城崎から出石を訪ねて
御所の湯の門前は、夜になっても人の出入りが途切れていなかった。
木造の堂々とした屋根瓦が街灯に照らされ、のれんをくぐるたびに、白い湯気が通りへふわりと逃げていく。
脱衣所で浴衣を脱ぎ、高い天井の下を抜けて湯船へ向かうと、奥から滝のように落ちてくる湯の音が響いていた。露天の岩風呂に肩まで浸かると、少し熱めの湯と冷たい夜風が、火照った頬に心地よかった。
「ふあー……生き返る……」
湯口のそばで、りあさんが脱力したように首を預けた。額に張りついた髪を手で払いながら、深く息を吐く。
「城崎、めっちゃいいじゃん。毎日これ入りたいわ」
「ほんとだねえ。お肌つるつるになりそう」
ほのかさんが両手でお湯をすくい、顔にパシャパシャと当てている。
すみれの隣では、奈々子先輩が湯船の縁に腕を乗せ、湯気の向こうの庭木を静かに眺めていた。部屋で地図を見ていたときの硬さは少し薄れ、濡れた黒髪の向こうで、柔らかく目を細めている。
「奈々子先輩、お湯加減はいかがですか」
「ちょうどいいよ。……少し熱いけど、風があるから気持ちいい」
見上げると、露天の頭上に夜空が抜けていた。
◇
湯から上がり、宿の下駄をカランコロンと鳴らしながら、四人で大谿川沿いの柳並木を歩いた。
川面に映るガス灯の明かりが、風に吹かれて細かく揺れている。浴衣の袖を抜ける夜風が、湯上がりの身体に心地よかった。
「あ、射的あんじゃん!」
りあさんが下駄の先を止め、通り沿いの明るい店先を指さした。
赤と白ののれんの奥に、木製のカウンターとコルク銃が並んでいる。棚の上には小さな人形や駄菓子の箱が所狭しと積まれていた。
「やりたい! あたし、温泉街の射的って一回やってみたかったんだよね!」
ほのかさんが目を輝かせて吸い寄せられていく。
「任せろし! あーし、こういうの得意だから!」
りあさんは紫の浴衣の袂を片手で器用にまくり上げ、店主からコルク銃を受け取った。カウンターに身を乗り出し、真剣な顔で狙いを定める。
ぽすん、と気の抜けた音が鳴り、コルクは狙っていたキャラクターのキーホルダーの頭をかすめて落ちた。
「あー! 惜しい! かすったのに!」
交代したほのかさんの一発も、箱菓子を揺らしただけで終わった。
「うそ、重すぎない!?」
「そんなことないよ、ほら、少しずれてる」
後ろで湯かごを抱えて笑っていた奈々子先輩へ、りあさんが銃を差し出した。
「ナナコ先輩もやりなよ! 一発で仕留めて!」
「え、私?」
奈々子先輩は戸惑いながらも銃を受け取ると、少し腰を落とし、片目を細めて狙いを定めた。
構えが妙に様になっている。
ぽすん。
鋭い音とともにコルクが飛び、中段の小さな缶を直撃した。缶は大きく傾いたが、ぎりぎりのところで踏みとどまり、元の位置へ戻る。
「……落ちないね」
奈々子先輩が真顔で呟いたので、ほのかさんとりあさんが同時に吹き出した。
「惜しい! ナナコ先輩、構えだけプロっぽかったのに!」
「スミレっちもやんなよ! まだ弾残ってるし!」
「えっ、わたしですか?」
銃を手渡され、すみれは両手で恐る恐る抱えた。引き金に指を添える。
「こうでしょうか……」
「そうそう、脇締めて! あそこの小さいやつ狙ってみて!」
りあさんに言われるまま、手前の小さな缶に狙いを合わせた。息を止め、引き金を引く。
ぽすん。
放たれたコルクが缶の端を叩き、コロンと軽快な音を立てて後ろへ落ちた。
「落ちたー!」
「すごいじゃん、スミレっち!」
ほのかさんとりあさんが歓声を上げ、店の主人が笑いながらラムネ菓子の入った小さな瓶型ケースを手渡してくれた。両手で受け取ると、手のひらにプラスチックのつるりとした感触が残る。
「ありがとうございます」
顔を上げると、三人が笑っていた。
店を出て、川沿いの石畳へ戻る道すがら、りあさんが通り沿いの土産物屋の軒先に目を留めた。小さな木札に、赤い筆文字で案内が書かれている。
「え、恋愛成就あるじゃん。行きたい!」
「明日は出石だし、その次もいっぱい回るから、今回は無理じゃない?」
ほのかさんが現実的な声で言うと、りあさんは一瞬唇を尖らせ、それからからりと笑った。
「えー……じゃあ、また今度、別のとこ行こ!」
「うん、そうしよ!」
二人のやり取りを聞きながら、すみれはラムネの小瓶をそっと握り直した。
夜の温泉街は、まだ賑やかだった。行き交う人たちの楽しげな話し声、橋を渡る下駄の乾いた音、柳の葉が触れ合うかすかなざわめき。
いつもなら、人の多い通りを歩けば、すれ違う誰かの疲労や、冷えた苛立ちが肌を撫でて息苦しくなる。
今夜だって、人の感情が聞こえなくなったわけではない。
静かではなかった。
それなのに、今日はそれが嫌ではなかった。
前を行く三人の下駄の音を追いかける。浴衣の裾が足首をかすめるたび、夜風が心地よく通り抜けていった。
◇
宿へ戻り、部屋の引き戸を静かに開けると、薄暗い和室の隅で布団が一つだけこんもりと盛り上がっていた。
「……ほんとに寝てる」
ほのかさんが靴を脱ぎながら小声で言う。
星乃先輩は毛布を肩まで引き上げ、規則正しい寝息を立てていた。枕元の座卓の上には、夕方に買った蟹の絵の菓子箱が、端をきちんと揃えて置かれている。
「早すぎでしょ、ほっしー」
りあさんが笑いを噛み殺しながら爪先立ちで部屋へ入る。
「お風呂、気持ちよかったのにね」
奈々子先輩も小さく笑い、布団の足元をそっと踏まないように自分の場所へ荷物を置いた。
明かりを一番暗い豆球に落とすと、部屋の外から、遠い川の音と下駄の音だけが微かに届いてくる。
布団に潜り込むと、畳の新しい井草の匂いが鼻をかすめた。
明日は、出石へ向かう。
目を閉じると、温まった身体が吸い込まれるように重くなっていった。
◇
翌朝、障子の隙間から差し込む白い光で目が覚めた。
障子を開けると、朝の温泉街には薄く川霧が立ち込めていて、冷たい空気が部屋の中へと流れ込んできた。
朝食を終え、各自が着替えを済ませる。すみれは普段の和装に着替え、羽織の襟元を整えた。星乃先輩はすでにいつもの黒い上着を羽織り、壁にもたれてスマートフォンを見ている。
「荷物、置いたままでいいんだよね」
りあさんが身の回りのものを小さな巾着にまとめながら尋ねた。
「うん。今夜もここだから、大きい鞄は置いたままで大丈夫」
奈々子先輩が手早く自分の荷物をまとめ、部屋の隅へ寄せる。
宿を出ると、朝の冷気が肌を引き締めた。
城崎温泉駅から電車で豊岡へ出て、そこから出石行きの全但バスに乗り換える。
車窓の景色は、山あいの穏やかな田園風景から、やがて古い家並みが続く城下町の風情へと移り変わっていった。遠くの山裾にはまだ薄い朝霧が残っている。
出石の町に着き、バスを降りると、白壁の土蔵や瓦屋根の家並みが迎えてくれた。
少し歩いた通りの向こう、石垣の上に大きな木造の時計台が見えた。
「あ、あれだ! 辰鼓楼!」
ほのかさんがスマートフォンを構えて駆け出す。
「おー、渋いじゃん! 写真撮ろ!」
りあさんも小走りで追いかけていく。二人が並んで時計台を見上げる姿を見送り、奈々子先輩が足を止めた。
「じゃあ、私たちはそのお宅へ行ってくるね。五人で押しかけるのも迷惑だし」
「了解ー! あーしたちはその辺ぶらぶら見てるね! お蕎麦屋さん、美味しそうなとこ探しとく!」
りあさんが振り返って大きく手を振った。ほのかさんも「気をつけてねー!」と声を上げる。
二人はそのまま、お堀端の小路へ楽しそうに向かっていった。
すみれ、奈々子先輩、星乃先輩の三人は、大通りを外れて静かな路地へと入った。
「こっちだ」
星乃先輩がポケットから四つ折りにしたメモを取り出し、角を曲がる。
城下町の面影を残す通りは静かで、観光客の姿もまばらだった。古い板塀や手入れされた生垣が続き、時折、庭の池から水が流れる小さな音が聞こえてくる。
「雨ノ守、だったな」
星乃先輩が呟いた。
「うん。この先を左に曲がったところのはずだよ」
奈々子先輩が落ち着いた声で先を促す。
角を曲がると、黒塗りの重厚な板塀に囲まれた立派な屋敷が現れた。
手入れの行き届いた松の枝が塀の上からのぞき、門扉には古い家紋が刻まれている。但馬の古い町に何代も続いて根を下ろしてきた、歴史ある旧家の佇まいそのものだった。
門の脇に、木製の表札が掲げられている。
『雨ノ守』
星乃先輩が格子戸の前へ進み、呼び鈴を押した。
奥で、低く控えめな電子音が響く。
少しの間があって、敷石を踏む草履の音が近づいてきた。
引き戸が静かに開く。
現れたのは、落ち着いた色合いの着物に割烹着を重ねた、初老の女性だった。白髪を後ろできれいにまとめ、穏やかな目元をこちらへ向けてくる。
「はい、どちら様でしょうか」
ごく普通の、丁寧で落ち着いた応対だった。見知らぬ来客を怪しむ様子もなく、静かに三人の姿を見つめている。
星乃先輩が一歩前へ出た。
「日渡星乃です。東京から来ました」
女性のまばたきが、止まった。
「……日渡?」
女性の口から、その二文字が零れ落ちた瞬間だった。
ぞわり、と肌が粟立った。
氷の刃を首筋に押し当てられたような、冷たくて鋭利な気配が、真正面から叩きつけられる。
胸元のみしろが、ざらりと熱を帯びた。
すみれは息を呑み、思わず羽織の襟元を指先で押さえた。
拒絶だった。
理由は分からない。ただ、「日渡」という名にだけ向けられたものだということは、はっきりと分かった。
女性の目から、温度が消えていた。
「お帰りください」
低く、硬い声だった。
「少し、聞きたいことが――」
星乃先輩が言葉を継ごうとしたが、女性はそれを視線だけで断ち切った。
「日渡の方とお話しすることはありません」
取りつく島もなかった。
挨拶も、用件も、東京から足を運んだ理由すら、尋ねようとしない。
「お引き取りを」
引き戸が、ぴしゃりと音を立てて閉じられた。
門の前には、三人だけが残された。
隣で、奈々子先輩が固く口を結び、閉ざされた扉をじっと見つめている。
突き刺すような気配が潮のように引いていき、指先の下で、みしろの熱がゆっくりと静まっていく。
通りを、秋の風が吹き抜けていく。
黒塗りの板塀を見上げたまま、星乃先輩はポケットに手を突っ込み、短く息を吐いた。
「……まだ何も言ってないんだがな」




