↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/42

今度私どこか連れていって下さいよ

「白鳥先輩。今度、居酒屋に一緒に行っていただけませんか」


 中庭のベンチで、白鳥先輩が文庫から顔を上げた。


「居酒屋?」


「はい。……あの、お酒を飲む場所です」


「それは知ってる」


 膝の上で、鞄の紐を握り直す。


 礼儀としてもそうだし、自分を外へ連れ出してくれた一瀬さんにも、風の抜ける場所を教えてくれた星乃さんにも、改めてきちんとお礼を伝えたかった。


 けれど、またあのときのように、背中から動かない何かが這い上がってきたら――。


 一人で暖簾をくぐるのは、やはり少し怖かった。


「この前、一人で入ったお店で、少し具合が悪くなってしまって。店員さんと、星乃さんという方に助けていただいたんです。改めて、きちんとお礼を言いたくて」


「ちゃんと帰れたの」


「はい。ご迷惑は、おかけしましたけど」


「なるほど。それで、お礼に行きたいと」


「はい。いかがでしょうか」


 白鳥先輩は文庫に指を挟んだまま、少しのあいだ考えた。


「いいよ。混んできたら、帰ろう」


「ありがとうございます!」


 思ったより声が大きく出てしまい、すみれは背筋を伸ばし直した。


「ただ……その日にお二人がいらっしゃるかは、分からないのですが」


「いなければ、食事だけして帰ろう」


「……はい!」


     ◇


 夕方には、まだ少し早い時間だった。


 紺色の暖簾の前で、足が止まった。白い布の向こうから、鍋が触れ合うかすかな金属音と、仕込みの気配が漏れている。


「入れる?」


「はい」


 すみれは自分で暖簾を上げ、引き戸を引いた。


「いらっしゃいませー!」


 お盆を抱えた女の子が奥から小走りでやってきて、ぴたりと足を止めた。


「あ――すみれちゃん!」


「こんばんは」


「もう平気なの?」


「はい。おかげさまで」


「よかった! また来てくれて嬉しいな」


 女の子――ほのかさんの視線が、ふとカウンターの端へ向いた。


 つられて目をやると、黒い上着を羽織った小柄な背中があった。手元のグラスは、もう半分ほど空いている。


 まだ、ずいぶん早い時間なのに。あの方は、いつからここにいらっしゃるのだろう。


「一瀬さん。先日は、大変ご迷惑を……あの、改めてお礼を言いたくて伺いました。本当にありがとうございました」


「そんな、たいしたことしてないよ!」


 ほのかさんは笑って手を振った。


「あと、一瀬さんじゃなくていいって。あたしも『すみれちゃん』って呼んじゃってるし、ほのかで」


「では、ほのかさん」


「うん、それで!」


 すみれはカウンターの端へ向き直り、深く頭を下げた。


「星乃さんも、先日はありがとうございました」


「ん」


 グラスがわずかに持ち上がり、ことりと下りた。


「一瀬、奥のテーブル」


 厨房から、スキンヘッドの店主が串を返したまま声をかけた。それから、星乃さんへ顎をしゃくった。


「お前も、あっち」


「ん」


 星乃さんも、グラスを片手に持ったまま立ち上がった。


     ◇


 奥のテーブル席へ通され、腰を下ろす。


「お飲み物どうします?」


「わたしは、番茶をお願いします」


「じゃあ、私はウーロンハイを」


「はーい。星乃さんは?」


「同じの」


「同じのって、どっちの同じのですか」


「……酒の方だ」


「お代わりですね。すみれちゃん、ほんとにお茶でいいの?」


 飲みたい気持ちはあるけれど、先日のことがある。


「はい。今日は、やめておきます」


「えらいね!」


 ほのかさんが厨房へ戻り、ほどなく湯呑みとグラスを運んできた。


「お待たせしました。えっと、すみれちゃんの先輩ってことでいいのかな?」


「うちの後輩が、お世話になりました」


 白鳥先輩が短く頭を下げた。


「白鳥奈々子です。一瀬さんと星乃さん、本当にありがとうございました」


「そんな、気にしないでくださいよ。……そういえば、お二人はどこの大学なんですか?」


「東都文理大学です」


 白鳥先輩が答えると、ほのかさんがお盆を抱えたまま固まった。


「えっ、あたしもです!」


「そうなんですか」


「あーそっか! 和装の子がいるって聞いたことあったけど、すみれちゃんのことだったんだ!」


「きょ、恐縮です……」


 学内でそんな噂が立っていたとは知らず、お酒は飲んでいないのに耳の後ろが熱くなった。


「変わった格好してるもんな」


 向かいから、星乃さんがぼそりと言った。


「星乃さんがそれ言います!? いつも昼からお酒飲んでる人が普通だと思います!?」


「昼に飲んでいるだけだ」


「それが普通じゃないんです!」


「一瀬、これ頼む」


 厨房から店主の声が飛んだ。


「はーい!」


 ほのかさんが慌てて戻っていく。残された星乃さんは、何事もなかったようにグラスを傾けた。


「あの、星乃さんは普段……」


「私も東都文理。四年だ」


「え」


「星乃さん、今日の授業は」


「終わった」


「もう、必要な単位はほとんど取っているんじゃない」


 白鳥先輩が卓の端を見ながら言った。


「就職も、決まっているんですか」


「決まってないが」


「……そうですか」


 すみれは返答に迷い、番茶に口をつけた。


「あの、そういえば。星乃さんの名字を、まだ伺っていませんでした」


 星乃さんはすぐには答えなかった。グラスを置き、指先で縁をなぞる。


「……日渡」


「日渡先輩、ですね」


「星乃でいい」


「ですが、先輩ですので」


 星乃さんは視線を逸らし、短く間を置いた。


「……星乃先輩なら、いい」


「なんか盛り上がってるね~!」


 ほのかさんが卵焼きの小皿を持って戻ってきて、星乃先輩の隣へ腰を下ろした。


「休憩もらってきた!」


「星乃先輩が、同じ大学の四年生だと伺っていました」


「あはは、星乃さん、お酒ばっか飲んでるから何やってる人かわかんないよね~」


「うるさい」


 星乃先輩が短く返しながら、空いたグラスを指差す。


「で、すみれちゃん。この間は大丈夫だったの? やっぱりお酒のせい?」


 ほのかさんに尋ねられ、すみれが言い淀んでいると、白鳥先輩がグラスを置いて静かに口を挟んだ。


「本人も、よく分かっていないみたいで」


「そっか。じゃあ、今日は無理しないでね」


「はい」


 引き戸が開き、仕事帰りらしい二人組が入ってきた。店内のざわめきが、少しずつ増えていく。


 けれど、羽織の胸元は静かだった。


 布の上からそっと触れてみると、ひやりと冷えている。


 あの日、星乃さんが来たあとも、石はこうして冷えていた。


 今も、星乃先輩が目の前に座っているから冷えているのだろうか。


「そういえば、すみれちゃん。あの日、どうして一人でうちに来たの?」


 向かいからほのかさんが身を乗り出した。


「白鳥先輩に教えていただいた神社へ行った帰りだったんです。そこで御朱印帳を選んで、御朱印もいただいて」


 すみれは鞄から菫色の帳面を取り出し、卓の上へ置いた。


「これです」


「へえ、可愛い!」


 ほのかさんが覗き込む。白鳥先輩は両手で受け取ると、表紙の布地を親指でそっとなぞった。


「いい色だね」


「わたしの名前と同じ色なんです」


「御朱印巡りか。いい趣味だな」


 星乃先輩も横から目を落とした。


「白鳥先輩は、神社だけじゃなくて、土地のこともいろいろご存じなんですよ」


「そんなに詳しくない」


「でも、わたしよりずっと詳しいです」


「どんなところに行くんですか?」


 ほのかさんが訊くと、白鳥先輩は御朱印帳を閉じながら答えた。


「神社とか、お寺とか。古い町を歩いたり」


「いいなあ。案内とかしてもらえるんですか?」


「案内というほどじゃないけど」


「白鳥先輩と歩くと、普段なら気づかないことを教えていただけるんです」


「だから、そんなに詳しくないって」


 白鳥先輩が困ったように御朱印帳を返してくれた。受け取ると、ほのかさんが箸を止めて、何かを思いついたように顔を上げた。


「あたしも、行ってみたいところが結構あるんですよ。でも、一人で遠出するのはちょっと心細くて」


「一人が嫌なだけだろ」


「それもあります!」


 ほのかさんはあっさり認めてから、白鳥先輩に向き直った。


「奈々子さんって呼んでもいいですか?」


「好きに呼んで」


「じゃあ奈々子さん、今度あたし、どこか連れていってくださいよ」


「私が?」


「はい! すみれちゃんも一緒に! あと――」


 ほのかさんが隣を見た。


「まあ、楽しんでこい」


 星乃先輩は、最初から自分を勘定に入れていなかった。


「何言ってるんですか。星乃さんもですよ!」


「私はいい」


「よくないです」


 ほのかさんが即座に言い返す。


 もし、四人で出かけたら。


 そう考えただけで、胸の奥が少し弾んだ。


「はい! わたしも行きたいです!」


 立ち上がりかけ、膝が卓の裏に当たってガタンと鳴った。湯呑みの中で番茶が揺れる。


「大丈夫?」


「はい。少し、気持ちが先に立ちました」


「すみれちゃん、たまに大胆だよね」


「そうでしょうか」


「そうだよ」


 すみれは座り直し、星乃先輩を見た。


「星乃先輩も、一緒に行きましょう」


「遠いところは嫌だ」


「まだ行くとは言ってないのに、条件は出すんですね」


「近場なら考える」


「やった。参加ですね!」


「考えると言った」


 すみれは、隣を向いた。


「奈々子先輩も、お願いします」


 言ってから、呼び方が変わっていることに気づいた。ほのかさんの「奈々子さん」という呼び方に、引きずられたのかもしれない。


 奈々子先輩は何も言わなかった。ただ、手にしたグラスを卓へ戻す音が、ことりと静かに響いた。


「……私が行きたいところでよければ」


「やったー!」


 ほのかさんの声に、カウンターの客が一度だけこちらを見た。


「どこにします?」


「まず近場」


「星乃さん、そればっかり!」


「日帰りなら、そんなに遠くには行けないよ」


「電車で一時間くらいですか?」


「一時間半までなら」


「じゃあ、連絡先まとめますね!」


 ほのかさんがポケットからスマートフォンを取り出した。


「星乃さんも出してください」


「私はいい」


「よーくーなーいーです!」


 星乃先輩は面倒そうに眉を寄せながらも、上着のポケットから端末を出した。奈々子先輩も鞄から取り出す。すみれは二人に遅れて、慌てて自分の画面を開いた。


 ほのかさんが作った連絡先のグループに、四人の名前が並ぶ。


 自分の名前の上に、三人の名前があった。


「すみれ」


 不意に呼ばれて、顔を上げた。


 奈々子先輩が、画面から視線を上げてこちらを見ていた。


「行き先、決まったら連絡する」


 名前で呼ばれたことに気づくまで、一拍かかった。


「……はい!」


 また少し声が大きくなり、ほのかさんが笑った。奈々子先輩はもう画面へ目を戻している。


 すみれは、返してもらった御朱印帳を膝の上で抱えた。


 次は、一人ではない。


 そう思うだけで、まだ決まってもいない行き先が、楽しみだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。