懐かしい部屋
誰も、しばらく何も言わなかった。
「それで、その石について、ほかに分かることはないのか」
柱に背を預けたまま、星乃先輩が言った。
当主様は、湯呑みへ手を伸ばしかけて、途中で止めた。
「そうだね。私が知っているのは、それくらいだ」
言葉を選ぶような間があった。
「すみれのお父さんなら、何か知っているかもしれないけど……あいにく、今は連絡を取っていないんだ。だから、私にも分からない」
誰も、すぐには何も言わなかった。
りあさんの手が、膝の紙の上で止まっている。
父。
その一言が、少し遅れて残った。
聞こうと思えば、まだ聞けたはずだった。けれど、何を聞きたいのかが浮かばなかった。
「……そうか」
星乃先輩は、それだけだった。
また、部屋に沈黙が落ちる。
「そういえば、すみれちゃん。さっき当主様と星乃さん、気が合いそうって言ってたよね。なんで?」
答える前に、星乃先輩のほうが口を開いた。
「美味い酒を飲ませてもらえるのか」
「ああ。夕食の時に一緒にやろうか」
「当主様。お酒もですが、星乃先輩は中二病なんです」
「……は?」
「なので、当主様と気が合うと思いまして」
「おお、そうなのかい。確かに、その黒いジャケットも雰囲気あるねぇ。夕食の時に、酒でも飲みながら存分に語ろうじゃないか」
りあさんが、堪えきれずに畳へ突っ伏した。ほのかさんは口を押さえ、奈々子先輩は湯呑みで顔を半分隠している。
「……お前ら。あと、りあ、許さんぞ」
「なんで!? あーし今回なんも言ってなくない!?」
◇
「遠慮なく食べてくれ。星乃くんも、機嫌を直して語ろう」
「うるさい。酒、おかわり」
美由紀さんが、徳利を持って回ってくる。
「あらあら。すっかり打ち解けましたね」
ほのかさんは、二度ご飯をよそってもらった。
りあさんが、箸を持ったまま部屋を見回す。
「ここの家って、みんな好きな格好してて、なんか自由ですね」
「当主様がああいうお方なので、みんな好きにやってるんです」
「もっと厳しい人なのかと思ってました。当主様っていうくらいだし」
りあさんが、今度は当主様のほうを見る。
「その呼び方も、みんな当主様の趣味に付き合ってるんですよ」
「趣味なん!?」
「趣味とは心外だなぁ」
美由紀さんは、すみれの隣へ腰を下ろした。
「そういえば、すみれ。その格好、東京へ行ってからだよね。どうして和装をするようになったの?」
すみれは、箸を置いた。
「少し、自分を変えてみたくて」
言ってから、もう一つ足した。
「母の写真を、真似したところもあります」
「ああ、あのゲームの衣装か」
「……ゲームの衣装?」
「うん。昔好きだったゲームの登場人物の格好だよ」
「……母が?」
「してたよ。コスプレ。昔、大正浪漫みたいな街とロボットを組み合わせたゲームがあってね」
「あーし、それ知ってる!」
「……ああ、あれか」
「おや。二人とも分かるのかい」
当主様が、少し嬉しそうに猪口を持ち直した。
「歌は知ってる」
「そう、歌がよくてね。私は今でも聴くよ」
「ほっしー、ほんと何年前まで分かるん」
「歌に年齢はないだろ」
すみれは、話が別の方へ流れていくのを見ていた。
「あの、少しだけ、お待ちいただけますか」
箸を置いて、座敷へ戻る。鞄の内側から写真を出して、廊下を急いで引き返した。
座卓へ置くと、当主様が身を乗り出した。
「そうそう。これこれ」
薄紅色の着物に、濃い色の袴。髪には大きなリボンが結んである。母は少し横を向いて、口を開けて笑っていた。
「似合ってるだろう? 本人も気に入ってたよ」
「わたし、普通の和服だと思っていました」
横から写真を覗き込んでいたほのかさんが、ふいに顔を上げた。
「……待って。すみれちゃん、本当にコスプレだったんじゃん!」
「母です! わたしではありません!」
ほのかさんは、何のことか分からないりあさんと星乃先輩へ、海老名で男の子から「コスプレのお姉ちゃん」と呼ばれた時のことを、笑いながら説明した。奈々子先輩も覚えていたらしく、途中から口元を隠している。
すみれはもう一度写真を見る。母まで一緒になって笑っているようで、何を言えばいいのか分からなくなった。
「……わたしも、今、初めて知りました」
そう言うと、声の最後が少し笑いになった。
写真の母は、片方の袖をもう片方の手で押さえている。笑う拍子にずれたのか、リボンは少し傾いていた。
すみれは、その傾きを初めて見つけた。
食事はそのまま、母の昔の話へ流れた。母はよく喋り、時間にはあまり正確ではなかったらしい。ゲームの先を当主様が話すと、「まだそこまで進んでない」と止めていたという。
◇
食事のあと、順番に風呂を借りた。
十畳の座敷へ戻ると、押入れから出した布団が端へ積まれ、みんなの鞄がその隣に並んでいる。いつもは大学や「結」で聞く声が、この家の廊下まで通ってくる。
「そろそろ布団敷こっか。あーし、脚もうだめ」
りあさんが、膝をさすりながら座り込んだ。
襖の隙間から、美由紀さんが顔を出す。
「すみれは、お友達と同じ部屋でいいのよね。自分の部屋も使えるけど」
「わたしの部屋、まだ使えるんですか」
「うん。本を少し寄せたくらい。ときどき窓も開けてるよ」
「ありがとうございます。今日は、皆さんと一緒の部屋でお願いします」
「はいはい。部屋のほうも、好きに使ってね」
りあさんとほのかさんが布団を広げ始める。すみれも一枚目を並べてから、美由紀さんに言われた部屋のことが気になり、少しだけ廊下へ出た。
◇
引き戸の前で、すみれはいつもの場所へ手を伸ばした。
明かりをつけると、机が見えた。窓の下にある棚も、椅子も、そのままだった。ただ、棚の本は片側へ寄せられ、机の上には何も出ていない。
東京へ持っていったものの分だけ、空いている。
椅子を引く。背もたれの上に手を置いても、埃はつかなかった。
ここで着替えて、ここで宿題をしていた。高校の鞄を置いていた場所には、畳の色が少し濃く残っている。
すみれは、押し入れを開けた。
下の段に、浴衣がたたんで重ねてあった。三枚ある。丈が、それぞれ違う。
一番上の一枚を畳へ広げると、裾の内側に、糸の色が違うところがあった。何度か出してもらった跡である。
選んだのは、美由紀さんだった。
すみれは隣で、白地に朝顔の柄のほうを見ていた。それが可愛いと思っていたのに、美由紀さんは紺地の一枚を取って、すみれのほうへ広げてみせた。
――すみれは、こっち。
どうしてそちらなのか、その時は分からなかった。
東京で自分で選ぶようになってからも、結局、似たような色ばかりを選んでいる。
広げた浴衣を膝へ引き寄せたところで、廊下に足音がした。
「あ、ここにいたんだ」
引き戸の向こうに、奈々子先輩が立っていた。片手に湯呑みを持っている。
「お水をもらった帰り。明かりがついてたから」
「はい。少し、見ておきたくなって」
「ここが、すみれの部屋?」
「高校を卒業するまで、使っていました」
奈々子先輩は、入口から棚のほうを見た。
「教科書、まだあるんだね」
「全部捨てるのは、もったいない気がして」
すみれは、膝の浴衣を脇へ置いた。
「よろしければ、どうぞ」
言ってから、座布団も出していないことに気づく。
「あ、何か敷くものを」
「大丈夫。ここでいいよ」
奈々子先輩は、畳へ腰を下ろした。湯呑みを膝の前に置く。
この部屋に、奈々子先輩がいる。
すみれは、棚と奈々子先輩を交互に見た。何から話そうか考えているのに、さっきから同じことばかりが浮かんでくる。
「すみれ?」
「あの」
声を出してしまってから、迷った。
奈々子先輩は待っている。
「今日、電車で……わたし、何か、お気に障るようなことをしましたか」
「してないよ」
返事はすぐだった。
すみれが息を吐きかけた時、奈々子先輩は自分の膝へ目を落とした。
「ただ、私……すみれを避けてたのかもしれない」
脇へ置いた紺の浴衣が、視界の端にあった。
たたもうとして、手を止める。
「この間、お話ししたことが……」
「すみれが悪いんじゃないよ」
奈々子先輩は顔を上げた。続けようとした口が、一度閉じる。
「自分のことを考えたくなくなる時があって。うまく言えないんだけど」
廊下の向こうで、何かを引きずる音がした。布団を敷く場所が決まったのか、ほのかさんがりあさんを呼んでいる。
奈々子先輩は、何も言わずに座っていた。
自分のこと。
どんなことなのか、すみれは知らない。あの通りで、言いかけてやめたことも。今日、目をそらした時に、考えていたことも。
聞きたいことがいくつも浮かんだ。けれど、奈々子先輩の声は、まだその先へ進まなかった。
「……わたし、奈々子先輩からあまり聞こえないことに、安心しすぎていたのかもしれません」
奈々子先輩を見た。
「私だって、言わなかったから」
奈々子先輩はそう言って、湯呑みへ口をつけた。
すみれも黙った。
今は、奈々子先輩がここに座っている。その顔を見ながら、何を聞いていいのか、まだ迷っている。
「……今日は、最初から一緒に来ていただけたら、嬉しかったです」
奈々子先輩の手が止まった。
「屋敷へ?」
「はい。皆さんと、玄関を入れたらと思っていました」
言ってから、慌てて言葉を足す。
「神社へ行かれるのを、やめてほしかったわけではないんです。りあさんのお話もありましたし」
「うん」
「ただ、そう思ったので」
奈々子先輩は、すぐには答えなかった。
湯呑みを持つ指が、ゆっくり持ち直される。
「……そっか」
すみれは頷いた。
言ったことを、取り消したくはなかった。
しばらくして、奈々子先輩が空になった湯呑みを畳へ置いた。
「もう少し、ここにいてもいい?」
「はい」
今度は、迷わずに返事ができた。
奈々子先輩は棚の背表紙を眺め、すみれは広げたままの浴衣をたたみ直した。畳に広げていては、二人の脚が入らない。
たたんだ浴衣は、押し入れへは戻さずに、机の上へ置いた。
押し入れを閉めて、二人の座れる場所を少し広げた。




