柳の川と、遠い湯の町
東京から新幹線と特急を乗り継ぎ、山あいを抜けて日本海側へ近づくにつれて、車窓の景色は深緑の山並みから湿り気を帯びた空気へと変わっていった。
城崎温泉駅の改札を出ると、川沿いの冷えた風が頬をかすめ、どこからか下駄の乾いた音がカランコロンと響いてきた。
「うわあ……! 本当に温泉街だ!」
ほのかさんが駅前広場で立ち止まり、大きく息を吸い込んだ。
「見てスミレっち、みんな浴衣着て歩いてるよ!」
りあさんが指差す先には、大谿川沿いに続く石畳の道と、その両脇に立ち並ぶ木造の旅館が見えていた。川の縁には柳の木が等間隔に並び、風に揺れる細い葉が水面に触れそうになっている。太鼓橋の上を行き交う人々は、色とりどりの浴衣を身にまとい、手には小さな湯かごを提げていた。
「風情がある町ですね」
すみれが見上げると、奈々子先輩が横で小さく笑った。
「城崎は外湯めぐりが基本だからね。宿で浴衣に着替えたら、みんな下駄で温泉街を歩くんだよ」
予約していた宿は、川沿いの柳並木から一本入った小路にあった。
通された和室には真新しい畳の匂いが満ちていて、窓からは古い瓦屋根が連なる温泉街の街並みが一望できた。
「はい、みんな! 浴衣選ぶよ!」
仲居さんが持ってきてくれた何種類もの色浴衣を前に、ほのかさんとりあさんが歓声を上げる。
「ほのっち、この黄色の帯めっちゃ似合うじゃん」
「りあすけは絶対その紫でしょ! すみれちゃんは……あ、この落ち着いた藍色とかどうかな?」
「ありがとうございます。とても素敵です」
着慣れた着物とは違い、浴衣は軽やかで、帯も柔らかい。すみれがほのかさんやりあさんの帯結びを手伝い、五人がそれぞれ色とりどりの浴衣に身を包んだところで、宿の下駄を鳴らしながら表の通りへ繰り出した。
夕暮れが近づき、川沿いのガス灯にぽつぽつと明かりが灯り始めていた。
柳の葉が夕風に揺れ、石畳を叩く下駄の音が重なり合って、温泉街全体が心地よいざわめきに包まれている。
「カランコロンって、ほんとに鳴るんだねえ」
ほのかさんが足元を面白そうに見つめながら歩く。
「あっちのお店、お土産屋さんかな? ちょっと見ていこうよ!」
りあさんに引っ張られるようにして、五人は通り沿いの土産物店に入った。
店内には、麦わら細工の小箱や絵はがき、湯の花、そして蟹を模した焼き菓子などが所狭しと並んでいる。
「あ、これ可愛い」
ほのかさんが小さな巾着を手に取っている横で、すみれは棚の前に立っていた星乃先輩に気づいた。
星乃先輩は、木彫りの民芸品や和菓子の箱を、眉間に薄く皺を寄せて見つめている。普段なら土産物売り場など素通りしてしまいそうな人が、珍しく真剣な顔で箱の裏を確かめていた。
「星乃先輩、何かお探しですか」
すみれが声をかけると、星乃先輩は手に持っていた箱を戻し、首の後ろを掻いた。
「……当主。土産を買ってこいって言われてな」
「え、当主様ですか?」
すみれが目を丸くすると、横からのぞき込んだりあさんが声を上げた。
「え、ほっしー、足利のおじさんと連絡取ってんの!?」
「たまに酒の連絡が来る。……あと、美由紀にもなんか甘いもん買ってこいって言われた」
「何がいいって?」
「当主は任せるって言ってたが、美由紀は『可愛いやつ』だと。……何が可愛いのかさっぱり分からん」
星乃先輩は心底困ったように短く息を吐いた。りあさんが吹き出す。
「あはは! 美由紀さんぽい! あそこんち、みんな自由だもんねえ」
「外れ引いて文句言われるのも面倒だしな」
星乃先輩が棚を睨みつけていると、すみれの胸元の内側から、ぽつりと声が届いた。
――……ずいぶん悩むのね。
すみれは胸元をそっと押さえ、口元を緩めた。棚を見渡すと、小さな蟹の絵が描かれた焼き菓子の箱が目に入る。
「星乃先輩。あちらの、小さな蟹の絵がついた焼き菓子の詰め合わせなどはいかがでしょうか。包みも可愛らしいと思います」
「……そうか? じゃあ、それにするか」
星乃先輩は棚からその包みを一つ取り上げ、レジへ向かった。
足利を離れても、星乃先輩とあの家の人たちのやり取りはこうして続いている。それが、すみれにはどこか嬉しかった。
外に出ると、夕方の風が少し涼しくなっていた。
「そろそろ一つ目のお湯、行ってみよっか!」
ほのかさんの号令で、五人は川沿いにある外湯の一つ、歌舞伎座を思わせる堂々とした建物の一の湯の暖簾をくぐった。
脱衣所を抜けて湯船に入ると、少し熱めのお湯が肌を包み込む。
「はあぁぁ……生き返る……」
りあさんが湯口のそばで肩まで浸かり、長い息を吐いた。
「移動で足パンパンだったから、めっちゃ効くわー」
「気持ちいいですね」
岩肌をくりぬいたような半露天の湯に肩まで沈めると、長い移動で強張っていた身体が、熱いお湯の中でゆっくりとほどけていく。仲間たちと同じ湯に浸かって温まっている時間が、ただ心地よかった。
湯上がりに風に吹かれながら宿へ戻り、広間で出された但馬牛や旬の魚の並ぶ夕食を囲んだ。
「お肉やわらかっ!」
ほのかさんが頬を押さえて目を輝かせ、りあさんが「ご飯おかわりもらお」と茶碗を掲げる。星乃先輩も手元の地酒をちびちびと口に運びながら、機嫌悪くなさそうに箸を動かしていた。
笑い声が途切れることなく続き、旅の夜はゆっくりと更けていった。
◇
夕食を終えて部屋に戻ると、仲居さんが綺麗に敷いてくれた五人分の布団が並んでいた。
外からは、夜になっても絶え間なく下駄の音が響いてくる。浴衣の襟元を正しながら、りあさんが座卓の上に広げられた地図を覗き込んだ。
「でさ、明日は何時くらいに出る?」
「朝のバスに乗れば、午前中のうちに着けるよ」
奈々子先輩が手元のスマートフォンで確認しながら答えた。
「明日は、日渡先輩が聞いてきてくれた家を訪ねようと思う。一宮の神社の近く」
「あいつらがそう言ってたんだから、間違いはないだろ」
「うん。場所は分かっているしね」
奈々子先輩が頷き、地図の神社があるあたりを指先で押さえた。
その地図を横から見ていたほのかさんが、ふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば奈々子さん、昔この辺に住んでたんだよね? 奈々子さんが住んでたのって、どの辺なの?」
奈々子先輩は視線を地図の左上、海沿いの西側へと少し滑らせた。
「もう少し西。海沿いの方だよ。……鳥取の手前くらい」
「へえー、海が近かったんだ」
ほのかさんが感心したように呟く。
すると、座卓に肘をついて聞いていたりあさんが、はっとしたように言った。
「あ、それならさ。ナナコ先輩、その頃の友達とか、今も連絡取ってたりする?」
「……ううん」
奈々子先輩の声は低く、淡々としていた。
「もう、誰とも連絡取ってないから」
視線は手元の地図の上に落ちたままだった。
いつもなら、誰かが何かを言えばすぐに顔を上げて柔らかく微笑む奈々子先輩が、視線を上げない。
りあさんは目を見張り、それから小さく口を結んだ。
「……そっか」
それ以上、りあさんも踏み込まなかった。
すみれは、座卓の向かいに座る奈々子先輩の横顔を見つめた。
怒っている風でも、取り乱している風でもない。ただ、いつものように神社や古い土地の話をするときに見せるあの生き生きとした調子とは、どこか違っていた。
何があったのかまでは分からない。すみれは何も言わなかった。
数秒の間をおいて、奈々子先輩が地図を折り畳んだ。
「明日は、予定通り日渡先輩が聞いてくれた家を訪ねよう。朝も早いし、少し歩くことになると思う」
顔を上げた奈々子先輩の口元には、いつもの穏やかな笑みが戻っていた。
「うん! あーし、お蕎麦楽しみにしてるし!」
りあさんがぱっと表情を明るくして座布団の上で伸びをした。
「ねえねえ、寝る前にもう一回お風呂行かない? さっき通ったとき、御所の湯ってところもライトアップされててめっちゃ綺麗だったんだよね!」
「あ、あたしも行きたい! 行こう行こう!」
ほのかさんが飛び起きるようにして浴衣の裾を直す。
「すみれちゃんも行くでしょ? 星乃さんは……どうする?」
「私はいい。ここで寝る」
星乃先輩は横を向いて、そのまま目を閉じた。
いつもなら、まだお酒を飲んでいそうな時間だった。すみれは少しだけ星乃先輩を見たが、何も言わなかった。
「じゃあ四人で行こ! スミレっち、湯かご持った?」
「はい、持っています」
立ち上がり、部屋の引き戸を開けると、廊下の奥から夜の冷えた空気が流れ込んできた。
宿を出ると、大谿川沿いの柳並木が街灯に照らされていた。黒い水面に明かりが揺れ、石畳にはあちこちから下駄の音が響いている。
少し先を、奈々子先輩が歩いていた。
もう誰とも連絡を取っていない、という言葉が、すみれの胸の奥に残っている。
明日は、剣を受け取った家を訪ねる。
そこで何を聞けるのか。
あの鏡の前で起きたことのように、みしろにまた何かが起きるのか。
まだ、何も分からない。
「スミレっちー、置いてくよー!」
前からりあさんの声が飛んできた。
「あ、はい!」
すみれは少し足を速めた。
四人分の下駄の音が、夜の川沿いに重なった。




