今は、こんなに楽しいのにね
湯村温泉の宿を出た三人は、朝の路線バスに揺られて、海沿いの町へ戻ってきた。夕方に鳥取空港を発つ便の航空券は、奈々子先輩が朝のうちに手配してくれていた。
駅前のロータリーで降りると、風の中にふっと潮の匂いが混ざっていた。朝の澄んだ光の中に、古びた駅舎と小さな広場が広がっている。
「あ、見て見て!」
ほのかさんが駅舎のすぐ脇を指差した。木造の小さな東屋から、白い湯気がゆらゆらと上がっている。
「足湯あるじゃん! 昨日はバスに乗るのに急いでたから、全然気づかなかったよ」
「うん。……昔から、あそこにあるの」
奈々子先輩が答えた。
けれど、その足はロータリーの端で止まったまま動かない。いつもなら開くノートにも手を伸ばさず、リュックの肩紐を両手で握り、手首の時計を確かめては通りの先を眺めている。
「奈々子さん? どっちから歩く?」
ほのかさんが顔を覗き込むと、奈々子先輩の肩が揺れた。
「……あっちのほう、行ってみようか」
奈々子先輩は、どこかためらうように歩き出した。
すみれはほのかさんと目を合わせ、そのあとに続いた。
◇
通りを少し進むと、白い壁の大きな建物が見えてきた。校庭の向こうに整然と窓が並んでいる。
「あ、学校だ。もしかして奈々子さんが通ってた?」
ほのかさんが立ち止まって尋ねた。
「うん、そうだよ。小学校」
奈々子先輩は足を緩め、校舎の脇を通る線路のほうへ目を向けた。踏切の近くには、線路を跨ぐ歩道橋が架かっている。
「懐かしいな……この歩道橋を通ってたんだ」
歩道橋を見上げる奈々子先輩の口元に、笑みが浮かんだ。
「せっかくですし、歩いてみませんか?」
すみれが提案すると、奈々子先輩は戸惑ったように瞬きをした。
「えっと……まずは、あっちの方に行ってみようか」
そう言って、歩道橋には向かわず、別の横道へ歩き出してしまう。
すみれは歩道橋をもう一度見てから、そのあとに続いた。
やがて、奈々子先輩が通り沿いの建物を指差した。
「あ、これが役場だよ。東京でいうと区役所かな」
真面目な顔で紹介され、ほのかさんがぽかんとした。
「……役場を紹介されても、あたしたちここに住まないよ?」
「う、うん。そうだよね。えっと……」
奈々子先輩は困ったように眉を下げ、言葉に詰まってしまった。
「奈々子先輩が子どもの頃にお好きだった神社など、行ってみたいです。ありますか?」
すみれが尋ねると、奈々子先輩は一拍置いて答えた。
「あるにはあるけど……線路を渡って、あっちの山の方かな」
「なんだ! じゃあ、さっきの歩道橋を渡って行こうよ!」
ほのかさんが明るい声を上げる。
「……うん」
奈々子先輩は小さく頷いたものの、その声にはいつもの弾みがなかった。
三人は来た道を引き返し、歩道橋の階段を上った。線路を越えて、向こう側の通りへと下りる。
線路の向こうの路地に入ると、道幅は急に狭くなった。左右から黒ずんだ板塀や古いモルタルの壁が迫り、軽自動車一台が通り抜けるのもやっとだ。軒先には植木鉢が並んでいる。
「結構、道が細いですね」
すみれが言うと、奈々子先輩が呟いた。
「……こんなに狭かったっけ」
「狭い?」
「うん。子どもの頃は、もっと広い道だと思ってたの。自転車で並んで走っても平気だった気がしてて」
「あはは、それ分かる! あたしも小学校の校庭、大人になってから見たら『ちっちゃ!』って声出ちゃったもん」
ほのかさんが笑うと、奈々子先輩もつられて笑った。
けれど、角を一つ曲がったところで、奈々子先輩が歩みを止めた。
「あの……でも、そんなに有名な神社でもないから。やっぱり……」
「変!!」
「ひゃっ!?」
突然の大声に、奈々子先輩がびくりと肩を跳ねさせた。
「な、何? 一瀬さん」
「なんか変だよ、奈々子さん!」
ほのかさんが腰に手を当てて詰め寄った。
「歩道橋は渡らないし、役場なんか紹介するし!」
「そ、それは……」
「しかも奈々子さん、いつも神社の話になると目の色変わるじゃん! なのに今日は行かないって!」
「目の色って……一瀬さん」
「ねえ、すみれちゃん! すみれちゃんもそう思わない?」
急に水を向けられ、すみれは二人を交互に見た。
「……はい。わたしも、少し気になっていました」
「でしょ!?」
ほのかさんは勢いよく頷いてから、ふっと声を落とした。奈々子先輩の顔を覗き込む。
「奈々子さん、何かあるんじゃないの?」
奈々子先輩は言葉に詰まり、リュックの肩紐を握り直した。
「……ごめん。少し、落ち着いて話してもいいかな」
小さく息をつき、周囲を見回す。
「この先に、広場があるから……」
◇
三人は狭い路地を抜け、体育館のような建物の脇にある広場へやってきた。周囲に人影はなく、植え込みのそばの静かな場所で足を止める。
ほのかさんはしばらく奈々子先輩の様子を窺っていたが、何かを思い当たったように口を開いた。
「……そういえばさ。城崎の宿で言ってたよね。昔の友達とは、もう誰とも連絡取ってないって。その友達のこと?」
奈々子先輩は息を吐き、自分のスニーカーのつま先へ目を落とした。
「四谷真帆っていう子なんだけどね」
ぽつり、と落ちてきた声は、とても静かだった。
「引っ越してからも、しばらくは手紙をやり取りしてたの。でも、少しずつ間が空くようになって……いつの間にか、返事が来なくなっちゃって。私も、それきり書かなくなったの」
「えっ……返事、来なくなっちゃったの?」
ほのかさんが息を呑み、少し言葉を探すように間を置いた。
「その子の家って、どのへんなの?」
「……さっき通った道を、もう少し進んだところ」
「……じゃあ、さっきからその辺りを歩いてたんだ」
奈々子先輩は小さく頷いた。
「うん。だから、やっぱり……」
その先を言えず、リュックの肩紐を握ったまま俯いた。
「本当は、私のこと、嫌いだったのかなって」
声が小さく震えていた。
「返事が来なかっただけで、嫌いになったって決まったわけじゃないでしょ」
ほのかさんがすぐに言った。
奈々子先輩は顔を上げず、しばらく黙っていた。
「……一瀬さんやすみれ、ほかのみんなとも、いつか同じように会わなくなるのかなって」
「え? あたしたち……?」
ほのかさんが思わず聞き返す。
奈々子先輩は間を置いてから顔を上げ、小さく笑った。笑ったまま、目はこちらを見ていなかった。
「今は、こんなに楽しいのにね」
すみれは、奈々子先輩の正面へ向き直った。
「……いつか、のほうは、わたしにも分かりません」
奈々子先輩の視線が、ゆっくりとすみれの顔へ戻ってきた。
「でも、奈々子先輩。わたし、足利で訊きましたよね。何か、お気に障るようなことをしましたか、って」
「……うん」
「訊くまでは、わたしが何かしてしまったのかと思っていました」
奈々子先輩は、すみれを見つめていた。
「……真帆さんに、会いに行ってみませんか」
奈々子先輩の肩が、小さく揺れた。
そのとき、隣にいたほのかさんが、一歩前へ出た。
「だけど……」
ほのかさんの声には、迷いと心配が混ざり合っていた。
「もし、会って……奈々子さんがもっと傷つくことになったら、どうするの? 真帆さんがどんな顔するかも分からないし、冷たくされたりしたら……あたし、奈々子さんが悲しい顔して東京に帰るの、見たくないよ」
その瞬間、すみれの胸元が、ざらりと熱を持った。
怒りではない。もっと冷えた、諦めに近いもの。
すみれは思わずほのかさんを見た。
ほのかさんは、奈々子先輩から目を離さなかった。
「……ほのかさんの言うとおりだと思います」
すみれの声に、ほのかさんがこちらを向いた。
「会って、もっと傷つくことだって、あるかもしれません」
ほのかさんは黙っていた。
すみれは二人に向かって、静かに続けた。
「……行っても、行かなくても、今日は三人で帰りましょう」
奈々子先輩は、しばらく二人を見つめていた。
「……ありがとう、二人とも」
それから、自分の足元へ目を落とし、深く息を吸い込む。
「……行ってみる」
奈々子先輩は歩き出した。
ほのかさんは一瞬立ち止まり、唇を真一文字に結んだ。それから小さなため息をひとつ吐いて、小走りで奈々子先輩のすぐ隣へと並び直した。
広場を出て、真帆さんの家がある方へ戻る。
角を曲がると、奈々子先輩の足取りは速くなった。子どもの頃に通った道を、今度は迷わずに進んでいく。
◇
黒ずんだ板壁に、瓦葺きの屋根。玄関の脇には『民宿』と書かれた小さな札と、木の表札が掛かっている。
『四谷』
ほのかさんが足を止め、首を傾げた。
「あれ、真帆さんの家って民宿なの?」
「そう。昔から変わってないね」
奈々子先輩が答える。
「そっか。真帆さん、いるといいですね」
「……うん」
玄関の引き戸の前で、奈々子先輩が立ち止まった。
ガラスの入った引き戸を見つめ、一度だけ息を吸い込む。指先が戸の枠にかけられた。
ガラガラ、と乾いた音が通りに響く。
土間の玄関に足を踏み入れ、奈々子先輩が声を張った。
「ごめんください」
奥の廊下から、パタパタとスリッパの音が近づいてくる。
板張りの間から現れたのは、紺色のエプロンを身につけた、少し恰幅のいい女性だった。
「はい、いらっしゃい」
女性は三人の抱えた荷物を見て、ふらりと訪ねてきた旅行客だと思ったようだった。
「お泊まりですか? それとも――」
尋ねかける女性の前に、奈々子先輩が進み出た。
「あの……昔、近くに住んでいた、白鳥です」
女性の動きが、ぴたりと止まった。
まばたきを一つし、それから、奈々子先輩の顔をまじまじと見上げた。
「あら、白鳥さんとこのななちゃん? 大きなって! 真帆ー!」
屈託のない、明るく張りのある声が、玄関から奥の廊下へと響き渡った。
奥の部屋で、何かが倒れるような小さな物音がした。
続いて、慌ただしい足音が廊下を駆けてくる。
薄暗い廊下の向こうから姿を見せたのは、奈々子先輩と同い年くらいの、飾らない服装をした若い女性だった。
その女性――真帆さんは、玄関先の奈々子先輩を見て、足を止めた。
「……ななちゃん?」




