また明日
山あいを縫うように走ってきた路線バスが、細い坂道をゆっくりと下り、古い街並みの手前で停まった。
プシューと扉が開き、ステップを降りる。夕暮れの冷たい山風のなかに、温かい湯の気配が混じっていた。
「着いたよ。ここが湯村温泉」
奈々子先輩がリュックの肩紐を持ち直し、通りの先を見つめた。
瓦屋根の落ち着いた旅館や商店が並び、中央を流れる春来川の岸辺からは、幾筋もの白い湯気が立ち上っている。派手な看板はなく、川のせせらぎが通りまでよく届いていた。
星乃先輩とりあさんがいなくなって、周囲の人たちの気配は少しだけ近くなった。それでも、湯気に包まれた通りの空気は穏やかだった。
「わあ……! あちこちから湯気出てる!」
ほのかさんがキョロキョロと首を巡らせる。
「あそこが、さっき言ってた荒湯?」
「そう。川原のあそこ」
奈々子先輩が指さした先では、石造りの湯つぼから、もうもうと湯煙が吹き上がっていた。
「九十八度もある熱いお湯が湧いてるんだよ。地元の人も、あそこで野菜を茹でたりするの」
「きゅうじゅうはちど!? ほぼ沸騰してるじゃん!」
ほのかさんが目を輝かせる。
「宿に行く前に、たまご茹でていこ! あたし、もうお腹すいてきた!」
「卵はすぐそこの売店で買えるよ。行こうか」
奈々子先輩が小さく笑い、先を歩き出した。
川沿いの石段を下りていくと、澄んだ熱気を含んだ湯煙が顔を包み込んだ。肌に触れる空気がふわりと湿り気を帯びる。
売店へ向かったほのかさんが、赤い網に入った卵を掲げて戻ってきた。
「買ってきたよ! これ、湯つぼに浸けて十一分くらい待つんだって!」
「十一分ですね。楽しみです」
湯つぼの縁には金具が並んでいて、訪れた人たちがそれぞれ紐を結びつけている。ほのかさんが器用に金具へ紐をくくり、卵を熱湯の中へと沈めた。
「よし! あとは待つだけ!」
石造りの手すりに並んで寄りかかり、立ち上る湯気を眺める。川の向こう岸の足湯には、何人かが腰を下ろして足を浸していた。
ふと、ほのかさんが川向こうに立つ像に目を留めた。
「あの像、誰?」
「夢千代さん。昔のドラマの舞台なの、この町」
「へえー。奈々子さん、見たことあるの?」
「ううん。私が生まれるずっと前だから」
そんな話を交わしていると、石段の上からタタタッと足音が下りてきた。
「おい、先についた方の勝ちやぞ!」
「ずるいわ、フライングや!」
黄色い通学帽をかぶった小学生の男の子が二人、ランドセルを揺らしながら下りてくる。手にはそれぞれ水筒を提げていた。
湯つぼのそばまで来て、手すりにいたほのかさんと目が合った。
「お姉ちゃんたち、卵?」
小柄な方の男の子が、網の紐を指さして訊いてきた。
「そうだよ。今入れたところ!」
ほのかさんが屈んで答えると、もう一人の男の子が胸を張った。
「十一分くらいつけとかんと、中まで固まらんで」
「知ってるよー、お店の人に教えてもらったもん」
「あと、引き上げたらすぐあっちの水につけんとな」
男の子が湯つぼの脇にある水道の蛇口を指さす。
「冷やさんと、熱くて殻剥かれへんようになるから」
「へえー、物知りじゃん!」
ほのかさんが笑いかけると、男の子は少し照れくさそうに鼻を鳴らした。
「毎日見とるからな」
「お前、昨日茹でたやつ落として割ったやんか」
「言うなや!」
二人は小突き合いながら石段を駆け上がり、上の通りへ戻っていった。
「じゃあな、また明日!」
「おう、また明日な!」
夕暮れの空気に、当たり前のような声が溶けていく。一人が橋を渡り、もう一人が坂道を上っていった。
ほのかさんが立ち上がり、小さく息をつく。
「なんか、いいよねえ。地元の子って感じ」
「うん」
奈々子先輩も口元を緩め、男の子たちが去っていった橋の向こうを静かに眺めていた。
「そろそろ十一分経つかな」
ほのかさんがスマートフォンで時間を確認し、網の紐を引っ張り上げた。湯気のなかから、熱々の卵が姿を現す。
「熱っ! 水、水!」
教わった通り、すぐに冷水の蛇口へ持っていき、じゃばじゃばと水をかける。手で持てる熱さになったところで、石段のベンチに座り、三人で殻を剥いた。
つるりと綺麗に剥けた茹で卵から、ふわっと湯気が立ち上る。
「いただきまーす!」
ほのかさんが大きく一口かじった。
「あつっ……! でも、めっちゃ美味しい! 黄身がしっかりしてて、甘みがある!」
「本当ですね」
すみれも一口いただいた。塩をつけなくても、素朴な旨味が口の中に広がる。
「奈々子先輩も、どうぞ」
「ありがとう」
奈々子先輩も受け取った卵を口に運び、「うん、美味しい」と目を細めた。
ほのかさんがスマートフォンを取り出し、卵を並べて一枚撮った。
「これ、りあすけに送っとこ! 美味しいものあったら送ってって言ってたし」
手早くメッセージを送ると、十秒も経たないうちにピロンと通知が鳴った。
「うわ、返信早!」
「何て書いてあるんですか?」
「『ずーるーい! あーしもそれ食べたかった! 今、豊岡で車返して駅ついたとこ。ほっしー横で缶開けてるし』だって」
画面を見せてもらうと、電車のホームで缶ビールを持った星乃先輩のブレた写真が添えられていた。
「星乃先輩、もう飲んでいらっしゃるんですね」
「相変わらずだね」
奈々子先輩が笑い、ほのかさんも「ほんとだね」と吹き出した。
◇
川沿いにある木造の宿にチェックインし、部屋へ通された。
古い建物だったが手入れが行き届いており、畳の上に座ると、窓の下から春来川の水の音がよく聞こえた。
浴衣に着替えてすぐ、内湯に向かった。
木造りの浴室には湯気が満ちていて、注がれるお湯は無色透明でさらりとしていた。湯船に肩まで沈めると、移動で凝っていた足腰がじんわりと解けていく。
「はあ〜……生き返る……」
ほのかさんが湯船の縁に顎を乗せた。
「城崎もよかったけど、ここのお湯もすっごく肌がつるつるになるね」
「弱アルカリ性で、重曹の成分も入ってるからね」
奈々子先輩が湯を手ですくいながら言った。
「美肌の湯って言われてるんだよ」
「へえー! 奈々子さん、ほんと何でも知ってる!」
「温泉は好きだからね」
湯上がりには、部屋で夕食をいただいた。
山の幸の天ぷらや煮物、川魚の塩焼きなど、飾らない料理が並ぶ。箸を動かしながら、三人で穏やかな時間を楽しんだ。
食事が片付き、仲居さんが布団を敷いて部屋を出ていくと、川のせせらぎが一層近くに感じられた。
「ふあー……」
ほのかさんが座布団の上で大きく伸びをした。
「今日、めっちゃ歩いたし……温泉入ったら、一気に眠くなってきたかも……」
「疲れたでしょう。先に寝てていいよ」
「じゃあ……お言葉に甘えて……」
ほのかさんは敷かれた布団へ潜り込むと、枕に頭を乗せて数分もしないうちに、すやすやと寝息を立て始めた。
すみれは急須から新しいお茶を注ぎ、座卓の向かいに座る奈々子先輩の前へ湯呑みを置いた。
「どうぞ」
「ありがとう」
奈々子先輩は両手で湯呑みを包み込み、立ち上る湯気を見つめた。
窓の外から、川の流れる音が途切れずに響いている。
昼間、海沿いの町の駅前に降り立ったとき、奈々子先輩は通りを見つめたまま動かなかった。「明日でいいよ」と言って、少しだけ笑ったあのときの顔が、すみれの頭に浮かんだ。
けれど、すみれからは何も訊かなかった。
お茶を一口含み、静かに待つ。
二人のあいだを、緩やかな時間が流れていった。
やがて、奈々子先輩がぽつりと言った。
「……昔ね、仲の良かった子がいたんだ」
低く、澄んだ声だった。
すみれは湯呑みを座卓へ戻し、奈々子先輩を見た。
「この近くに、住んでいらした頃ですか?」
「うん」
奈々子先輩は視線を落としたまま、言葉を一つずつ置くように続けた。
「引っ越す日にね、あの駅まで見送りに来てくれたの。手紙書くからね、って」
少しの間があった。
「引っ越してからも、しばらくは連絡を取ってたんだけどね。……途中から、返事が来なくなって」
「……そうだったんですね」
「うん。別に、喧嘩したわけでもないんだよ」
「理由は……」
「分からない。今でもね」
奈々子先輩は薄く息を吐いた。
「あの頃は……ずっと続くと思ってたんだよね。当たり前に、友達のままでいられるって信じてた。……でも、途絶えちゃったら、それっきりで」
指先が、膝の上の浴衣をかすかに握る。
「駅前に降りたとき、急に思い出しちゃってさ。……あの子、今もあの町にいるのかな、とか。私のことなんか、もう覚えてないんじゃないかな、とか」
奈々子先輩は顔を上げ、困ったように眉を下げた。
「私、何をしにここまで来たんだろうって……少し怖くなっちゃって」
風が障子をかすかに揺らした。
胸元の石にそっと触れる。体温と同じだった。奈々子先輩の心は、肌へは流れ込んでこない。
けれど、いま話してくれた言葉が、すみれの胸の奥に届いていた。
「奈々子先輩」
「ん?」
「わたしには、奈々子先輩のお気持ちを、簡単に分かるとは言えません」
奈々子先輩が、少し目を丸くした。
「でも、明日、一緒に歩きましょう」
すみれは奈々子先輩の目をまっすぐ見つめた。
「奈々子先輩が子どもの頃に歩いた町、わたしも見てみたいです」
奈々子先輩はすみれの顔をじっと見つめ、それから、ふっと口元を緩めた。
「……うん。そうだね」
湯呑みをもう一度両手で包み直す。
「……行ってみないと分からない」
聞き覚えのある言葉だった。
「はい」
隣の布団からは、ほのかさんの穏やかな寝息が静かに続いていた。
窓の外では、春来川のせせらぎが、夜の街を包むように流れていた。




