ようやくこちらを向いた。
「初めて会ったとき、ほっしーのこと聞いてきたじゃん」
「……はい」
「あれ、そういうことなんかなって」
すみれは、答えなかった。
それで、答えたことになったらしい。
「星乃先輩は、ご自分のことを聞かれるのを、あまり……」
言いかけて、やめた。
あの店で、グラスが卓へ下りたときの音が、耳の奥に残っている。
「あの人、面倒くさがるだけだから」
りあさんが、背もたれへ体を預ける。
「ちゃんと聞くんよ。最後は」
それから、しばらく自分の膝を見ていた。
「あ、でもさ」
鞄の持ち手を、指で一度たぐる。
「ほっしーも、聞かれたくないことあるかもだし」
「今回、うちら二人だけで行く?」
奈々子先輩の顔が浮かんだ。
神社のベンチで、隣を少し空けてくれたときの顔だった。
それだけで、消える。
「……はい。お願いします」
りあさんが、鞄から携帯を出した。
開いた画面の上に、星乃先輩の名前だけがあった。ほかには誰もいない。
片手で、短く打っていく。
『ほっしー、ちょっと相談あるんだけど』
返事は、思ったより早かった。
『結でいい』
「あそこだと、ほのっちいるかもだしね……」
りあさんは、画面を見たまま言った。すみれへ向けた言い方ではなかった。
打ちかけた指が、途中で止まる。
一度、目を上げた。
『ほっしーんち行ってみたいな』
『断る』
『前からちょっと見たかったんよ』
『断る』
りあさんが、少し考える。
『お酒の差し入れ持ってくから』
返事は、それまでより遅かった。
『好きにしろ』
「行けるって」
りあさんが、携帯をこちらへ向ける。
「……ありがとうございます」
◇
りあさんは、途中で寄った店の袋を提げていた。歩くたびに、中で缶の触れ合う音がする。
その家は、坂を下りきったところにある。
瓦屋根が低い。板壁は赤茶けていて、下のほうだけ色が抜けている。片側に当ててある波板は、後から足したものらしい。平屋で、門はない。腰の高さの木戸が、道の際に立っている。表札は出ていない。
通りには、似たような屋根が並んでいる。隣は、看板の下りた古い店のようだ。
この家だけが古いわけではない。ただ、ここに女子大学生が一人で住んでいるとは、思えなかった。
りあさんが、木戸の手前で足を止める。
屋根から壁へ目を下ろして、波板のところで止まり、それからもう一度屋根を見た。
何も言わない。
引き戸が、内側から鳴った。途中で一度つかえて、それから動く。
「早いな」
星乃先輩だった。黒い上着を着ていない。
「ほっしー、本当にここに住んでるん?」
「そうだが」
「渋くない?」
「住めればいい」
りあさんは、それには答えずに、木戸を押して入った。
◇
廊下の板は色が濃く、歩くたびに、決まったところだけが鳴った。
通されたのは六畳の和室だった。
真ん中に、布団を外した古いこたつ机が一つ。壁際に小さなテレビがあって、その横の棚に本が何冊か立っている。テレビの上の壁に、古い掛時計。畳は日に焼けていて、机の下だけ色が違う。
柱に、いつも星乃先輩が着ている黒い上着が掛かっている。
ほかには、ほとんど何も置かれていない。
星乃先輩が、麦茶のグラスを二つ持ってきて、机へ置いた。
りあさんが、袋をそのまま差し出す。星乃先輩は中を覗いて、一本だけ抜き出した。
「で」
机の向こうへ、崩すように座る。片膝を立てて、その上へ腕を預けた。缶を開ける音がする。
「何だ」
すみれは膝を揃えた。りあさんは、少し離れたところに座っている。
人の気持ちが、言葉にされていなくても届いてくること。府中で、それが言葉のように聞こえたこと。あれきり、一度も起きていないこと。
星乃先輩は、途中で何も言わなかった。缶に手をかけたまま、一度も持ち上げない。
「いつからだ」
「気づいたのは、高校のときです」
「そうか」
それだけだった。驚いた顔も、疑う顔もない。
◇
「もう一つ、あります」
すみれは、襟元から紐を引き出して、首から外した。
こたつ机の真ん中へ置く。
翡翠を思わせる、青緑の石だった。勾玉のかたちをしている。
りあさんと星乃先輩の目が、同時にそこへ落ちる。
どちらも、手は伸ばさない。
「母の形見だと聞いています」
「……そっか」
りあさんの声が、いつもより低かった。
「この間の競馬場のように、人が大勢いて、気持ちがいっぺんに届いてくるようなときに」
すみれは、机の上の石へ指を寄せた。
「これが、熱くなることがあります」
「この石がか」
「はい」
星乃先輩が、缶を机へ置いた。
「人が多ければ必ず、というわけではないのですが。……あの日は、ずっと熱いままでした」
言ってから、少し迷って、続けた。
「神社の中にいるときは、逆です。冷たくなって、届いてくるものも静かになります」
「ああ」
「それと、神社にいるときと……」
そこで、止まった。
机の上の紐へ、指を触れる。
一度、星乃先輩を見た。
「……星乃先輩の近くだと、冷たくなるんです。落ち着いている、というか。届いてくるものも、ほとんどなくなります」
返事は、すぐには来なかった。
星乃先輩は、すみれを見て、それから石へ目を戻した。膝の上の腕が、少しだけ動く。
「私は何もしていないぞ」
「……そうなんですね」
すみれは、石を見た。それから、もう一度星乃先輩を見る。
それなら、どうして。
「りあさんの近くでも、少し冷たくなります。星乃先輩ほどではありませんが」
「あーし?」
りあさんが、自分を指した。
そのまま、手が止まる。
視線が、すみれから机へ落ちて、それから自分の手のひらへ動いた。
「……あ」
「神社かって聞いたやつ」
すみれは、頷いた。
「……ずっと? あーしと会ったときから?」
「はい」
りあさんが、膝ごと、少しだけこちらへ寄った。
「言えんよね。そんなん」
「……はい」
◇
星乃先輩が、缶を持ち上げて、一口飲んだ。
「これが何かは、知らん」
「……そうですか」
缶が、机へ戻る。
「ただ、昔、うちにも似たような話があった。持ってると妙な力が出るとか、そういうものだ。……剣だ。私は見たこともないがな」
すみれは、机の上の石を見た。
りあさんの視線が、星乃先輩へ動く。
誰も、続けなかった。
星乃先輩は、すぐには先を言わなかった。
立てた膝の上で、指が一度だけ動く。
「……持ってたのは、妹だ」
星乃先輩に妹がいることを、すみれは知らなかった。
りあさんが、一度だけ星乃先輩を見る。
「まあ、うちの昔の話はそんなもんだ」
缶を持ち上げて、口をつける。
「私が知ってるのはその程度でな。お前のそれが何なのかまでは、分からん」
「……ほっしーでも分かんないか」
りあさんが、そう言ったきり黙った。
掛時計の音が、聞こえている。
星乃先輩が缶を置いた。
「……そういや」
星乃先輩が、缶の口を見たまま言った。
「あいつは知ってるのか」
「あいつ、ですか」
りあさんも、星乃先輩へ顔を向ける。
「奈々子だよ」
星乃先輩が、缶の縁を指でなぞる。
「古い話とか、こういうよく分からんのは、あいつのほうが詳しいだろ」
すみれは、すぐには答えなかった。
「……いえ」
星乃先輩は、それきり何も言わなかった。
◇
奈々子先輩なら、きっと聞いてくれる。
石のことも、何か知っているかもしれない。
――どうだった、競馬。
神社のベンチで、そう聞かれた。いろいろありました、としか言えなかった。
話すつもりは、あったのに。
すみれは、鞄から携帯を出した。
『少し、見ていただきたいものがあって』
そこで、指が止まった。
少しのあいだ、その一行を見ていた。
消した。
『奈々子先輩』
『お話ししたいことがあります』
『わたしのことです』
『この前、お伝えできなかったことです』
送った。
返事は、すぐに来た。
『どこにいるの』
すみれは、顔を上げた。
「奈々子先輩、来てくださるそうです」
「そうか」
星乃先輩が立ち上がって、部屋を出ていく。
台所のほうで、グラスを出す音がした。




