特急りょうもうに乗って
特急りょうもうは、浅草を出てすぐに川を渡った。
網棚に、小さな旅行鞄が並んでいる。今夜は、屋敷に泊まることになっていた。
この石について、当主様なら何か知っているかもしれない。そう考えて、足利へ行きたいと言い出したのはすみれである。奈々子先輩は少しだけ間を置いてから、「うん。行こうか」と答えた。行き先が足利だと知った星乃先輩は、珍しく二つ返事だった。ほのかさんには、りあさんが声をかけてくれている。
初めは、五人で屋敷へ行くつもりでいた。
――みんなで押しかけるのは、迷惑じゃないかな。
そう言ったのは奈々子先輩だった。りあさんの縁結びの相談も、学食で聞いた日からずっと残っている。奈々子先輩が向こうの神社を調べてきて、昼のあいだは二手に分かれることになった。夜には、二人も屋敷へ来る。
そういうわけで、通路を挟んだ後ろの二人掛けには、奈々子先輩とりあさんが並んでいる。膝の上に、クリップで留めた紙の束が広げてあった。
「ナナコ先輩、これ山の上なん?」
「階段があるみたい。結構ある」
「先に言ってほしかったんよ。あーし今日サンダルだし」
「言ったでしょう」
「言われたけど、可愛いほうがいいじゃん」
機織りの神様を祀っているところで、縁結びで知られているらしい。
こちらは、背もたれを回して向かい合わせにした四席である。すみれとほのかさんが並んで、向かいに星乃先輩が腰を下ろしていた。
星乃先輩が、鞄から缶を出す。
「星乃さん、また朝から」
「旅だ」
それで済んでしまった。
「星乃先輩。この間のことを、ほのかさんへお話ししてもよろしいでしょうか」
「別に隠してない」
缶を開ける音がした。
浅草を出てから、すみれは星乃先輩の家であったことを、ほのかさんへ一通り話した。
「ん~~~」
聞き終えてから、ほのかさんはずっと腕を組んで天井のほうを見上げている。
「……あたしって、いつの間にか異世界に迷い込んだりしてないよね?」
「はい。たぶん、現実です」
「たぶんって」
「……確かめる方法を、存じ上げませんので」
ほのかさんが、組んだ腕をほどいた。
窓の外を、線路沿いの家並みが流れていく。
しばらく、何も言わなかった。
「……すみれちゃん」
「この間は、ごめんね」
すみれは、隣を見た。
「あたしが競馬に誘ったから。行こうって言ったの、あたしだし」
「ほのかさんのせいでは、ありません」
「あの日、競馬場へ行ったのは、わたしが自分で決めたことです。……それに」
あの日を思い出そうとして、最初に浮かんだのは馬だった。
ほかの馬がまっすぐ前を向いて歩いていくなかで、一頭だけが首をゆっくり回して、柵の外に並んだ人を端から端まで見ていた。その目が、こちらで止まった。
あんなに大きな目を、あんなに近くで見たのは初めてだった。
「わたしも、お馬さんに会えたのは楽しかったです」
言ってから、別のものが浮かんだ。
光の入る通路に立っていた、二人。
胸の奥が、ちくりとした。
名前も知らない。どこの人かも知らない。もう一度会って謝れる見込みは、どこにもない。
あの日のすべてが嫌だったわけではない。
馬たちが走り出したところまでは、覚えている。目で追っていたはずなのに、そのあとが残っていない。どの馬が先に入ったのかも、自分で選んだ一頭がどうなったのかも、思い出せなかった。
「また行きましょう、ほのかさん」
ほのかさんが、こちらを見た。
「……え」
「今度は、最後まで見たいんです。馬たちが、ちゃんとゴールするところを」
ほのかさんは、すぐには何も言わなかった。
何度か瞬きをして、それから息を吸う。
「……ありがとう、すみれちゃん」
少しだけ、声が湿っていた。
「なんとかしようね」
「はい。ほのかさんにも付き合っていただけて、心強いです」
通路の向こうで、缶が肘掛けの上へ下りた。
「私も馬券買いたかったな」
ほのかさんが笑った。
「じゃあ、星乃さんも来てくださいよ。今度は」
「気が向いたらな」
ほのかさんの目が、すみれの襟元のあたりで止まった。
「思ったんだけどさ。その、勾玉……で合ってる? それって、やっぱりすみれちゃんの聞こえるのと関係してるんだよね」
「……おそらくは。ただ、まだ分かりません」
「それって、外したらどうにかなるものじゃないの?」
すみれは、襟の上へ指を当てた。
「高校の頃、何度か外してみたことがあります。これが原因なら、外せば聞こえなくなるんじゃないかと思って。……でも、変わりませんでした。むしろ、外している方がひどかったです」
それが何なのかは、今も分からない。
ほのかさんが、向かいへ体を向けた。
「それって、外すと勾玉が怒るとか、そういうことなんですかね、星乃さん」
「さあな。そこまでは私にも分からん」
「その……白蛇様もいらっしゃるんですよね」
「いるぞ」
「白蛇様も、この勾玉のことは知らないんですか」
「知らん。こいつ……白蛇様だって万能じゃない」
星乃先輩は、それきり何も言わなかった。
「……そうですか」
ほのかさんが、通路の先や網棚のあたりへ、順に目をやる。
いつもの電車の中と、何も変わらない。
「なんか、まだ変な感じするな」
すみれは、少し気になっていたことを聞いた。
「りあさんからは、わたしや星乃先輩のことを、何も聞いていなかったのですか」
「『すみれちゃんと星乃さんに直接聞いて』って。それくらい」
「あ、でも」
ほのかさんの口元が、少しだけ上がった。
「星乃さんが昔、中二病だったって話は聞いたんだよね」
「……おい、りあ」
「ほのっち、それ内緒だって!」
ほのかさんが噴き出した。後ろでりあさんも笑っている。星乃先輩は缶を持ったまま、窓の外を睨むようにしていた。
すみれの口からも、息が漏れた。
奈々子先輩も、笑っていた。
目が合った。
――と、思った。
その視線は、すぐにりあさんの手元の紙へ戻っていた。
気のせいだろうか。
りあさんが身を戻して、隣の奈々子先輩を見る。それから、通路のこちら側をもう一度見て、何も言わずに紙へ目を落とした。
窓の外は、いつのまにか、家より田のほうが多くなっている。
刈ったあとの田が、続いていた。
◇
改札を出ると、人の流れが急にまばらになった。
駅前の通りの向こうに、低い山が並んでいる。高くはない。ただ、家の屋根のすぐ上から始まっている。
その稜線の形を、すみれは知っていた。どこがへこんでいて、どこで一度だけ上がるか。名前は知らない。窓から、ずっと見えていただけの山である。
奈々子先輩が、鞄を持ち直した。
「じゃあ、私たちはあっちから行くね。あとで連絡する」
「あーし、階段のぼれるか分かんないけど」
「のぼるの」
りあさんが、こちらへ手を振った。
「スミレっち、いってらっしゃい。あとでお邪魔するね」
その言い方が、なぜだかおかしかった。
「……いってきます」
二人が、通りの先へ歩いていく。
角の手前で、奈々子先輩が一度振り返って、手を上げた。
すみれも、上げ返す。
二人が、見えなくなった。
夜には、屋敷で会える。
それでも、奈々子先輩にも来てほしかった。
そう思っている自分に、すみれは今、気づいた。
ほのかさんが、隣へ来ていた。
「行こ」
先に歩き出したのは、ほのかさんだった。
◇
橋は、思っていたより長い。
欄干の向こうで、川が広く光っていた。水は少なくて、中州のあたりだけ草が伸びている。
星乃先輩が、途中で足を止めた。
「なあ。この橋が渡良瀬橋か?」
「いえ、違いますよ。奈々子先輩たちが行かれたほうが、渡良瀬橋です」
「……そうなのか」
星乃先輩は、しばらく上流のほうを見ていた。
それから、何も言わずに歩き出す。
ほのかさんと、目が合った。
どちらも、何も言わなかった。
橋を渡りきると、道が細くなった。
「……そういえばさ」
ほのかさんが、少し歩調を落とす。
「今は、あたしの声とかも聞こえてないんだよね?」
「はい。星乃先輩もいらっしゃいますし、今はほとんど」
「……じゃあ、今までは?」
どきりとした。
嘘は、つけない。
「……感情が聞こえたことは、あります。言葉ではなくて、気持ちのほうです」
「そっか。そうだよね」
ほのかさんが、少し照れたように笑った。
「今さらだけど、ちょっと恥ずかしいな」
「……すみません」
「でも、すみれちゃんが聞こうとして聞いてるわけじゃないもんね」
「……ありがとうございます」
◇
屋敷へ向かう途中で、すみれは道の端へ寄った。
向かいの家には、昔、通るたびに吠える犬がいた。今はもう、いない。
それでも、足は同じ側を選んでいる。
白い塀が始まった。瓦を載せた長い塀が、道の先まで続いている。
人と一緒にいることが苦しくなってから、この家に友達を連れてきたことはなかった。
「……ねえ。これ、まだ同じ家?」
「はい」
「……ここ、全部?」
「はい」
「豪邸すぎない?」
「……でかいな」
門は、開いたままだった。
くぐると、三人分の足音が砂利を鳴らした。
玄関先では、着物に羽織を重ねた当主様が、箒で地面を掃いていた。
こちらに気づいて、手が止まる。
細い目が、いっそう細くなった。
「おかえり、すみれ」
すみれは、鞄の持ち手を握り直した。
「……ただいま戻りました、当主様」




