私も行く
「兵庫だ」
星乃先輩がぽつりと落としたその一言のあと、車内には規則正しい車輪の音だけが戻ってきた。
窓の外には、傾き始めた午後の日差しが長く伸びている。
兵庫という遠い地名が、すみれの頭の中に残っていた。
けれど、それ以上に引っかかっていたのは、星乃先輩が口にした「田舎の一族」という呼び方だった。
「……星乃先輩のご実家では、その方々を、あまり良く思っていらっしゃらないのですか」
「まあな」
星乃先輩は窓の外を見たまま答えた。
「どうして……星乃先輩が、そんなふうに責められなければならなかったんですか」
少し間があった。
「……妹がいるって話、前にしただろ」
「はい」
「朱音っていうんだ」
初めて聞く名前だった。
「あいつには、剣に関わる力があってな。日渡の家の中でも、朱音は特別な役目を背負わされてた。家の連中も、朱音を中心に回ってたよ。……けど、あるとき朱音はその力を失った。その前後に、剣も日渡から別の家へ移ったんだ」
淡々とした声だった。感情を交えず、事実だけを順番に並べるような響きだった。
「で、あいつらはその責任を、全部私のせいにした」
「星乃先輩の……?」
「そうだ。『お前のせいで朱音が力を失った』『お前のせいで剣を取られた』ってな。何がどうなってそうなったのか、仕組みなんて私には教えちゃくれない。あいつらも説明なんかしない。ただ、そうやって喚くだけだ」
ほのかさんが身を乗り出した。
「朱音ちゃんは……その、力を失ったなら、役目から離れられたの?」
「離れられるわけないだろ、あの家が」
星乃先輩は乾いた声で言った。
「……あいつらに聞きに行ったところで、まともに教えてくれるわけもない。下手に突っ込めば、また私のせいだって話になるだけだ」
りあさんが大きく目を見開いた。それから、ぎゅっと唇を噛みしめる。
「ほっしー、それ……今まで一言も言わんかったじゃん」
「言ってもどうにもならんだろ」
「なるとかならんとかの話じゃないじゃん! あーし、ほっしーが実家嫌がってんのは知ってたけど、そんなことになってたなんて聞いてないし」
「お前に言ってどうする」
星乃先輩はりあさんをまっすぐ見据えた。
「言ったら絶対、首突っ込んできただろ」
「そりゃ突っ込むよ! ほっしーのことなんだから!」
りあさんは座席から腰を浮かせかけ、強い語気で言い返した。
星乃先輩はそれ以上声を荒らげることもなく、ただ視線を外した。
「……だから言わんかったんだよ」
短い一言だった。
りあさんは息を呑み、何かを言いかけて口を結んだ。膝の上で握りしめた拳が、かすかに震えている。
すみれは何も言えなかった。
星乃先輩のそばには何度もいた。感情が届きにくいことに、どこかで安らいでいたことさえあった。
それなのに、こんな重い事情を抱えていたことなど、何ひとつ知らなかった。
星乃先輩が話してくれたから、ようやく輪郭が見えたのだ。
だからこそ、剣の手掛かりを追うために、星乃先輩にこれ以上実家のことを調べてもらうのは違う気がした。
「……日渡家を通さずに、調べることはできないでしょうか」
すみれが言うと、奈々子先輩が手元から顔を上げた。
「剣を受け取った側から、辿るってこと?」
「はい。そのご一族も、あのお祭りに毎年来ていらしたのですよね」
「いたな。あいつらが『田舎の一族』って呼んでた連中だ」
星乃先輩が短く答える。
それを聞いて、りあさんがはっとしたように顔を上げた。
「あ、それならさ。パパもあの祭り行ってたわけだし、その人たちが兵庫のどの辺から来てたかくらいなら、覚えてるかも!」
りあさんは鞄からスマートフォンを引っ張り出すと、手早く画面を叩き始めた。指先はまだ少し強張っていたけれど、迷いなく文字を打ち込んでいる。
「ちょっと聞いてみるわ」
電車が次の駅へ滑り込み、ドアが開いた。数人の乗客が乗り降りし、アナウンスとともに扉が閉まる。再び車輪が規則正しい音を立てて加速し始めたところで、りあさんの手元が震えた。
「あ、返信きた」
「何て?」
ほのかさんが横から覗き込む。
「えーっと……『兵庫の北のほうから来てた家だったと思う。名前は忘れた。お土産の蟹が美味かった』……って、パパ相変わらず食べ物のことばっかじゃん! ほんとそこしか覚えてないん?」
呆れたようなりあさんの声に、ほのかさんが真顔で頷いた。
「でも、蟹は大事だよ、りあすけ」
「ほのっちまでそっち行く!?」
りあさんが脱力したように背もたれへ倒れ込み、車内の張り詰めていた空気が緩んだ。
奈々子先輩が手元のスマートフォンで地図を開く。
「……兵庫県の北部なら、但馬地方だね」
「たじま?」
ほのかさんが繰り返した。
「うん。日本海側の地域。……お父さんの記憶が正しければ、但馬に何か手掛かりがあるかもしれないね」
「奈々子さん、関西も詳しいんだね」
ほのかさんが感心したように言うと、奈々子先輩は画面を見つめたまま、少し間を置いて答えた。
「昔、少しだけ住んでたことがあるから。但馬の端のほうだけどね。……ほとんど鳥取」
「えっ、鳥取!?」
ほのかさんが目を丸くして声を上げた。
「兵庫と鳥取って隣なの? 鳥取って、あの砂丘があるところでしょ?」
「ほのっち、そこから?」
りあさんが吹き出す。奈々子先輩も小さく笑って、画面の縮尺を変えた。
「兵庫県はね、南の瀬戸内海から北の日本海まで縦に長いんだよ。神戸や姫路のイメージで行くと、北のほうは全然違う土地に見えると思う。山も深くて、冬は雪も多いし」
奈々子先輩はそう言って、画面をスクロールさせた。
そのとき、地図をなぞっていた親指が、ふと止まった。
口元にはかすかな苦笑が残っているのに、視線は手元の画面に落ちたまま、こちらへ上がってこない。
すみれは、その横顔を見つめた。
いつものように神社や地名の由来を語るときの、あの淀みのない調子とは、どこか違っていた。何があるのかまでは分からない。
すみれは何も言わなかった。
奈々子先輩は画面を閉じ、顔を上げた。
「……あそこはね、温泉も有名なところが多いんだよ。海沿いにも、山の中にも」
「えっ、温泉!?」
ほのかさんの声が一段高くなった。
「温泉あるの?」
「まじで? じゃあさ、温泉旅行じゃんそれ!」
りあさんがぱっと表情を明るくして身を乗り出した。
「いいね温泉! 美味しいもの食べて、大きいお風呂入ってさあ。パパが言ってた蟹も食べられるかもだし!」
「蟹の季節は冬だから、今はまだ早いと思うけどね」
奈々子先輩が苦笑すると、ほのかさんが「残念!」と大げさに肩を落とし、りあさんが「別の美味しいもん探せばいいって!」と笑った。
座席の空気が、一気に賑やかなものへと変わっていく。
すみれは膝の上で重ねた手に目を落とした。
自分の石や力を知りたいと願ったことから始まった話が、気づけば遠い兵庫にまで繋がってきている。みんなに時間を使ってもらい、遠くまで足を運んでもらうことには、やはり少し遠慮があった。
けれど、これが単なる調べ物ではなく、みんなで楽しめる旅にもなるのなら。
温かいお湯に浸かって、美味しいものを食べて、知らない土地をみんなで歩くのだと思えば、肩の力が少しだけ抜ける気がした。
「……そこへ行けば、剣を受け取られた方々の手掛かりが、見つかるかもしれませんね」
すみれが前を向いて言うと、隣で衣擦れの音がした。
星乃先輩がシートから背中を離し、座り直していた。
「私も行く」
短く、迷いのない声だった。
すみれが思わず振り返ると、星乃先輩は正面を見据えたまま、淡々と言った。
「私の問題でもあるからな。あいつらに言われたままにしておくのも、癪だ」
車窓を染める夕暮れの赤い光が、星乃先輩の横顔に静かに落ちている。
電車は速度を上げ、次の街へと滑り込んでいった。




