静かで、いい部屋だね
「あーし、あの卵の写真、まだ根に持ってるからね!」
りあさんが、こたつ机の向こうから指を突きつける。
兵庫から東京へ帰って数日。上野桜木の坂の下にある星乃先輩の家に、五人が集まっていた。
「荒湯で卵並べた写真送ってきたでしょ。あーし『ずーるーい!』って即レスしたのに、そのあと返事もなし!」
「だって、熱いうちに食べたかったんだもん。ほら、そのぶんお土産買ってきたから」
ほのかさんが鞄から紙袋を引っ張り出す。
「でも、りあさんも写真を送ってくださったじゃないですか。駅のホームで、星乃先輩が缶ビールを持っていらっしゃる写真」
「ほっしーはずるいんよ! あーし、まだ飲めないからずっと炭酸水だったのに、一人だけ売店でビール買って、ホームでプシュッて開けてさ!」
「飲めん奴が羨ましがるな」
柱のそばで片膝を立てていた星乃先輩は、麦茶を飲んでいる。
「はい、これりあすけの分! 最終日に三人で選んだんだよ」
ほのかさんが机に置いたのは、可愛らしい絵柄の小箱だった。
「うわ、箱めっちゃ可愛いじゃん! ありがと!」
りあさんが箱を手に取る横で、すみれも紙袋を開いた。
「星乃先輩には、こちらを。ホタルイカの素干しです。奈々子先輩が選んでくださったんですよ」
「ホタルイカか。いいな」
「日渡先輩なら、甘いお菓子よりおつまみになるものの方が喜ぶかなと思って」
「分かってるじゃないか」
星乃先輩は袋を裏返して眺め、そのまま開けようと手を動かす。
「ちょっと星乃さん、今から開ける気ですか!? まだお昼ですよ!」
「もう昼は過ぎた。それに、貰ったものをすぐ食って何が悪い」
「まだ麦茶しか出てないじゃないですか! なんで真っ先におつまみなんですか!」
「いいじゃんほのっち、あーしも開けるし」
りあさんは箱のシールを剥がし、お菓子を一つ口に入れた。
「ん、おいし! みんなセンスいいじゃん」
「でしょ? 蟹せんべいとイカせんべいもあるよ。あとね、すみれちゃん、自分用に地酒まで買ってたんだよ」
「ほのかさん、それは今言わなくても……」
ホタルイカをつまんでいた星乃先輩が、すみれを見た。
「いい心がけだな。もう飲んだのか」
「い、いえ。家で少しずついただこうと思いまして」
「スミレっち、ほんとに酒飲みコースまっしぐらじゃん」
りあさんが笑う。ほのかさんはせんべいの袋も開けて、机の真ん中に置いた。
「あの……星乃先輩。ご実家の方は……」
星乃先輩はホタルイカを噛み、麦茶のグラスを持ち直す。
「別に。たいした話は出んかった。……あとでな」
「はい……分かりました」
◇
「でさ、餘部でうちらと別れたあと、そっちはどうだったん?」
りあさんが奈々子先輩に尋ねる。
「温泉に泊まった次の日、昔住んでた町に行ったんでしょ?」
「うん。子どもの頃、一番仲良くしていた友達の家を訪ねてみたの。真帆ちゃんっていう子でね」
「会えたんだ!」
「うん。手紙の返事が来なくなった理由も聞けたよ。中学に入って部活で忙しくなって、返そうと思ってるうちにそのままになっちゃったんだって」
奈々子先輩はグラスに手を添えた。
「それを聞いたときは、私だけずっと気にしすぎてたのかなって、ちょっと落ち込んだんだけどね」
「あー……」
「でも、子どもの頃に約束したお祭りのこと、真帆ちゃんは覚えててくれたの。今度はうちに泊まりなよって。……行ってよかったよ」
「えー、めっちゃいいじゃん!」
「しかもね!」
ほのかさんが話に割って入った。
「帰りの汽車が走り出したあと、三人で大泣きしたんだよ!」
「……ほのか、それは言わなくていいから」
すみれは耳の後ろが熱くなった。
「わ、わたしも、気づいたら止まらなくなってしまって……」
「お前ら、揃いも揃ってよく泣くな」
「うわー、あーしもそこにいたかった! なんであーしだけ豊岡でレンタカー返して帰ってんのよ!」
「私も一緒だっただろ」
「ほっしーは電車でもお酒飲んで、その後は寝てただけじゃん!」
「移動は寝るもんだ」
りあさんが「もう!」と声を上げる横で、奈々子先輩が口を開いた。
「お祭りに誘ってもらったからね。今度は夏に行こうと思ってる」
「はい。またみんなで行きましょうって、汽車の中でお話ししたんです」
「……あれ?」
お菓子を取ろうとしていたりあさんが手を止めた。
「ちょっと待って。なんでほのっちのこと『ほのか』って呼んでんの? あーしは?」
「え?」
「ふふふ、これが絆ってことだよ」
ほのかさんが笑うと、りあさんは奈々子先輩に向き直った。
「ずるい! ナナコ先輩、あーしのことも名前で呼んでください!」
「えっと……り、りあ」
「んー、ちゃん付けがいい。りあちゃんって呼んで」
奈々子先輩は手元のグラスを見ていたが、やがて顔を上げた。
「……りあちゃん」
「やった! これからずっとそれでお願いします!」
「りあすけ、ちゃっかりしてるなあ」
ほのかさんが笑った。奈々子先輩は何も言わず、グラスの麦茶を飲んだ。
◇
玄関で引き戸の鳴る音がした。途中で一度ガタッとつかえ、また動く。
「ごめんください」
「誰だろ」
ほのかさんが廊下の方を見る。星乃先輩は机に手をついて立ち上がった。
「なんで来たんだ」
玄関から、いつもより低い声が聞こえた。
「近くまで来たから」
「用がないなら帰れ」
「もう靴脱いだよ」
靴を揃える物音のあと、廊下の板が鳴った。
先に部屋へ戻った星乃先輩は、隅に積んであった座布団を一枚取り、自分の隣へ置いた。すぐに台所へ引っ込んでしまう。
襖の向こうに女の子が立っていた。
まっすぐ下ろした長い黒髪に、襟元までボタンを留めた白い長袖のシャツと、膝下まである落ち着いた色のスカート。飾りは何もつけていない。背筋を伸ばし、すみれたち四人へ頭を下げた。
「お邪魔します」
すみれも膝を揃えて頭を下げた。
星乃先輩が急須と湯呑みを載せた盆を運んでくる。
「座るなら勝手に座れ。茶を飲んだら帰れよ」
「うん。ありがとう、姉さん」
女の子は用意された座布団に腰を下ろした。
星乃先輩は湯呑みにお茶を注ぐと、りあさんが開けた菓子箱から一つ取り、相手を見ずに女の子の手元へ押しやる。
「いただきます」
女の子はお菓子を受け取り、湯呑みを両手で包んだ。畳、掛時計、本棚と、部屋の中を見回している。
「姉さん、ここに住んでたんだね」
「悪いか」
「ううん。静かで、いい部屋だね」
女の子がお茶を一口飲む。すみれたちが黙っていると、星乃先輩が口を開いた。
「……妹だ」
「えっ、朱音ちゃん?」
ほのかさんの声に、女の子の指が湯呑みの縁で止まった。隣の星乃先輩を見やると、星乃先輩は知らん顔で麦茶を飲んでいる。
女の子の目元が緩んだ。
「はい。日渡朱音です」
朱音さんが名乗ると、りあさんが「あ……」と声を漏らした。
「やっぱりそうだ。子どもの頃、お祭りで遠くから見たことある」
朱音さんはりあさんに「よろしくお願いします」と言った。りあさんも、それ以上は訊かなかった。
「あたしは一瀬ほのか! 星乃さんと同じ大学で、星乃さんがよく昼から飲みに来るお店でバイトしてるの」
「姉さん、お昼から飲んでるの?」
「……飲んでない」
りあさんと奈々子先輩も名乗った。
「蓮雀寺すみれと申します。わたしも、星乃先輩によくしていただいています」
「誰がだ」
朱音さんは星乃先輩を見てから、すみれたちに向き直った。
「姉がお世話になっています」
「朱音ちゃんは、今いくつなの?」
「十九です」
「あーしもまだ十九なんよ。同じ歳じゃん!」
「そうなんですね」
朱音さんが頷いた。視線は机の端に置かれたホタルイカの袋へ移っている。
「姉さん、それ食べてたの」
「今、土産でもらったばっかりだ」
「ちゃんとご飯食べてる?」
「食ってる」
「台所、見ていい?」
「見るな」
星乃先輩がホタルイカの袋を手元に引き寄せた。朱音さんはそれ以上訊かず、お菓子の包みを開ける。
「これ、おいしいね」
「りあがもらった土産だ」
「ありがとうございます。こういう甘いお菓子、好きなんです」
「よかったー! まだいっぱいあるから食べて!」
りあさんが箱ごと朱音さんへ寄せた。
「姉さんは食べないの?」
「私は甘いのはいい」
「昔からそうだよね。家の冷蔵庫に入ってたプリンも、いつも私にくれるから」
「要らんかっただけだ」
朱音さんが包み紙を置く場所を探していると、星乃先輩が空いた小皿を寄せた。朱音さんはそこへ包み紙を置く。お茶が減ると、星乃先輩は急須に手を伸ばした。
「すみれさんたちは、この間まで兵庫へ行かれていたんですよね」
「はい。城崎温泉や出石のほうへ行ってきました」
兵庫へ行ったことなど、朱音さんの前で話しただろうか。
「日渡さんも、旅行とか行くの?」
奈々子先輩に訊かれ、朱音さんは首を横に振った。
「いえ。あまり家の外に出ないので、この辺りも今日初めて歩きました。坂が多くて、静かな町ですね」
ほのかさんが訊いた。
「駅からだと、結構歩いたでしょ」
「はい。でも、歩くのは嫌いじゃないので」
朱音さんは星乃先輩の方へ向いた。
「姉さん、坂の上の角にあったパン屋さん、いい匂いしてたよ」
「あそこは朝しか開いてないぞ」
「まだ開いてたよ。姉さんが起きるの遅いだけじゃない?」
「うるさい。昼までやってたなら、たまたまだ」
ほのかさんとりあさんが顔を見合わせて笑った。
◇
「で、本当になんの用だ。パン屋の話をしに、わざわざここまで来たんじゃないだろ」
朱音さんは食べ終えたお菓子の包み紙を折り、星乃先輩を見た。
「きのう、姉さんが家に来たって聞いたから。……顔も見ないで帰ったでしょ」
星乃先輩は何も言わなかった。
「雨ノ守の小夜さんのこと、訊いたんでしょ」
「……誰から聞いた」
「家の人が話してた。姉さんが兵庫に行ってたことも、小夜さんがいなくなったことも。小夜さんのことまで、また姉さんのせいみたいに言ってたよ」
電車で聞いた「お前のせいで」という言葉が蘇った。さっき星乃先輩は、「たいした話は出んかった」と言っていた。
向かいに座るりあさんは、膝の上で拳を握っている。
「いつものことだ。向こうも小夜がどこへ行ったかまでは知らんようだったしな」
「私のことで、姉さんがまたあんなふうに言われるのは嫌だよ」
「お前には関係ない」
「あるよ」
朱音さんは星乃先輩から目を逸らさなかった。
星乃先輩はホタルイカの袋を机の端へ寄せた。
「……まあ、きのうの話はもう済んだ。お前が気にすることじゃない」
朱音さんは言い返さず、湯呑みのお茶を飲んだ。
りあさんが膝の上の拳をほどく。
「ねえ、さっき、普段あんまり家の外に出ないって言ってたよね」
「はい」
「このあと何か予定あるん?」
「いえ。姉さんの顔を見たら帰るつもりでしたけど」
「じゃあさ、せっかく出てきたんだし、今からみんなで遊びに行かない?」
「あ、それいいね!」
ほのかさんが身を乗り出した。
「まだお昼すぎだし、これからでも遊べるよ。朱音ちゃん、どこか行きたいところある?」
「私、あまり詳しくなくて。皆さんは普段、どこへ行くんですか」
「んー……あ、水道橋の東京ドームシティとかどう? 遊園地もあるし、お店もいっぱいあるよ!」
「あそこなら、電車ですぐだね」
奈々子先輩も頷いた。
「おい、勝手に話を進めるな。私は行かんぞ。朱音もそのまま帰らせろ」
「えー、ほっしーも来なよ。あそこ、冷たいビール売ってるよ?」
「……そういう問題じゃない」
星乃先輩は少しむっとした顔で、腕を組んだ。
「朱音さんは、いかがですか。よろしければ、わたしもご一緒できたら嬉しいです」
朱音さんはほのかさんたちにも目をやり、最後にすみれを見た。星乃先輩には訊かずに頷く。
「行きます。ご一緒させてください」
「やった! 決まりー!」
ほのかさんとりあさんの声が重なった。
朱音さんは立ち上がってスカートの裾を直すと、星乃先輩を見た。
「姉さんは留守番?」
星乃先輩は返事をしなかった。立ち上がり、柱に掛けてあった黒い上着を取って袖を通した。
「うん。一緒に行こ、姉さん」
ほのかさんたちがお菓子を片づける間に、すみれも鞄を持ち、羽織の襟元を整えた。
玄関で靴を履き、六人で外へ出る。
「水道橋って、根津から乗ればいいんだっけ?」
「乗り換えあった気がする。ちょっと待って、調べる!」
りあさんとほのかさんが先に坂を上がっていく。星乃先輩は戸に鍵をかけると、待っていた朱音さんと並んで歩き出した。
すみれと奈々子先輩も、そのあとに続いた。




