白鳥さんとこのななちゃん
「……真帆ちゃん」
奈々子先輩が、そう呼んだ。
土間の上がり框に立った女性――真帆さんは、目を細めて奈々子先輩の顔を見つめ、それから小さく笑った。
「わ、ほんとにななちゃんだ。久しぶりだね〜」
のんびりとした、気負いのない声だった。
真帆さんが奈々子先輩を認識した瞬間、すみれの肌にかすかな驚きが届いた。けれど、それはすぐに薄れて、あとは穏やかなものしか伝わってこない。喜んでいるのか、単に落ち着いているだけなのか、すみれには分からなかった。
「元気にしてた〜? 背、めっちゃ伸びたね」
真帆さんは奈々子先輩を見上げるようにして言った。
「うん。……真帆ちゃんも、元気そうで」
奈々子先輩の声には、まだ少し固さがある。
真帆さんの視線が、奈々子先輩の後ろに立つすみれたちへ向いた。
「その子たち、友達?」
「うん。大学の」
すみれとほのかさんは、軽く頭を下げた。
「蓮雀寺すみれです」
「一瀬ほのかです。お邪魔してます」
「あ、どうも。真帆です〜」
真帆さんは軽く手を上げて応える。
玄関の脇にいた母親が声をかけてくれた。
「ななちゃん、せっかく来てくれたんやから、上がっていき。お茶淹れるで」
「ううん、おばちゃん、ありがとう。でも、今日は三人で町を歩こうと思ってて」
奈々子先輩が断ると、真帆さんが言った。
「今日、泊まるわけじゃないんだ?」
「うん。夕方の飛行機で東京に帰るの」
「そっか〜」
奈々子先輩が、提げていた鞄の紐を握り直す。
「あのね、真帆ちゃん」
少し間があった。
「昔、手紙……送ったでしょう。返事、途中で来なくなっちゃったから……私、何か気に障ること書いちゃったのかなって、ずっと気になってて」
真帆さんは一度、瞬きをした。
「あ〜、あれね。中学入ってさ、部活とかいろいろバタバタしてて。返そう返そうと思ってたんだけど、そのままになっちゃったんだよね。いや〜、ごめんね〜」
真帆さんは手を合わせて、ぺこりと頭を下げた。
「……そう、だったんだ」
奈々子先輩の声は小さかった。
それ以上、言葉が続かない。
真帆さんが上着のポケットからスマートフォンを取り出した。
「あ、そうだ。LINE交換しとこ〜よ」
「……うん」
奈々子先輩もスマートフォンを出し、連絡先を交換した。真帆さんは画面を見て頷くと、ポケットへ戻した。
「またこっち来るときあったら言ってね」
「うん。……じゃあ、そろそろ行くね。おばちゃんも、ありがとうございました」
「気ぃつけてな」
引き戸が閉まった。
◇
路地を、三人で歩き出した。
奈々子先輩の足取りは、民宿へ向かうときよりも重い。背筋は伸びているのに、視線が足元に落ちたままだった。
ほのかさんは奈々子先輩の半歩後ろで、何か声をかけようとして口を開きかけ、そのまま何も言わずに閉じる。
すみれも、口を開けずにいた。
今朝、広場で、真帆さんに会いに行ってみませんかと勧めたのは自分だ。
「……なんか、私だけ気にしすぎてたみたいだね」
奈々子先輩が、ぽつりと言う。
すみれは歩みを緩めた。
二人の背中が、少し先へ離れていく。
すみれは足を止め、民宿のある方角を振り返った。
真帆さんは、本当にそれだけだったのだろうか。
羽織の襟元に手を当て、周囲に聞こえないよう、小声で呟いた。
「みしろさん」
――なによ。
胸の奥から声が返ってくる。
「みしろさんが……少しの間だけ、感情を取らずにいてくださったら。……以前のように、心の声まで聞こえるのでしょうか」
府中で起きたことが、一瞬頭をよぎった。
もし言葉が聞こえるなら、真帆さんの本当の気持ちが分かるのではないか。
石から、かすかに温もりが返ってきた。
――……そんなのできるか分かんないけど。……やってみる?
襟元を押さえた指に、少し力が入った。
――……でも、それでいいの? あんた。
引き戸の前で、奈々子先輩が一度だけ息を吸ったことを思い出した。
「……いえ。やめておきます」
――そう。
すみれは襟元から手を離し、先を歩く二人を追った。足音に気づいた奈々子先輩が振り返る。すみれが追いつくと、奈々子先輩は自分の両頬を軽く叩いた。
「……そうだ。さっき話した神社、行ってみようか」
「うん、行こ! 奈々子さんの案内、聞きたいし!」
「はい。奈々子先輩、お願いします」
◇
三人は並び直して、通りを山側へ向かって歩き出した。海沿いから離れるにつれて、潮の匂いが薄れ、山裾の木々の気配が近づいてくる。
ほのかさんが前方の緑を見上げて尋ねた。
「どんな神様なの?」
奈々子先輩が歩きながら答える。
「大国主命。大国様だね」
「大国様って、あの因幡の白兎の?」
「うん。昔は牛頭天王をお祀りしていて、夏のお祭りも大きいんだよ」
「へえ、そうなんだ!」
角を曲がると、山裾へ続く杉並木が見えてきた。
ほのかさんが足を止め、首を傾げる。
「あれ、鳥居は?」
「一の鳥居なら、町の方にあるよ。ここから離れてるんだ」
「えっ、そんなに離れてるの?」
「うん。ここから先も参道になってるの」
杉並木へ入ると、木陰が広がり、通りの物音が遠のいた。
参道の右手に社務所の建物が見え、その手前に手水舎があった。冷たい水で手を清め、奥へ進む。
木々に囲まれた長い石段が、上へ向かって続いていた。
「うわ、これ上るの!?」
ほのかさんが見上げて声を上げた。
「結構急じゃない!?」
「上ったところに社殿があるの。ゆっくり行こう」
奈々子先輩を先頭に、三人で石段を上り始めた。一段一段、歩幅を確かめながら上っていく。
「昔はね、真帆ちゃんと毎年、ここのお祭りに来てたんだ」
奈々子先輩が、前を向いたまま言った。
「最後に来たとき、来年もまた一緒に来ようねって、約束したんだけどね」
ほのかさんの足が、一段だけ止まった。
石段を上りきると、木立が開け、その先に拝殿があった。
奈々子先輩は振り返り、石段の下を見下ろしている。上ってきた参道の杉並木と、その向こうに連なる瓦屋根や町の建物が見える。
奈々子先輩はしばらく、何も言わずにその町並みを眺めていた。
拝殿の前に並ぶ。それぞれがお賽銭を落とし、二礼二拍手一礼の作法で手を合わせた。奈々子先輩は背筋を伸ばし、目を閉じている。
参拝を終え、三人は石段を慎重に下りた。
「上るより下りるほうが怖いね……」
ほのかさんが足元を気にしながら言うと、奈々子先輩が振り返った。
「一瀬さん、足元気をつけてね」
「はーい」
下りきったところで、奈々子先輩が鞄から御朱印帳を取り出した。
「御朱印、いただいていこうかな」
「あ、わたしもお願いします」
すみれも鞄から、菫色の御朱印帳を取り出した。
それを見ていたほのかさんが、あ、と小さく声を上げる。
「そうだ、あたしも御朱印帳、買おうと思っててまだ買ってなかったんだ! ここで最初の一冊、買おうかな」
奈々子先輩はほのかさんを見て、笑った。
「いいね。社務所で扱ってるはずだから、見てみよう」
「行こ行こ!」
参道脇の社務所へ向かい、窓口に立った。
「すみません、御朱印帳をいただきたいのと、御朱印をお願いできますか」
奈々子先輩が声をかけると、奥から聞き覚えのある声が返ってきた。
「はい、ただいま」
白い小袖に緋色の袴をつけた女性が、窓口の奥から顔を上げた。長い黒髪を低い位置で束ね、穏やかに微笑んでいる。
「よいお参りでしたね」
すみれは息を呑んだ。
「……えっ!? この間の巫女さん!?」
ほのかさんが声を上げた。
東宮司命さんは平然と会釈する。
「こんにちは。皆様、おそろいで」
「こんにちは、命さん……どうしてこちらにいらっしゃるんですか」
すみれが尋ねると、命さんはあっさりと答えた。
「派遣です」
「派遣って……ここ、兵庫ですよ? 蔵前とか神奈川とか足利ならまだ分かりますけど、こんな日本海の端まで来るんですか!?」
「いや、一瀬さん。足利も遠いよ?」
「まあ、そうですけど!」
「ええ。人手が足りないところには、どこへでも伺いますよ。全国あちこちへ行っておりますので」
命さんは動じる風もなく、窓口の台に御朱印帳を何種類か並べて見せてくれた。
ほのかさんが身を乗り出し、その中の一冊を指さす。
「これ何?」
奈々子先輩が横から覗き込んで答える。
「麒麟獅子舞だよ。この辺りに伝わる獅子舞で、夏のお祭りでも舞うの」
ほのかさんが目を輝かせた。
「カッコいい! これにする!」
「かしこまりました」
命さんは代金を受け取り、ほのかさんが選んだ一冊を、奈々子先輩とすみれの二冊と一緒に預かった。
机の上で墨を磨り、筆を執る。
待つ間、すみれは出石で妹の小夜さんを案じていた正臣さんの姿を思い出していた。羽織の襟元にそっと指を当て、窓口の命さんを見つめる。
「あの、命さん」
「はい、すみれさん」
「以前、母の形見の石のことをお尋ねしましたよね」
「ええ。覚えていますよ」
「今度は、剣のことなんです」
命さんの筆が、すっと止まる。
「出石で、雨ノ守家の正臣さんにお会いしました。妹の小夜さんが、家に伝わる剣を持ったまま姿を消してしまったそうで……何かご存じありませんか」
命さんが顔を上げ、すみれを見つめる。
「さあ。どうでしょう」
いつもの返しだった。けれど、命さんは言葉を続けた。
「ただ……何であれ、刃というものは、触れれば切れるものですからね。手にする方にとっては、少しばかり危うい道具かもしれません」
そして、手元の帳面へ視線を戻した。
「そのお兄様は、ほかに何かおっしゃっていませんでしたか?」
「妹さんをとても心配していらっしゃいました。でも……お家の方は、小夜さんの安否より、剣のことばかり気にしているとおっしゃっていて」
「あらまあ。剣のことばかりで、いなくなった方の安否は後回し。……なんだか怖いお話ですねぇ」
筆を持ったまま、命さんは一瞬だけすみれの目をまっすぐに見た。
「誰かのことを、すっかり気にかけなくなってしまう。……みなさんにも、そんな覚えはありませんか?」
父のことが浮かんだ。
出石でも、同じように頭をよぎった。
どうしてこれまで、自分から知ろうとしてこなかったのだろう。
顔を上げると、命さんはもう帳面へ目を戻していた。
「あの、今のは、どういう――」
命さんは筆を置き、三冊の御朱印帳を開いたまま窓口へ差し出した。
「どうぞ。墨が乾くまでは、閉じないでくださいね」
「……ありがとうございます」
三人は、それぞれ帳面を受け取った。
命さんの視線が、奈々子先輩へと移った。
「少し、お疲れのようですね」
奈々子先輩がわずかに肩を引く。
「……そう見えますか」
「ええ。ですが、ご自分で戸を開けられたのでしょう?」
奈々子先輩が息を詰めた。
「……どうして、それを」
命さんは小首を傾げた。
「おや。何の話でしたかね」
奈々子先輩は、それ以上は訊かなかった。
命さんが社務所の壁掛け時計に目をやる。
「もうこんな時間ですか。そろそろ今日の派遣も終了です」
「もう終わりなんですか?」
ほのかさんが訊くと、命さんは真面目な顔で頷いた。
「ええ。これ以上は残業になりますので。残業代も出ませんから」
「残業代って……」
ほのかさんが呆気にとられる横で、命さんは袖口を揃えて丁寧に一礼し、そのまま社務所の奥の引き戸を開けて入っていった。
「……ほんとに、なんなのあの人」
ほのかさんが長い息を吐き出した。
「出石にいなかったから油断してたけど、こんなところまで普通に来るなんて思わないじゃん」
「……不思議な人だね」
奈々子先輩は、受け取った御朱印帳を見下ろしていた。
「さて、行こうか。お腹も空いてきたよね」
「奈々子さん、この辺で美味しいお店、知ってます?」
「うーん。海鮮丼が有名なお店ならあるよ」
「えっ、海鮮丼! 行きたい!」
ほのかさんは嬉しそうに、参道を先に歩き出した。
すみれも奈々子先輩と並んで歩き出す。
そのときだった。
ピロン、と短い通知音が鳴った。
奈々子先輩が鞄からスマートフォンを取り出し、画面を見ると、その足が止まった。
少し前を歩いていたほのかさんが振り返る。
立ち止まった奈々子先輩の横で、すみれが画面に目をやると、通知欄には送り主の名前が表示されていた。
『よつやまほ』




