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すみれの故郷

当主様は、箒を壁へ立てかけて、すみれの後ろへ目を移した。


「君たちが、すみれの友達かな」


「あ、はい。一瀬ほのかです。今日は、お邪魔します」


 いつもより、声が高い。


「星乃だ」


「うん。よく来てくれたね」


 すみれは、鞄の持ち手を握り直した。


「当主様。あとで少し、お聞きしたいことがあります」


「ああ、分かったよ、すみれ」


 すみれは、当主様と星乃先輩を見比べた。


「星乃先輩と当主様は、気が合うかもしれません」


「ほう、酒好きということか」


「はい。それもあるんですが……」


「まあ、立ち話もなんだから。三人とも疲れたろう。荷物を置いて、ゆっくりしてきなさい」


「ありがとうございます。では、また後ほどお伺いします」


「また後でね」


 言いかけたことは、そのままになった。


     ◇


 玄関を上がると、天井が高い。柱が太く、板張りの廊下が奥まで続いている。


 ほのかさんは、歩きながらずっと上のほうを見ていた。


 その廊下の先から、黒と白のメイド服が現れた。


「おかえりなさいませ、すみれお嬢様」


「ちょ、ちょっと待っ――」


「ご友人の皆様も、ようこそいらっしゃいました」


「うむ」


 星乃先輩は、なぜか満足そうだった。


「ほわー……メイドさんって、本当にいるんだ……」


「いや、待ってください!」


「お部屋はこちらになります」


 もう歩き出している。


「待ってください」


 止まらない。ほのかさんが当たり前のような顔でついていって、星乃先輩も続いた。


「こちらのお部屋をお使いください」


 庭に面した、十畳ほどの座敷だった。


「あの、これはどういう――」


「あとでお茶とお菓子をお持ちしますね、すみれお嬢様」


 襖が閉まった。


「すみれちゃんって、お嬢様だったんだ」


「違います!」


 星乃先輩は、座布団も使わずに縁側の際へ腰を下ろして、庭のほうを向いている。


 その人が盆を持って戻ってきたのは、少ししてからだった。


「どういうことですか!」


「ごめんごめん」


 笑いながら、座卓へ盆を置く。


「すみれが友達を四人も連れて帰ってくるって聞いたら、嬉しくなっちゃって」


「だからって、どうしてお嬢様になるんですか」


「一回やってみたかったから」


「もう……」


 さっきまでの言葉遣いが、どこかへ行っている。


「ふふ。お友達も、ゆっくりしていってね」


「ありがとうございます!」


「倉坂美由紀です。当主様の秘書みたいなことをしてます」


「秘書なのに、メイド服なんですか?」


「ふふ。好きで着てるの」


 美由紀さんが、すみれのほうを向いた。


「すみれも、その格好似合ってるね」


「ありがとうございます」


「東京に行ってから?」


「はい」


「そっか。いいね」


 盆を持って、美由紀さんが立ち上がる。


「じゃあ、ごゆっくり」


     ◇


「すっごい広い!」


 ほのかさんが、天井を見上げた。


「旅館みたい!」


 星乃先輩は、もう畳へ寝転がっている。


「星乃先輩、早くないですか」


「疲れた」


 ほのかさんが、座布団を引き寄せて座った。


「ねえ。美由紀さんって、昔からあんな感じなの?」


「はい。メイド服だけではなくて、給仕の格好をされていたり、普通の服だったりします」


 星乃先輩が、天井のほうを向いたまま言った。


「お前のその格好は、この家の影響か」


「いえ、わたしは母の――」


 言いかけて、止まった。


 美由紀さん。当主様。この家にいた人たち。


 好きな服を好きに着ている大人を、昔からずっと見ていた。


「……そうかもしれませんね」


 星乃先輩は、それきり何も言わない。


「ねえ、すみれちゃん。奈々子さんとりあすけ来るまでどうする?」


 すみれは、少し考えた。


「当主様にお聞きするのは、みんなが揃ってからにします」


 当主様には、このまま話すつもりでいた。


 けれど、奈々子先輩とりあさんにも、そばにいてほしかった。


「そっか」


「よろしければ、家の中をご案内しましょうか」


「おー、豪邸探検! 楽しそう!」


 ほのかさんが、勢いよく立ち上がる。


「私はここでゆっくりさせてもらう」


 星乃先輩が、鞄から缶を一本取り出した。


     ◇


 日が傾きはじめた頃、奈々子先輩とりあさんが戻ってきた。二人が当主様へ挨拶を済ませるのを待って、みんなで居間へ入った。


 当主様は、座卓の向こうに座っている。昼間の和装ではない。軍服を思わせる詰襟姿で、湯呑みをすすっていた。


 見慣れているはずなのに、少しだけ妙だった。


 りあさんが座卓の端に紙を広げて、奈々子先輩に何か聞いている。星乃先輩は、柱に背を預けて座った。


 ほのかさんが、すみれの袖を引いた。


「すみれちゃん。当主様、さっきと服違くない?」


「はい。当主様の趣味です」


「なるほど……なんか、この家の人たち分かってきたかも」


 当主様が、湯呑みを置いた。


「それで、私に聞きたいことっていうのは?」


「この石のことです」


 紐を引いて、襟から出す。翡翠を思わせる青緑が、傾いた日を弱く返した。


 当主様は、少しだけ身を乗り出して見た。手は伸ばさない。


「ああ、それ。お母さんが持っていたものだね」


「……はい。どこで手に入れたものかは、ご存じですか」


「それは知らないな」


 当主様が、姿勢を戻した。


「どうして今、それを?」


 ほのかさんにも、りあさんにも、奈々子先輩にも、もう話している。


 星乃先輩は、初めから知っていた。


 ここまで来て、当主様にだけ隠したままにするのは、違う気がした。


 それでも、すぐには声が出なかった。


「わたし、人の感情が聞こえるんです」


 言い終えると、急に喉が乾いた。星乃先輩がすぐそばにいるせいで、当主様からは何も流れ込んでこない。握った石も、指の中で冷たいままだった。


 すみれは、当主様の顔を見た。


 当主様が、顎へ手をやった。


「聞こえるっていうのは、どういうことなんだい」


「疲れているとか、怒っているとか……そういう感情が、聞こえてしまうんです」


 一度、息を継いだ。


「今までは、それだけでした」


 石を握った指が、汗ばんでいた。石のほうは、冷たいままだった。


「でも、この間……初めて、心の声まで聞こえてきました。それで、この石のことを知りたいと思ったんです」


 当主様の手が、顎から離れた。


「……さすがに、すぐには信じられないな」


 少しのあいだ、誰も何も言わなかった。


「私も、最初は信じられませんでした」


 ほのかさんが、先に口を開いた。


「でも、本当です」


 りあさんが、広げていた紙をたたんで脇へ寄せた。


「あーしも見てます。何回か」


 二人が、これまでに自分たちが見たことを順に話していく。奈々子先輩が、ときどき短く言葉を足す。星乃先輩は、何も言わなかった。


 話が終わっても、当主様はしばらく黙っていた。


 やがて、何かに引っかかったように眉を寄せる。


「……いや、待てよ」


 視線が、すみれではないどこかへ向いた。


「うん……あれは、本当だったのか?」


 奈々子先輩が、少し身を乗り出した。


「何か、思い当たることがあるんですか?」


「君のお母さんも、昔、よく似たことを言ってた」


「え」


 声が、うまく出なかった。


「……母が、ですか」


「うん。人の思ってることが、うっすら分かることがあるんだ、って。酒が入るとそういう話をする人でね。私はずっと、冗談だと思ってた」


 当主様はそこで言葉を切ると、すみれの手の中の石へ目を落とした。


「それだけじゃない。その石のことも言ってた。これが私を守ってくれるんだ、って」


 府中で、胸元を押さえた手のひらへ返ってきた、あの脈のような感触を思い出した。


 当主様は、少し迷うようにすみれを見た。


「……すみれ。高校の頃のこと、ここで話してもいいかい」


 すみれは一度だけ息を吸った。


「……はい」


「一時期、ほとんど部屋から出なかったことがあっただろう」


 すみれは、少し俯いた。


「……はい」


「私たちも、あの頃はどうしたらいいのか分からなくてね。何かあるんだろうな、とは思ってた。……まさか、そんなことが起きていたとは思わなかったよ」


 当主様が、深く息を吐いた。


「気づいてあげられなくて、申し訳なかった」


 すみれは、小さく首を振った。


「いえ。わたしも、誰にも相談できなかったので」

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