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雨ノ守家

 青年の申し出に、奈々子先輩が一歩前へ出て、穏やかに頷いた。


「分かりました。往来では落ち着かないでしょうし、少し場所を変えましょうか」


「……すみません。こちらへ」


 青年が踵を返し、五人はその背を追って路地を進んだ。蕎麦屋のあった通りも静かだったが、角を曲がると、さらに人の気配が遠のいた。古い町家の間を抜けた先に、通りから少し外れた小さな木立の一角があった。木陰に古びたベンチが置かれていて、人通りはない。


 青年が足を止め、振り返った。まだ肩で浅く息をついている。


「……日渡家の方が、どうして今ここへ来られたんですか。家の者から、日渡と名乗る方と、和装の方がいらしたと聞いて、町の方に尋ねて回りました」


 声は低かったが、刺々しい硬さは抜け落ちていなかった。青年の視線は星乃先輩の黒い上着に向けられたままで、警戒を解いた様子はない。


 星乃先輩はポケットに片手を突っ込んだまま、淡々と答えた。


「旅行だ。城崎に泊まって、出石に寄った。……まあ、用があったのは確かだが、実家の使いじゃない」


「旅行のついでに、うちを訪ねたなんて……そんな偶然、信じられるわけがありません」


 青年の切迫した目が、星乃先輩を射抜くように見つめている。星乃先輩はわずかに息を吐き、青年の目をまっすぐに見返した。


「実家の指図で動く義理はない。そもそも私は……昔、剣があっちへ移った件で、実家から散々責められてる側だ。詳しいことなんざ、私自身も何も知らされてない」


 青年が息を詰めた。


「責められている……あなたが、ですか」


「そうだ。だから妹のことなんか、これっぽっちも知らん」


 星乃先輩の口調には、取り繕うような響きがまったくなかった。


 青年は星乃先輩を見つめ、それから後ろに控えるすみれたちへ視線を巡らせた。


 すみれの肌に、青年から放たれる感情が届いている。張り詰めていた棘のような警戒が、困惑と混ざり合って、わずかに緩んでいた。それでも、胸の奥底にある焦りと不安は、少しも引いていない。誰かを本気で案じている熱だけが、痛いほど伝わってくる。


 青年は視線を落とし、握りしめていた拳を開いた。


「……疑うような真似をして、すみませんでした。雨ノ守《あまのもり》正臣《まさおみ》といいます」


「日渡星乃だ」


 星乃先輩が短く応じる。正臣さんは顔を上げ、星乃先輩を見た。


「……少なくとも、あなた自身が関わっているわけではなさそうですね」


 正臣さんの肩から力が抜けた。だが、それは安堵というより、頼るべき手掛かりを失った落胆に見えた。


「……妹の名は、小夜《さよ》といいます。小夜は……あの剣に選ばれた、今の所有者なんです。それなのに……突然、姿を消したんです。その剣を持ったまま」


「……それを、日渡の私に言っていいのか」


 星乃先輩が低く言った。


 正臣さんははっと息を止め、一瞬だけ身体を強張らせた。だが、すぐに苦しげに唇を噛みしめる。


「……もう、構いません。誰に知られようと……あいつが見つかるなら」


「……選ばれた、か」


 星乃先輩が呟いた。いつもより、ほんの少しだけ言葉の落ちる間が長かった。


 すみれは、ベンチの背を掴む正臣さんの手を見つめた。白くなるほど指先に力がこもっている。


 剣の行方や、家の事情。知りたいことはたくさんあったはずなのに、口をついて出たのは別の問いだった。


「小夜さんは……どんな方なんですか」


 正臣さんが、驚いたように顔を上げた。


「え……?」


「その……剣を持ったままいなくなったと伺いました。でも、正臣さんは、とても心配していらっしゃいます。小夜さんは、ご自分からいなくなってしまうような方なのですか」


 正臣さんの瞳が小さく揺れた。


「……あいつは、真面目なやつです。任されたことはちゃんとやるし、剣のことだって、私には弱音を吐かなかった。だから……何も言わずにいなくなったのが、どうしても引っかかるんです」


 奈々子先輩が歩み寄った。


「警察には、届け出を出されたのですか」


「ええ。私からすぐに届けました。……それより、家の者は、剣のことばかり口にするんです。小夜がどこでどうしているのかより、『剣はどこだ』『剣をどうした』と、そればかりで……」


「……まず、妹さんじゃないですか?」


 りあさんが、怪訝そうに眉を寄せて言った。


 正臣さんは一瞬、言葉を詰まらせた。


「剣を取り戻したいなら、剣を持っている小夜を探すはずでしょう。それなのに……」


 正臣さんの声が、悔しさに震えていた。


 その話を聞いているうち、なぜか父のことが一瞬だけ頭をよぎった。ふだん、思い出すことさえない人なのに。何がそう思わせたのか、すみれ自身にも分からなかった。


「……あんな剣のことなんて、どうだっていいんです」


 正臣さんが、絞り出すように言った。


「あんなもの、あろうがなかろうが構わない。私は……小夜が無事で見つかってくれれば、それでいいんです」


 木立を抜ける風の音だけが響いた。


 誰も口を挟めなかった。星乃先輩も黙って正臣さんを見つめている。


 正臣さんは息を整えるように、深く頭を下げた。


「……取り乱して、すみませんでした。あなたが関わっていないと分かっただけでも、無駄ではありませんでした。私は、もう少しあいつを探してみます」


 踵を返そうとする青年の背中に、すみれは思わず声をかけていた。


「あの、正臣さん」


 正臣さんが立ち止まり、振り返る。


 すみれは鞄から小さなメモ帳とペンを取り出し、自分の連絡先を手早く書き留めた。紙片を丁寧に切り離し、両手で差し出す。


「もし……何かお力になれることがあれば、こちらにご連絡ください。わたしたちも、町の中で何か気付くことがあるかもしれませんから」


 見ず知らずの旅人の申し出に、正臣さんは目を丸くした。


 そして、差し出された紙片を両手で受け取ると、深く、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます。すみません、何から何まで……」


 顔を上げた青年の瞳には、まだ痛々しい焦りが宿っていた。それでも、先ほどまでの張り詰めた孤立感は、わずかに和らいでいた。


 正臣さんは紙片を胸のポケットにしまい、路地へと戻っていった。


 背中が見えなくなるまで、五人はその場に立っていた。


「妹がいなくなってるのに、剣のことばっかなんて……」


 ほのかさんが、ぽつりと言った。


「あたし、弟も妹もいるからさ。もしどっちかが急にいなくなったら、剣なんて絶対どうでもいいと思う」


 星乃先輩は空を見上げ、吐き捨てるように言った。


「……うちも、人のことは言えんがな」


 それ以上、星乃先輩は実家のことにも、朱音のことにも触れなかった。


 奈々子先輩が手元の観光案内を見つめながら、口を開いた。


「剣の手掛かりを追って出石まで来たけれど……その剣が、所有者ごと消えてしまったんだね」


「そうですね……」


 すみれが答えると、奈々子先輩は案内をめくり、顔を上げた。


「雨ノ守の家にはこれ以上行けそうにないし……せっかく出石まで来たんだから、但馬の一宮に行ってみない? 出石神社。小夜さんの無事も、お祈りしていこうか」


「うん……そうだね。あ、最初に言ってた一宮?」


 ほのかさんが頷いてから顔を上げると、奈々子先輩の口調が滑らかになった。


「そう。但馬国の一宮で、天日槍命《あめのひぼこのみこと》と、その神がもたらした八種の神宝をお祀りしているの。とても歴史のある神社でね。ここからなら、バスで行けるはずだから」


「奈々子さん、神社になると元気戻るよね!」


 ほのかさんが笑うと、りあさんも背伸びをした。


「お参りして気分変えよ!」


 星乃先輩も踵を返した。


「行くか」


「はい」


 五人は出石の町中へ戻り、バスに揺られて出石神社へと向かった。


     ◇


 バスを降りると、町の中心部から少し離れた場所に、木立に囲まれた静かで広い境内が広がっていた。


 鳥居をくぐると、敷き詰められた玉砂利を踏む五人の足音が響き渡る。秋の澄んだ空気が、重たかった胸の奥を撫でていく。


 ほのかさんが何気なく境内を見渡しながら言った。


「そういえばさ、足利のときみたいに……まさか、あの派遣の巫女さんいたりしないよね?」


「いるわけないじゃん!」


 りあさんが即座に吹き出した。


「ここ兵庫だよ? 足利のあんなちっちゃい神社にいた人が、こんな遠くまで派遣されてくるわけ――」


 りあさんが言葉の途中で首を巡らせ、参道や社務所のあたりを見回した。


 境内には数人の参拝客がいるだけで、竹箒を持った巫女の姿など、どこにも見当たらない。


「……あはは、だよねー!」


 ほのかさんが笑い、りあさんも肩の力を抜いた。


「びっくりさせないでよ、もう」


「いるわけないだろ」


 星乃先輩が呆れたように鼻を鳴らす。


「行こうか」


 奈々子先輩に促され、五人は拝殿の前へと進んだ。


 それぞれお賽銭を入れ、二礼二拍手一礼の作法で手を合わせる。


 横で四人が頭を下げ、顔を上げていく気配がした。けれど、すみれはすぐには目を開けられず、胸の前で重ねた手に少しだけ力を込めた。


 小夜という、まだ見ぬ人のこと。


 あの家の人たちに何が起きているのかは、すみれには分からない。


 それでも、小夜さんが無事で見つかってほしい。


 すみれは合わせた手の陰で、周囲に聞こえないほどの小声で呟いた。


「……みしろさん」


 ――なによ。


 冷たいままの石から、すぐに声が返ってきた。


「正臣さんのお話を聞いていたら……父のことを考えたときの、あの感じを少し思い出してしまって」


 ――だからって、同じとは限らないでしょ。


「はい。……それに、小夜さんのことも。みしろさん、何か分かりますか?」


 ――分かるわけないでしょ。あたしは何でも知ってるわけじゃないんだから。


 少しの間があって、低く呆れたような声が続いた。


 ――……まあ、あの男が妹を心配してたのは、本気だったと思うけど。多分ね。


 それきり、みしろの声は途切れた。


 すみれは息を整え、ゆっくりと目を開けた。


「すみれちゃん、長かったね。何お願いしてたの?」


 振り返ると、ほのかさんが待っていた。その隣で、奈々子先輩も穏やかにこちらを見ている。


「……いえ。少し、考え事をしてしまって」


「そっか。じゃあ戻って、出石の町をもう少し歩いてみよっか!」


「お団子とか美味しそうなお店あったし、行こ行こ!」


 りあさんが先頭に立って歩き出し、ほのかさんと星乃先輩がそれに続く。


 すみれは奈々子先輩の隣に並び、鳥居へ向かって参道を進んだ。


 鳥居をくぐる手前で、奈々子先輩がふと歩みを緩めた。


 境内の木立の向こう、遠く連なる山並みへ、静かに視線を遣っている。


 昨晩、城崎の宿で、「もう少し西。海沿いの方だよ」「もう、誰とも連絡取ってないから」と地図を見つめていた横顔が、すみれの頭をよぎった。


「奈々子先輩?」


 すみれが小さく声をかけると、奈々子先輩は振り返り、いつもの柔らかな笑みを浮かべた。


「ううん。行こう」

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