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泣いていない子

「いや〜、スポットたくさんあったね!」


「はい。たくさんゲットできました」


 参拝の帰り、乗り換えまでの時間を潰すつもりで寄った海老名のビナウォークを、気づけば一時間近く歩き回っていた。


「イケメモ、こんなにあるものなんですね」


「モールとかは多いんだよ。あとで一緒に見よ」


 ほのかは、朝からいちばん機嫌がいい。


「トイレ行ってくる」


「あ、あたしも!」


 ほのかが星乃のあとを追っていく。


 残ったすみれと奈々子は、広場のベンチの近くで足を止めた。


     ◇


 広場には、大きなビニールプールができていた。


 滑り台から子どもが飛び出し、水しぶきと歓声が上がる。周りでは、親たちがスマートフォンを向けていた。


「楽しそうですね」


「すみれも入ってくれば」


「この格好でですか」


「目立つね」


「からかっていますか」


「少し」


 奈々子が、わずかに笑った。


 また一人、滑り台を下りてくる。


 水しぶきが上がり、大きな歓声が響いた。


 その中に、ひとつだけ、笑っていないものが混じった。


 ――え?


 寂しい。


 心細い。


 すみれは顔を上げた。


 プールから少し離れた階段の下に、小さな男の子が立っている。五つか、六つくらいだろうか。恐竜のリュックを背負っていた。


 泣いていない。声も出していない。


 だから、誰も足を止めない。


「すみれ?」


「……いえ」


 石は冷たいままで、届いてくるものも薄い。


 あの子からなのだろうか。


 見たところ、特に困ってはいない。


     ◇


「お待たせー」


 ほのかと星乃が戻ってきた。


 細い糸が、さらに遠くなる。


 気のせいだろうか。


 いや。でも、気になる。


「星乃先輩」


「ん」


「お酒。お酒は、よろしいのですか」


 三人が、こちらを見た。


「すみれ?」


「すみれちゃん!?」


「いや、ないならないで」


「わたしも! お付き合いしますので! 買いましょう!」


「まあ、そこまで言うなら」


「コンビニは、外に出たところにあるみたいです! お願いします!」


「お前は行かないのか」


「き、着物が暑くて……お願いします!」


「……行ってくる」


 黒い上着が、通路の向こうへ歩いていく。


「すみれ、あまり飲みすぎはよくないよ」


「この間も一人でお店に来てたし、すみれちゃんの未来は星乃さんコースかな?」


「……」


 なんだか、人として大切な何かを失った気がする。


 星乃先輩、ごめんなさい。


 その間にも、胸元の石は体温へ戻っていった。


 肌へ触れるものが、また増える。


 階段の下を見る。


 胸元が、ざらりと熱を帯びた。


 やっぱり、あの子だ。


     ◇


 気づいたときには、歩き出していた。


 男の子の前で膝を折る。羽織の裾が、地面へ触れた。


「こんにちは」


 まばたきが少ない。唇を内側へ巻き込むようにして閉じている。


「お母さんと、はぐれてしまいましたか」


 目が、大きくなった。


 こくん、と小さく頷く。


「すみれちゃん!?」


 ほのかが駆け寄ってきた。奈々子も、すぐ後ろにいる。


「迷子です」


「え、ほんとだ。なんで分かったの?」


 答えるより先に、ほのかが男の子の前へしゃがんだ。


「どっから来たの?」


 男の子が、二階の映画館を指した。


「あー。ここ、階段いっぱいあるからね。前の人について降りちゃったのかも。あたしも小さい頃やった」


「では、お母さんは上にいるかもしれませんね」


「戻ってくると思う」


 奈々子が短く言った。


「上に行こう。いなくなった場所に戻るのが、いちばん見つかりやすい」


     ◇


 三人で男の子を連れ、映画館の前まで上がったが、母親らしい人はいない。


「私、インフォメーションに行ってくる」


 奈々子は、それだけ言うと歩き出した。


「え、早」


「ここで待ってても仕方ないから」


 こういうとき、この人は速い。


 すみれは、ほのかを見た。


「ほのかさん」


「はい」


「この子と一緒に、ここで待っていてあげてください」


 ほのかが目を丸くする。


「すみれちゃんは?」


「探してきます」


「え、どこを?」


「向こうまで」


 通路の先を指した。


「……りょ、了解」


 男の子の前へ、もう一度膝を折る。


「お名前を、教えていただけますか」


 小さな声が返ってきた。


     ◇


 通路へ出て、歩き出す。すぐに、足が速くなった。


 裾が邪魔で、片手でまとめる。ブーツが、床を鳴らした。


 息を吸う。


「はると君の、お母さーん!」


 思ったより、大きな声が出た。


 何人かがこちらを見る。耳の後ろが熱くなった。


 迷惑だ、という感情が届く。


 痛い。


 でも、あの子の方が、もっと痛い。


 建物と建物をつなぐ通路が、下の広場を囲むように続いている。


「はると君の、お母さーん!」


 焦りは、いくらでも届いた。待ち合わせに遅れた人。子どもを叱っている親。行き先を決めかねている人。


 違う。そういうのではない。


 子どもが、いなくなった人の――。


 人の間を抜ける。肩がぶつかりかけて、半歩だけ横へずれた。


 息が上がる。それでも、足はまだ動く。体を鍛えておいてよかった。


「はると君の、お母さーん!」


 胸元が、ざらりと熱を持った。


 近い。


 足を止めて、見回す。


 人しか、いない。


 熱は、どちらとは教えてくれない。この辺りにある、としか言わない。


 もう一度、息を吸った。


「はると君の、お母さーん!」


 流れの中で、ひとりだけ動きが違った。


 みんなが同じ方へ歩いていくのに、その人だけが、行ったり来たりしている。


 顔が、こちらを向いた。


     ◇


 映画館の前へ戻ると、男の子が走り出した。


 背中の恐竜が、跳ねながらついていく。


 女性がその場にしゃがみ込み、両腕で受け止めた。何か言っていたけれど、こちらまでは聞こえない。


 抱きしめる腕の方が、言葉よりずっと強かった。


 胸元の石は、もう体温に戻っていた。


「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」


 何度も頭を下げられ、すみれもそのたびに下げ返した。


 母親に手を引かれた男の子が、途中で一度だけ振り返る。


「コスプレのお姉ちゃん、ありがとう!」


 ……。


「……コスプレでは、ないのですが」


 返事は、届かなかったと思う。


 横で、奈々子が口を押さえていた。肩が細かく揺れている。


「ちょっ、待って、コスプレ……!」


 ほのかは、もう完全に笑っていた。


「笑わないでください」


「無理! 無理だって!」


「奈々子先輩も、笑っています」


「笑ってない」


「肩が動いています」


「動いてない」


     ◇


「よく気づいたね」


 笑いが収まってから、奈々子が言った。


「……いえ」


「あの子、泣いてなかった。騒いでもなかった」


「はい」


「私、全然分からなかった」


「……なんとなく、です」


 嘘ではない。ただ、全部でもない。


 高校の頃にも、困っている人へ声をかけたことがある。


「どうして分かったの」と聞かれて、答えられなかった。


 その日から、その人はすみれと目を合わせなくなった。


 あのときと、同じことをした。


「すみれのそういうところ、私は好きだよ」


 奈々子の顔を、見られなかった。


「……ありがとうございます」


 それしか出てこなかった。


「え、なになに。何の話ですか」


「なんでもない」


「絶対なんかありましたよね!?」


     ◇


 服の上から、胸元へ触れる。


 あの子の心細さに、石は熱を持った。母親の焦りにも、少しだけ。


 二人が抱き合ったあとは、何も起きなかった。


 この石は、苦しい方へ引かれるらしい。


 いつもは、勝手に届いてくるものだった。避けて、受け流して、聞かなかったことにしてきた。


 今日は、自分から探した。


 ――こういう使い方も、あるんですね。


 石は、当然何も答えない。


     ◇


「あ」


 階段を降りたところで、ほのかが足を止めた。


 広場のプールでは、まだ子どもたちが歓声を上げている。


 その脇に、家族連れに交じるでもなく、酒の袋を提げた黒い上着がぽつんと立っていた。


 忘れていた。


「星乃さん」


「……」


「星乃さーん」


「……いた」


「プ、プール、楽しそうですよね」


「買いに行かせておいて、置いてけぼりとはいい度胸だな」


「も、申し訳ありません!」


「この暑い中を、往復してきたんだが」


「本当に、申し訳ありません!」


「事情があったの」


 奈々子が横から言った。


「迷子の子がいて」


「知ってる」


「え?」


 星乃が、上を指した。


 広場から見上げると、二階の通路がぐるりと見える。


「そこを、叫びながら走ってた」


 ……。


 すみれは、自分がさっき何をしていたのかを思い出した。


 裾をまとめて、人の間を縫って、大声を出しながら。


 顔が、一気に熱くなる。


「見て、いらっしゃったんですか」


「よく通る声だな」


「……お忘れください」


「無理だな」


「知ってて怒ってたんですか!?」


「暑かったのは事実だ」


 星乃は、酒の入った袋を三人の前へ突き出した。


「とことん付き合ってもらうぞ」


「私は飲まないよ」


「あたし、明日バイトなんで」


「……すみれ」


「はい」


「ロマンスカー、楽しみだな」


 袋の中で、缶が触れ合う音がした。

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