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この街

 奈々子先輩のスマートフォンの画面に、『よつやまほ』という名前が表示されていた。


「真帆さんからですか?」


 ほのかさんが横から訊ねると、奈々子先輩は画面をタップしてメッセージを開いた。


「うん。今日、帰りの汽車って何時ごろ、って」


「汽車?」


 ほのかさんが聞き返す。奈々子先輩は画面を見ながら答えた。


「こっちだと汽車って言っちゃうんだよね」


「へえー、なんか旅って感じがしていいですね!」


 奈々子先輩は時刻表を確認し、乗る予定の汽車の時間を返信した。


 すぐに短く震えて、真帆さんから『そっか〜! 気をつけて帰ってね〜』と返事が届いた。


 奈々子先輩はしばらくその返事を見てから、画面を消してスマートフォンを鞄にしまった。


「……LINEをくれるくらいには、大切に思われてるってことかな」


 自分に言い聞かせるような、少し小さな声だった。


「そうですよ! どうでもよかったら、わざわざ帰りの時間なんて聞いてこないって!」


 ほのかさんが明るく言う。すみれには、真帆さんがどんな気持ちで連絡をくれたのかまでは分からない。それでも、ほのかさんの言葉に頷いた。


 奈々子先輩は鞄の紐を肩にかけ直した。


「そろそろ行こっか」


「はい!」


 三人は神社の前から歩き出し、港の近くにあるお店へと向かった。


     ◇


 奈々子先輩が案内してくれたのは、一階が広いお土産売り場になっている建物の二階にある食事処だった。


 階段を上がって店内へ入ると、窓の向こうに明るい海が見えた。昼時とあって、テーブル席は観光客らしい家族連れやグループで賑わっている。


 空いていた窓際の席に三人で腰を下ろすと、奈々子先輩は店内の品書きや壁の写真を眺めながら言った。


「ここ、入るの初めてなんだ」


「えっ、そうなの? 有名なお店なんでしょ?」


 メニューを開いていたほのかさんが顔を上げる。


「うん。でも、子どもの頃は、こういう観光客向けのお店ってあんまり入る機会がなかったから」


「あー、たしかに。地元の観光スポットって、近くに住んでると逆に行かなかったりするよね」


 ほのかさんが納得したように頷き、写真入りのメニューを指差した。


「じゃあ、今日は奈々子さんも観光客だね! ねえ、この海鮮丼にしない?」


「うん、そうしようか。すみれもいい?」


「はい。わたしも同じものをお願いします」


 店員さんに注文を済ませてから、冷たいお茶を飲む。


 ほどなくして、色とりどりの刺身が重なるように盛られた海鮮丼が運ばれてきた。甘エビやイカ、白身の魚に蟹の身まで乗っていて、つやつやと光っている。


「うわあ、すごい豪華! いただきます!」


 ほのかさんが早速わさび醤油を回しかけ、大きな一口を頬張った。


「んー! エビが甘い! すみれちゃん、これすっごく美味しいよ!」


「本当ですね。お魚がやわらかいです」


「奈々子さんも食べてみて! 初のお店の味はどうですか!」


 ほのかさんが普段よりも少し高い声で身を乗り出す。向かいの席からは、海鮮丼を喜ぶ気持ちと一緒に、奈々子先輩を気にかける気持ちが普段より強くすみれに届いていた。


「うん、美味しいね。こんなにたくさん乗ってるんだ」


 奈々子先輩も笑って箸を進めた。ほのかさんの冗談に笑いながら受け答えをしているけれど、声はいつもより少し静かだった。


 食事を終えて会計を済ませると、三人は階段を下りて一階のお土産売り場へ立ち寄った。


 広い店内には、冷蔵ケースに並んだ海産物の加工品や、地元のお菓子の箱がずらりと並んでいる。


「あ、お土産見ていこうよ! きのう別行動になった分、星乃さんとりあすけにも何か買って帰りたいし」


 ほのかさんがカゴを手に取り、棚の間へ歩いていく。すみれもその後ろに並んだ。


「見てこれ、蟹せんべいにイカせんべいだって。美味しそう!」


「本当ですね。たくさん入っていて、みんなで分けやすそうです」


「うちの家族の分、これにしようかな。りあすけには、こっちの可愛い箱のお菓子にしよっと」


「日渡先輩なら、甘いお菓子よりおつまみになりそうなものの方が喜ぶかもね」


 奈々子先輩が隣の棚から、ホタルイカの素干しが入った小袋を見つけて示すと、ほのかさんが笑った。


「たしかに! じゃあ星乃さんにはそっちにしよっか」


 すみれは足利の屋敷へ送る分のお菓子と一緒に、二人へ渡すお土産をカゴに入れた。


 そのまま棚に沿って歩いていると、但馬の地酒が並ぶコーナーが目に入った。手のひらに収まるくらいの小さな瓶が何種類も並んでいる。


 すみれが立ち止まってラベルを見ていると、隣に来た奈々子先輩が声をかけた。


「すみれ、お酒買うの?」


「あ、いえ……少し気になっただけですので」


 ――なによ、気になるなら買えばいいじゃない。あんたが飲んでご機嫌になってるときの感じ、あたしも嫌いじゃないわよ。


 胸元の内側から、遠慮のない声が届いた。


 すみれは羽織の襟元をそっと押さえ、もう一度棚の小瓶を見た。


「……あの、みしろさんが買えばいいとおっしゃっていますので、小さい瓶を一つだけ買って帰ろうと思います」


 横から覗き込んできたほのかさんが、にやにやと笑った。


「えー、みしろちゃんのせいにしてない? すみれちゃんも、だんだん星乃さんに似てきたよね」


「ち、違います! か、帰りの車内では飲みませんので!」


「帰ってから飲む気は満々じゃん!」


 ほのかさんに突っ込まれ、奈々子先輩も吹き出した。


 耳の後ろが熱かった。すみれは小瓶を一つカゴに入れた。


 お土産の入った紙袋を提げて店の外へ出ると、午後の日差しが通りに差していた。


 奈々子先輩がスマートフォンを取り出して時刻を確かめた。


「そろそろ駅に行っておこうか。乗り遅れたら、次まで一時間くらい待つことになるし」


「えっ、一時間!? それは早めに行こ!」


 帰りの飛行機は夕方だけれど、ここから空港へ向かうには昼過ぎの汽車に乗らなければならない。三人は紙袋を提げて、駅へと続く道を歩いた。


     ◇


 駅舎に着くと、次の汽車までまだ少し時間があった。待合室には地元の高齢の女性が一人座っているだけで、静かだった。


 奈々子先輩は待合室のベンチのそばで立ち止まり、改札の向こうに続くホームの方を見つめていた。


 すみれはその横顔を見て、昨夜の宿で聞いた話を思い出した。


 奈々子先輩が子どもの頃、この町を離れた日。真帆さんがこの駅まで見送りに来てくれて、「手紙書くからね」と言ってくれたこと。


 改札の向こうには、日差しの落ちる静かなホームと線路が見えている。


 そのとき、駅舎の入り口の方から、パタパタと走る足音が近づいてきた。


「間に合った〜」


 のんびりした声と一緒に、真帆さんが駅舎の中へ入ってきた。


 その後ろに、同年代の男女が二人続いている。二人とも少し息を切らしていた。


「真帆ちゃん……?」


 奈々子先輩が驚いて振り返る。真帆さんの後ろにいた背の高い男性が、奈々子先輩を見て片手を上げた。


「おー、白鳥! 久しぶり!」


「……え?」


 奈々子先輩が言葉に詰まる。男性が冗談めかして肩を落とした。


「えっ、俺のこと分かんない?」


「……あっ! もしかして、健太くん?」


「ひどっ! そんなに変わった?」


 横から、もう一人の女性が笑いながら一歩前に出た。


「健太、小学生の頃より背ばっかり伸びたもんね。白鳥さん、久しぶり。綾乃だよ」


「綾乃ちゃん……! うん、分かるよ。二人とも、どうしてここに?」


「ななちゃんが午後の汽車で帰るって聞いたからさ〜、ほかのみんなにも声かけてみたんだけどね〜」


 真帆さんがのんびりした口調で言った。


「お仕事中だったり、都会に出てたりで、結局この二人しか捕まらなかった〜」


「おい、しかって何だよ。俺だって昼休み削って走ってきたんだぞ」


 健太くんが突っ込むと、真帆さんは悪気なく笑った。


「あはは、ありがと〜。二人が近くで働いててよかったよ〜」


「ほんと、急に連絡来るからびっくりしたよ」


 綾乃さんが奈々子先輩を見て、嬉しそうに言った。


「でもさ、真帆、ちょいちょい白鳥さんの話してたよ。だから、なんかそんな久しぶりって気がしなくてさ」


「……え?」


 奈々子先輩が真帆さんを見る。真帆さんはいつもの調子で手を振った。


「え〜、そんなにしてないよ〜」


 奈々子先輩たちが昔の話を始めると、隣にいたほのかさんがすみれの袖をちょんと引いた。


「すみれちゃん、あたしたち足湯行ってこよ!」


「あ、はい」


「奈々子さん、あたしたち駅の外の足湯ちょっと見てくるね!」


 ほのかさんが声をかけると、奈々子先輩が「あ、うん」と頷き、真帆さんが「足湯いいよ〜、あったまってきて〜」と手を振った。


 すみれとほのかさんが駅舎の出口へ向かって歩き出すと、後ろから綾乃さんと真帆さんの明るい声が聞こえてきた。


「そういえばさ、隣のクラスだった佐々木くんと高橋さん、結婚したんだよ〜!」


「えっ、あの二人が!?」


「そうそう! 小学校のとき、毎日掃除の時間に喧嘩してたのにね!」


 笑い合う声を背中に聞きながら、二人は駅舎の脇にある足湯へと出た。


 木の屋根がついた足湯には、ちょうど誰も入っていなかった。湯船の真ん中から温かいお湯が湧き出ていて、湯気がうっすらと上がっている。


「今朝見つけたときから、ちょっと気になってたんだよね。少しだけ入っちゃおっか」


「はい。まだ少しお時間もありますし」


 木のベンチに荷物を置き、ほのかさんがスニーカーと靴下を脱ぐ。すみれも草履を脱いで足袋を外し、ロングスカートの裾が濡れないように少し持ち上げて、湯船へ足を浸した。


「わあ、あったかいね〜」


「はい。歩いたあとだから、とても気持ちいいです」


 お湯は少し熱めで、足先からじんわりと温まっていく。ほのかさんが湯の中で足をぷらぷらと揺らした。


「お土産も買えたし、海鮮丼も美味しかったし、すごい充実してるね」


「そうですね。帰ったら、星乃先輩とりあさんにお土産を渡すのも楽しみです」


「うん! りあすけ、絶対喜ぶよ」


 ほのかさんはそこでお湯の中の足を止め、駅舎の方へ目を向けた。


「……奈々子さん、来てよかったね」


「はい。わたしも、そう思います」


 ほのかさんが頷いて、また笑った。駅舎の時計を見ると、そろそろ汽車が来る時刻が近づいている。


「ほのかさん、そろそろ戻りましょうか」


「うん、そうだね!」


 二人はお湯から足を上げ、ハンカチで水気を綺麗に拭き取ってから、足袋や靴下を履いて駅舎の中へ戻った。


 待合室へ戻ると、ちょうど改札の上のスピーカーから、まもなく列車が到着するというアナウンスが流れた。


「あ、もう汽車来ちゃうね」


 綾乃さんがホームの方を見る。奈々子先輩が足元に置いていた鞄を持ち上げた。


 そのとき、真帆さんが奈々子先輩に向かって言った。


「今度はうちに泊まりなよ〜。お祭り、一緒にいこ〜」


 奈々子先輩が真帆さんを見た。


「……覚えてて、くれたんだ」


「当たり前だよ〜」


 真帆さんは、いつも通りののんびりした声で笑った。


 その瞬間だった。


「っ……」


 すみれは思わず羽織の襟元へ手を当てた。布の下で、石がじんわりと温かくなっている。


 初めて大学で出会った日から、昨夜の宿で話を聞いていたときまで、奈々子先輩から感情はほとんど届かなかった。それなのに今、すぐ隣に立つ奈々子先輩から、はっきりと強い感情が伝わってくる。


 今まで一度も受け取ったことのない大きさと温かさに、すみれは何が起きたのか分からず戸惑った。


 隣を見ると、奈々子先輩の目が潤んでいた。


 奈々子先輩から届くものがそのまま胸に触れて、すみれまで鼻の奥がつんとして泣きそうになる。


 けれど、奈々子先輩は何度か瞬きをして、そこでは泣かなかった。すみれも改札の前で一緒に涙をこらえる。


 ホームに汽車が入ってくる音がした。


「じゃあ、そろそろ行くね。健太くんも、綾乃ちゃんも、来てくれてありがとう」


「うん! またこっち来るときは連絡してよ!」


「またな、白鳥!」


 二人が手を振る。奈々子先輩は真帆さんの正面に向き直った。


「真帆ちゃん。……またね」


「うん、またね〜。連絡するね〜」


 すみれとほのかさんも三人に「ありがとうございました」「お邪魔しましたー!」と頭を下げ、奈々子先輩と一緒に改札を抜けた。


 ホームに停まっている一両の汽車に乗り込む。


 車内は空いていて、すみれは奈々子先輩の隣の席に座り、向かいの席にほのかさんが腰を下ろした。


 窓の外を見ると、改札の横の柵のところまで、真帆さんたち三人が出てきて手を振っていた。奈々子先輩も窓越しに手を振り返す。


 やがて扉が閉まり、ガタンと車体が揺れて、汽車がゆっくりと動き始めた。


     ◇


 手を振る真帆さんたちの姿が後ろへ遠ざかり、駅のホームが見えなくなる。


 窓の外が町の家並みへと変わったところで、奈々子先輩の目からぽろぽろと涙がこぼれた。


「……っ、あれ……なんで、今になって……」


 奈々子先輩は手の甲で目元を拭ったが、涙は止まらなかった。


 隣に座る奈々子先輩から、さっきからの大きな感情がまだそのまま届いていた。すみれの目からも、こらえていた涙があふれた。


「すみれまで……なんで泣いてるの……」


「わ、分かりません……でも、止まらなくて……」


 二人でハンカチを押さえて泣いていると、向かいの席で見ていたほのかさんが吹き出し、それからすぐに目元を潤ませた。


「えっ、ちょ、なんで二人とも泣いてるの……って、うそ、あたしまで泣けてきたじゃん!」


 ほのかさんは笑いながら、指先で目尻の涙を拭った。


「もう、奈々子さんもすみれちゃんも泣くから、つられたじゃんかー!」


 笑いながら泣くほのかさんの声を聞きながら、すみれは今朝、自分が口にした言葉を思い出していた。


 ――行っても、行かなくても、今日は三人で帰りましょう。


 車輪が線路を叩く規則正しい音の中で、三人はしばらく泣いたり笑ったりしながら座っていた。


 やがて涙が少し落ち着くと、奈々子先輩がハンカチを畳みながら、向かいの席へ声をかけた。


「……ほのかさん、ティッシュ持ってる?」


 目元を押さえていたほのかさんが、ぴたりと手を止めた。


「……えっ! 今、ほのかさんって言った!?」


「え……? あ、うん」


「ずっと一瀬さんだったのに! 今、ほのかさんって呼んでくれたよね!?」


 ほのかさんが鞄からポケットティッシュを取り出しながら、身を乗り出した。


「ねえ、どうせなら、さんもいらないよ!」


「え……」


「だって、すみれちゃんのことはすみれって呼んでるじゃん! あたしもほのかがいい!」


 ティッシュを差し出されたまま真っ直ぐに見つめられ、奈々子先輩は少し照れたように口ごもった。


「……ほのか」


「うん!!」


「ティッシュ、ありがとう」


「どういたしまして!」


 ほのかさんが満面の笑みを浮かべる。奈々子先輩が吹き出し、すみれも一緒に声を上げて笑った。


     ◇


 泣き笑いが落ち着くころには、汽車は町の中心を抜け、窓の外には刈り入れの終わった田んぼや遠い山並みが広がっていた。


 すみれは窓の外を眺めながら、ふと思い立って鞄からスマートフォンとイヤホンを取り出し、隣の奈々子先輩へ声をかけた。


「奈々子先輩。一つ、聴いていただきたい曲があるんです」


「曲?」


「はい。足利の帰りに森高千里さんの『渡良瀬橋』を聴いてから、わたし、自分でほかの曲も聴くようになって。その中で、とても好きになった曲があるんです」


 すみれはスマートフォンの画面で『この街』を選び、イヤホンの片方を奈々子先輩へ差し出した。


「よかったら、一緒に聴きませんか」


「うん。聴かせて」


 奈々子先輩がイヤホンを受け取って片耳につける。すみれも反対側のイヤホンを自分の耳に入れた。


「あ、あたしも聴く! ちょっと待って、同じ曲探すから!」


 向かいのほのかさんも自分のイヤホンを取り出し、すみれの画面を覗き込んで『この街』を見つけた。


「せーので押すよ。せーの!」


 再生ボタンを押すと、イヤホンから軽快な前奏が流れ出し、すぐに明るい歌声が聴こえてきた。


 奈々子先輩はイヤホンをつけたまま、窓の外を流れていく景色を見つめていた。すみれはその隣で、同じ歌を聴きながら一緒に外を眺める。向かいの席では、ほのかさんがリズムに合わせて小さく首を揺らしていた。


 曲が終わると、車輪のゴトゴトという音が耳に戻ってきた。


 奈々子先輩はイヤホンをそっと外し、遠ざかっていく外の景色へもう一度目を向けた。


「……いい曲だね」


「はい。メロディーも好きなのですが、わたし、この曲の歌詞がとても好きなんです」


「うん。……明るいのに、聴いてるとちょっと泣きそうになるね」


 奈々子先輩はすみれにイヤホンを返しながら、少し笑った。


 それから、もう一度窓の外へ目を向けた。


「……今度は、夏に来ようかな」


「はい。お祭りの季節ですね」


 イヤホンを外したほのかさんも、すぐに顔を上げて声を弾ませた。


「あっ、お祭り! あたしもまた一緒に来たい!」


「うん。じゃあ、またみんなで来ようか」

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