蕎麦が有名らしい
上野桜木の星乃先輩の家には、まだ昼下がりの日差しが残っていた。
開け放たれた木戸から風が吹き抜けて、六畳の畳の上に敷かれた薄い座布団の端を揺らす。こたつ机の上には、奈々子先輩が持ってきた関西の道路地図と、ほのかさんがコンビニで買ってきた旅行雑誌が広げられていた。
「見て見て、この宿! 浴衣が何種類も選べるんだって。可愛くない?」
ほのかさんが雑誌のページを指先で叩く。隣で麦茶のグラスを傾けていたりあさんが、身を乗り出して覗き込んだ。
「あ、いいじゃん! 温泉街ってさ、みんな浴衣で歩くんでしょ? スミレっちも着る?」
「はい。皆さんと同じ浴衣を着られるのは、とても楽しみです」
すみれが答えると、りあさんは満足そうに頷いて麦茶を一気に飲み干した。
机の向こう側では、奈々子先輩が広げた地図の但馬のあたりに目を落としていた。りあさんも横から地図を覗き込む。
「兵庫の北側って、思ってたより広くない? パパが言ってた『北のほう』だけで探すの、無理ゲーじゃん」
「そうですね……。駅を降りてから、どう動くべきか……」
すみれが言いかけたときだった。
台所の方から戻ってきた星乃先輩が、冷えた茶色の瓶をことりと机の端に置いた。栓抜きで王冠を外すと、立ったまま一口喉を鳴らし、畳の上へどっかりと腰を下ろす。
「場所、分かったぞ」
全員の手が止まった。星乃先輩が、こたつ机の上の地図の一点を指先でトントンと叩く。
「……え?」
ほのかさんが顔を上げる。星乃先輩は瓶を持ったまま、淡々と言った。
「剣を受け取った家の場所も聞いてきた。但馬の一宮があるところだ。……なんか、蕎麦が有名らしい」
「蕎麦!!」
ほのかさんが雑誌を取り落としそうになりながら身を乗り出した。
「蕎麦食べたい! あたし行きたい!!」
「ほのっち、食いつき早すぎ!」
りあさんが笑い、それからふと我に返ったように星乃先輩を見た。
「……てか、ほっしー、それどこで聞いたん?」
「実家」
短く返された言葉に、部屋の空気が止まった。
電車のなかで、星乃先輩は言っていたはずだ。日渡家へ聞きに行ったところで、まともに教えてくれるわけもない、と。行けばまた理不尽に責め立てられるだけだと、そう口にしていた。
「でも……星乃先輩。ご実家へは、お聞きにならない方がよろしいのでは……」
「私も行くって言っただろ」
星乃先輩は瓶の口を見つめたまま言った。
「お前らだけに調べさせる話でもない。行くだけの手掛かりは要る」
「でも、よく教えてもらえたね」
奈々子先輩が静かに尋ねた。
星乃先輩は瓶を机に置き、腕を組んだ。
「向こうも私を無視できんからな」
「なんで?」
「朱音にはもう、力がない。けど、家はそれを外に言えん。そういう力がなきゃ片付かん用事が来たら、代わりにやる奴が要る」
「……それが、ほっしー?」
「ほかに見えるのがいないからな。散々嫌ってるくせに、そういうときだけ呼びつける。……府中の日もそうだった」
「あ……!」
りあさんが小さく声を漏らした。
あの夏の日、東京競馬場へ行く朝に、星乃先輩が急に来られなくなった理由。すみれも胸の奥で、はっと息を呑んでいた。
「朱音ちゃんは?」
「表は朱音のままだ」
「じゃあ、ほっしーは?」
「……裏」
星乃先輩はそれ以上言わなかった。
静まり返った六畳間で、麦茶のグラスを置いたりあさんが口を開いた。
「でもさ、ほっしー。見えるようになった頃は、めっちゃ喜んでたじゃん」
「あ?」
星乃先輩が眉を寄せる。
「あーし覚えてるよ。自分だけに特別な力があるとか言ってさ。中二病全開だったじゃん」
「……昔の話だ」
「いやいや、ほんとに凄かったんだって! なんか変なポーズ取って、普通の人には見えない世界が見えるとか言ってさあ」
「おい。余計なことを言うな」
星乃先輩が嫌そうに瓶を揺らす。ほのかさんが目を丸くして身を乗り出した。
「え、星乃さんにもそんな時期あったの!?」
「……まあ、最初は普通に見えんものが見えて、少しはいい気になってたかもしれんがな」
星乃先輩がぼそりと認めるように呟く。りあさんがからかうように笑い、それからふと思い出したように声を落とした。
「でも……その頃だよね。実家から剣がなくなったの」
部屋の空気が、ふっと変わった。
「……ああ。あいつらは、私が何かしたと思ってるらしい。今日も行ったら、昔と同じことをネチネチ言われた」
「それで、星乃さんが……?」
ほのかさんが不安そうに訊くと、星乃先輩は短く首を振った。
「知らん。因果関係なんか私にも分からんが……向こうはそう結びつけたいんだろうな。昔から変わらん」
「てかさ」
りあさんが座布団の上で腕を組み直す。
「そんな実家の用事とか付き合ってて、大学大丈夫なん? ほっしー、もう四年じゃん」
「留年確定した」
「……え?」
ほのかさんが固まった。
「留年!? もう確定!?」
「ああ。決まった」
星乃先輩は瓶に口をつけ、何でもないことのように喉を鳴らした。
「ちょ、まじで!? 大丈夫なん!?」
「別にいい。向こうの都合にも付き合ってやってんだから、こっちも好きにさせてもらうだけだ」
すみれは、その横顔を見つめた。
すべてを理解できたわけではないけれど、星乃先輩という人の輪郭が、ほんの少しだけ新しく見えたような気がした。
「では……来年も、星乃先輩と一緒に大学にいられるのですね」
「そこ喜ぶとこ!?」
りあさんが吹き出した。
「えっ。いけませんでしたか?」
「……別に」
星乃先輩はそう言って、また瓶に口をつけた。
奈々子先輩も小さく笑ってから、手元の地図へ視線を戻した。
「但馬の一宮……大きな神社があるところだね。城下町の面影が残っていて、本当にお蕎麦が名物なんだよ。小皿に分けて出てくるお蕎麦」
「ほら、やっぱりお蕎麦じゃん!」
ほのかさんが目を輝かせる。奈々子先輩も小さく笑った。
「城崎温泉から豊岡に出て、そこからバスに乗れば向かえると思う。じゃあ、城崎に泊まって、翌日にその家を訪ねてみよう」
奈々子先輩は、すらすらと言う。
「いいねお蕎麦! お昼はそこで決まりじゃん。で、泊まりは城崎温泉でしょ? 完璧なルートじゃん!」
りあさんがぱっと顔を明るくし、奈々子先輩が地図の一宮のあたりに付箋を貼った。




