五枚の皿
ぴしゃりと閉ざされた格子の引き戸の奥からは、もう何の気配も返ってこない。
星乃先輩はポケットに手を突っ込んだまま、黒塗りの板塀を見上げていた。
「……日渡、というだけで、あそこまで拒絶されるなんて」
奈々子先輩が腕を組み、眉を寄せる。
「剣がこっちへ行ったことで、うちの連中が騒いでたのは知ってるがな」
星乃先輩は閉じた扉を一度見た。
「……嫌われたもんだな」
「星乃先輩は、関係ないのに……」
すみれが言うと、星乃先輩はちらりと視線を寄越した。
「実家のとばっちりなんぞ、今に始まったことじゃない。……行くぞ。突っ立ってても、あの扉が勝手に開くわけでもない」
踵を返し、歩き出す。その背中には、昔から同じような扱いを受け慣れてしまった人のような、乾いた諦めが滲んでいるように見えた。
「日渡先輩」
奈々子先輩が半歩後ろに並ぶ。
「辰鼓楼のほうへ戻ろうか。御影さんたちも待ってる」
「ああ」
三人は古い屋敷の残る路地を抜け、瓦屋根の町家が並ぶ通りへと戻っていった。
◇
辰鼓楼の広場に戻ると、時計台の下でお堀の鯉を覗き込んでいたほのかさんが、気づいて手を振った。
「あ、すみれちゃーん!」
「おー、戻ってきた! 早かったじゃん!」
りあさんも駆け寄ってきて、すみれたちの顔を覗き込む。
「で、どうだった? なんか分かった?」
「門前払いだ」
星乃先輩が、身も蓋もなく答えた。
「え? 門前払い……って、会えなかったの?」
「出てきてはくれたがな。名乗った瞬間に扉を閉められた。『お引き取りを』だそうだ」
「ええっ!? 名乗っただけで!?」
りあさんが声を裏返らせる。
「せっかく東京から来たのに!? 話も聞かずに!?」
「日渡という名前に、ずいぶん強い反発があるみたいでね」
奈々子先輩が補足すると、ほのかさんが眉を下げて星乃先輩を見た。
「星乃さん、何かしたの……?」
「何もしてない」
「してないのに追い返されたん!?」
「だからそう言ってるだろ」
星乃先輩は面倒そうに肩を竦めた。
「まあ、うちの連中の話だ。私に言われても知らん」
「うわあ……なんか、大変なんだね、昔からの家って……」
ほのかさんが息をつき、それからぱっと表情を切り替えた。
「でも! あたしたち、待ってる間にいいお蕎麦屋さん見つけといたよ!」
「そうそう!」
りあさんが請け負う。
「観光案内所でおすすめ聞いてきたんよ。辰鼓楼の周りから少し歩くんだけど、落ち着いてて穴場っぽいとこ教えてもらってさ。お腹も空いたし、先にご飯にしよ!」
二人の明るさに、張り詰めていた空気が緩む。
「はい。ぜひ、いただきに行きましょう」
すみれが答えると、星乃先輩も腹のあたりを叩いた。
「よし。蕎麦だ」
◇
観光客で賑わう中心部を抜け、路地を少し歩くと、家々の間の空気はぐっと静かになった。案内されたのは、通りから少し奥まった場所にある、落ち着いた佇まいの蕎麦屋だった。
のれんをくぐると、出汁の良い匂いが漂ってくる。座敷席の卓へ案内され、腰を下ろした。
「いらっしゃいませ。出石皿そばでよろしいですか?」
店員に尋ねられ、奈々子先輩が頷く。
「はい、五人前でお願いします」
「はい、五人前ですね。一人前が五皿になります」
出されたほうじ茶で喉を潤していると、ほのかさんが卓に肘をついた。
「五皿って、わんこそばみたいに次々出てくるの?」
奈々子先輩が湯呑みを置いて答える。
「ううん、最初に一人五皿ずつ、小皿に盛られて運ばれてくるんだよ。自分のペースで、つゆや薬味で味を変えながら食べるの」
「へえー、ゆっくり食べられるんだ」
ほのかさんが感心しているところへ、お盆を抱えた店員がやってきた。
「お待たせしました。出石皿そば、五人前です」
卓の上に、手のひらに収まるほどの白磁の小皿が次々と並べられていく。
五人前で、二十五枚。
あっという間に、卓の上が小皿で埋め尽くされた。
「うわあ……! すごい、壮観!」
「小皿めっちゃ並んでるじゃん! 可愛い!」
ほのかさんとりあさんがスマートフォンを向ける。
藍色の染付が施された小皿の上には、白っぽく、細めに打たれた端正な蕎麦が盛られていた。脇にはつゆの徳利と、ネギ、わさび、とろろ、生卵が置かれている。
「じゃあ、いただきます!」
五人がそれぞれ最初の一皿に手を伸ばす。
すみれも蕎麦をひと房すくい、つゆにつけて口に運んだ。冷たく締められた細めの蕎麦は喉越しがよく、澄んだ風味が軽やかに広がる。
「……美味しいです」
すみれが呟いたときには、隣の星乃先輩はすでに一皿目を空にして、二皿目をつゆにつけていた。
「ん。美味いな」
「星乃さん、早っ! もう二皿目いってる!」
「腹が減ってたんだ」
星乃先輩は淡々と箸を進め、三皿目を手元へ引き寄せる。
「あーし、とろろ入れるのめっちゃ好きかも! これ何枚でもいけるやつじゃん!」
りあさんが勢いよく啜り、すみれも生卵をといて味を変えてみる。濃厚な甘みが加わって、また箸が進んだ。
門の前で熱を帯びていた石は、もういつもの温度に戻っている。
胸元の内側で、ふいに小さな声がした。
――ふーん。美味しそうじゃない。
みしろだった。
すみれは周囲に聞こえないよう、小声で呟いた。
「……みしろさんも、召し上がりますか」
――石が蕎麦なんか食えるわけないでしょ。あんたが代わりに味わいなさいよ。
いつもの減らず口だった。すみれは口元を緩め、五皿目を手繰った。
「すみれちゃん、何笑ってるの?」
「いえ……とても美味しいな、と思いまして」
「だよね! あたしもう食べちゃった。追加頼まない?」
「頼む頼む! なんかね、この店、二十枚食べたら記念の手形がもらえるらしいよ!」
「二十枚はさすがに無理でしょ!?」
「やってみんと分からんじゃん!」
結局、追加で十五枚を注文し、みんなで分け合って平らげた。
「……ふう。二十枚は、さすがに無理だったわ」
りあさんが空の皿を見つめて苦笑する。
「ほのっち何枚食べた? あーし、結局八枚!」
「あたし七枚! 星乃さんは?」
「十枚だ」
「一番食べてるし!」
りあさんが笑い、奈々子先輩も蕎麦湯を飲み干して息をついた。
十枚の皿を重ねた星乃先輩の横顔は、いつもと同じに見える。門の前で見たあの諦めを、すみれはまだ訊けずにいた。
◇
店を出ると、午後の日差しが古い町並みを照らしていた。
「ふあー、お腹いっぱい!」
ほのかさんが伸びをし、通りを歩き出そうとした、そのときだった。
「あの……すみません!」
背後から呼び止められ、振り返る。
小走りで近づいてきたのは、落ち着いた濃紺のシャツを着た青年だった。二十代半ばくらいだろうか。整った身なりをしていたが、表情は切迫していた。
青年は荒い息のまま五人を見回す。
「先ほど……雨ノ守の家へ来られた方たちですよね」
奈々子先輩が怪訝そうに眉を寄せた。
「そうですが……」
「この中に、日渡という方がいらっしゃるはずですが」
すみれの肌に、青年から放たれる感情が届いた。敵意というよりは、何かに追い詰められているような痛々しい焦りだ。誰かを本気で案じていることだけは、はっきりと分かる。
星乃先輩が一歩前へ出た。
「私が日渡だ」
青年の目元が強張った。
「……妹のことです。あの日、妹は姿を消した」
ポケットに入れた星乃先輩の手が、ぴたりと止まったのを、すみれは見逃さなかった。
青年は抑えきれないように、一歩詰め寄る。
「日渡家が、妹を連れ去ったんじゃないんですか!」
「……え」
ほのかさんの小さな声が、張り詰めた空気の中に落ちた。
星乃先輩の目が、わずかに据わった。
「知らん。少なくとも、私は何も聞いてない」
「そんなはずは――」
「本当です!」
すみれは思わず、二人のあいだへ一歩踏み出していた。
青年が、驚いたようにすみれを見る。
「星乃先輩は……妹さんのことは、何もご存じありません。わたしたちは日渡家の命令で来たわけではないんです」
りあさんも真剣な顔で青年を見据える。
「あーしも保証します。星乃、実家のことほんとに嫌いで、関わりたくないってずっと言ってたんで。誰かを連れ去るとか、絶対ないですから」
「……余計なことを言うな」
星乃先輩がりあさんを短く制する。
青年は星乃先輩を見つめた。すみれの肌に届く焦燥が、大きく一度揺れる。
近くを通りかかった人が、何事かとこちらへ目を向けた。
その視線に気づいた青年は周囲へ視線を走らせ、小さく息を呑んで奥歯を噛みしめた。
荒い息を整えながら、青年は声を落とす。
「……ここでする話では、ありませんでした。少し、場所を変えて……お時間をいただけませんか」
通りを、秋の風が吹き抜けていく。
星乃先輩はポケットに手を突っ込んだまま、目の前の青年を見つめ返していた。
すみれは羽織の上から、胸元の石に触れた。
みしろは冷たいまま、何も言わなかった。




