見えないもの
玄関で、引き戸が鳴った。
途中で一度つかえて、それから動く。
星乃先輩が立って出ていき、少ししてから、廊下の板が二人分鳴った。
「お邪魔します」
奈々子先輩は、鴨居のあたりを一度見上げてから部屋へ入ってきた。それから日に焼けた畳を見て、柱に掛かった黒い上着で目を止める。
「日渡先輩、この家」
「知らん」
「まだ何も言ってないけど」
「どうせ古いって言うんだろ」
奈々子先輩は、部屋の古い造りを確かめるように、もう一度視線を巡らせた。
「歴史があっていいですね」
机には、麦茶のグラスがもう一つ増えていた。
「御影さんも来てたんだ」
「うん。スミレっちと一緒」
奈々子先輩が鞄を膝の横へ置いて、こちらを向く。
「急に来ていただいて、すみません」
「ううん、大丈夫。……どうしたの?」
石のことを聞く前に、奈々子先輩には、自分のことを自分の口から話したかった。
「先に、わたしのことをお話しします」
◇
人の気持ちが、言葉にされていなくても届いてくること。高校の頃から、ずっとそうであること。府中で、それが初めて言葉のように聞こえたこと。
話しているあいだ、奈々子先輩は一度も口を挟まなかった。鞄の上のノートへ手をやりかけて、そのままにした。
「……人の心が聞こえる話なら、昔話とか伝承では読んだことあるけど」
言葉を、そこで一度切る。
「本当にあるんだね」
「はい」
「御影さんと一瀬さんは、もう知ってるの?」
「この間、競馬場でお話ししました」
奈々子先輩が、膝の上で指を組んだ。
「……あのとき、気づいてあげられなくてごめんね」
「違います」
思ったより、強い声が出た。
「奈々子先輩が謝ることではありません。言えなかったのは、わたしです」
奈々子先輩は、少しのあいだこちらを見ていた。
それから、小さく頷く。
謝られたことが、少しだけ痛かった。
「……私のも、聞こえてた?」
「奈々子先輩からは、あまり。初めてお会いしたときからです」
「そっか」
それ以上は、聞かなかった。
◇
机の真ん中に、石はまだ置いたままだった。
すみれは、紐ごと、少しだけ奈々子先輩のほうへ寄せた。
「これが、母の形見です」
奈々子先輩が、顔を近づける。
「触ってもいい?」
「はい」
両手で拾い上げて、指の腹だけで持つ。窓の側へ一度向けて、それから置いたときと同じ向きで机へ戻した。
「人が大勢いるところだと、これが熱くなることがあります。神社の中だと、逆に冷たくなって……星乃先輩の近くでも、同じです」
奈々子先輩が顔を上げて、星乃先輩を見た。
星乃先輩は缶を持ったまま、何も言わない。
「それと、星乃先輩のお家には昔、持っていると妙な力が出ると言われていた剣があったそうです」
「剣?」
「そうらしい」
星乃先輩が、缶の縁を指でなぞった。
「私は見たこともないし、今はもう実家にも残ってない」
奈々子先輩の指が、膝の上で止まった。
すみれは、机の上の石を見た。
「……だから、知りたいんです」
顔を上げる。
「この石が、何なのか」
◇
「剣と、勾玉……」
奈々子先輩が、机の上へ目を戻した。
「なんだか、三種の神器みたいだね」
「あ、三種の神器! ゲームで聞いたことある!」
「ゲームかよ」
「知ってるからいいんよ」
奈々子先輩は、少し笑って、それからまた石へ目を落とす。
「剣と、鏡と、勾玉。三つで一組の」
指を三本立てて、また下ろす。
「もちろん、本当にそうだって意味じゃないよ。剣と勾玉って聞いて、ちょっと似てると思っただけ」
「……で、結局なんなん。それ」
りあさんが、石を指した。
「知らん」
星乃先輩が缶を置く。
奈々子先輩は、ゆっくり首を横へ振った。
「ごめん。分からない」
掛時計の音が、聞こえている。
◇
星乃先輩は、置いた缶へ手を伸ばさなかった。
立てた膝の上で、指が一度だけ動く。
「……神、な」
誰へ言うでもなかった。
「そういう話なら、もう一個あるな」
「……もう一つ、ですか」
「手がかりになるかは知らん。ただ、たぶん同じ側の話だ」
缶が、机へ下りる。
「私は、普通の奴には見えんものが見える」
「……は?」
りあさんだった。
「ほっしー、何言ってんの」
奈々子先輩の目が、机の端の缶へ落ちる。
「日渡先輩……それ、飲みすぎじゃないですか」
「あの、お水持ってきましょうか」
「ほっしー、まだ中二病治ってなかったん?」
「酔ってない。あと、りあは黙れ」
◇
「さっきからずっといるぞ」
りあさんが、顔を上げた。
「何が」
「そこだ」
星乃先輩が、顎で鴨居のほうを示した。
すみれは、そちらを見た。
古い木と、掛時計と、日に焼けた壁があるだけだった。
りあさんも見ている。奈々子先輩は、体ごとそちらを向いていた。
「……何もないじゃん」
「お前らには見えん」
「そういうのずるいんよ。じゃあ何がいるん」
「白い蛇みたいなやつだ」
「余計こわいが?」
すみれは、鴨居のほうを見たまま、口を開いた。
「……その方は、この石のことを、ご存じでしょうか」
星乃先輩が、そちらへ目をやる。
少しのあいだ、何も言わなかった。
「こいつも――」
途中で、止まる。
崩していた膝が、わずかに戻った。
「……悪かった」
誰へ言ったのか、すみれには分からなかった。
「え、いま怒られたん?」
「白蛇様も知らんそうだ」
「白蛇様」
りあさんが、繰り返す。
「そう呼ばんと、機嫌が悪い」
「ただ、そういうのは白蛇様だけじゃない。ほかにもいる」
星乃先輩が、机の上の石へ目を戻した。
「中には、これを知ってるのもいるかもしれん」
すみれは、少し身を乗り出した。
「そういう方たちにお会いできれば、何か分かるでしょうか」
「さあな」
立てた膝を、また崩す。
「そもそも、どこにいるかも知らん。会おうと思って会えるもんでもない」
「……そうですか」
「縁がありゃ、会えるかもな」
星乃先輩は、それだけ言って缶を持ち上げた。
◇
りあさんが、ようやく鴨居から目を離した。
「……ねえ、ほっしー。昔からそういうこと言ってたじゃん。見えるとか、いるとか」
「言ってた」
「あれ、本当だったん?」
「だからそう言ってる」
りあさんが、一瞬止まった。
それから、ぱっと身を乗り出す。
「じゃあ、必殺技とかも本当に出せたりするん?」
星乃先輩が、黙った。
缶へ手を伸ばして、口をつける。
「……あ」
りあさんが、乗り出した体を、ゆっくり戻した。
「そっちは設定だったん?」
「うるさい」
「えー。あーし、あの頃けっこう本気にしてたんだけど」
「というか、お前も人のことを言えるのか」
星乃先輩が、缶をりあさんのほうへ傾ける。
「ゲームばっかりやって、地味な眼鏡だっただろ」
「うわ、その話ナシって言ったじゃん」
「言われてない」
「あーしは成長したんよ」
「養殖ギャルが」
「酒飲み中二病に言われたくないんよ」
すみれは口元を押さえた。それでも、息が漏れた。
「スミレっちまで笑うん?」
「笑っていません」
「今の笑ってた」
「……少しだけです」
「はい、そこまでにしましょう」
奈々子先輩だった。
「だんだん、お互いの悪口になっています」
りあさんが両手を上げる。星乃先輩は缶へ口をつけて、それきり何も言わなかった。
奈々子先輩は、少し遅れて笑った。
◇
部屋が、静かになった。
奈々子先輩が、膝の上のノートをようやく開いた。開いたまま、何も書かない。
「……すみれ。お母さんは、これをどこで手に入れたんだろう」
すみれは、すぐには答えられなかった。
母の形見だと聞いている。それ以上のことは、聞いたことがなかった。
「……分かりません」
「家族から受け継いだのか、どこかで買ったのか、誰かにもらったのか」
奈々子先輩は、こちらを見ずに言っている。すみれへ尋ねているというより、自分の中で数えているようだった。
「そこが分かると、少しは進むと思う。物そのものが何かは分からなくても、どこから来たかなら、辿れることがあるから」
そこで一度、言葉を置く。
ノートの端を、指で押さえた。
「……お父さんは、何か知っていそう?」
聞き方が、いつもより慎重だった。
「父……」
聞かれて初めて、父に尋ねるという考えが浮かんだ。
それが、少しだけ妙だった。
「父が知っているかは分かりません。でも、わたしを引き取ってくださった当主様なら、何かご存じかもしれません」
誰も、それ以上は聞かなかった。
◇
奈々子先輩が、ノートへ短く何か書いた。
書いてから、顔を上げる。
「じゃあ……調べるなら、二つかな」
「一つは、日渡先輩に見えるもののなかに、この石を知っているのがいないか」
「面倒だぞ」
「はい」
そこは、流された。
「もう一つは、この石がどこから来たのか。お母さんの手元に来る前のこと」
言ってから、少し考える。
「どっちが先とか、今は分からないけど。両方だめかもしれないし」
「……調べたいです」
すみれは、机の上の石から目を上げた。
「どちらも、知りたいです」
「うん」
奈々子先輩が、ノートを閉じた。
◇
すみれは、石を襟元へ戻した。
「あーし、もうちょい居るわ」
りあさんが、両手を後ろについて言う。
「帰れ」
「やだ」
星乃先輩は、それ以上言わなかった。
玄関で靴を履いてから、すみれは振り返った。
「星乃先輩」
「なんだ」
「また、伺ってもいいですか」
「勝手にしろ」
◇
坂は、下るほうが短く感じた。
通りへ出たところで、奈々子先輩が鞄を持ち直した。
「私は根津から帰るね」
「駅まで、ご一緒します」
「大丈夫。少し寄りたいところがあるから」
断る言い方が、いつもと変わらなかった。
だから、すみれもそれ以上は言わなかった。
「すみれ」
呼ばれて、顔を上げる。
奈々子先輩は、何か言おうとして、口を開いた。
そのまま、少し止まる。
「……ううん。また大学でね」
「お気をつけて」
奈々子先輩が、通りの先へ歩いていく。
角を曲がる前に、一度だけ振り返って、手を上げた。
すみれも、手を上げ返した。
その姿が角の向こうへ消えてから、すみれも元浅草のほうへ歩き出した。
家までは、少し遠い。
それでも、歩いて帰れない距離ではない。




