今度私どこか連れていって下さいよ
「白鳥先輩。今度、居酒屋に一緒に行っていただけませんか」
中庭のベンチで、白鳥先輩が文庫から顔を上げた。
「居酒屋?」
「はい。……あの、お酒を飲む場所です」
「それは知ってる」
膝の上で、鞄の紐を握り直す。
礼儀としてもそうだし、自分を外へ連れ出してくれた一瀬さんにも、風の抜ける場所を教えてくれた星乃さんにも、改めてきちんとお礼を伝えたかった。
けれど、またあのときのように、背中から動かない何かが這い上がってきたら――。
一人で暖簾をくぐるのは、やはり少し怖かった。
「この前、一人で入ったお店で、少し具合が悪くなってしまって。店員さんと、星乃さんという方に助けていただいたんです。改めて、きちんとお礼を言いたくて」
「ちゃんと帰れたの」
「はい。ご迷惑は、おかけしましたけど」
「なるほど。それで、お礼に行きたいと」
「はい。いかがでしょうか」
白鳥先輩は文庫に指を挟んだまま、少しのあいだ考えた。
「いいよ。混んできたら、帰ろう」
「ありがとうございます!」
思ったより声が大きく出てしまい、すみれは背筋を伸ばし直した。
「ただ……その日にお二人がいらっしゃるかは、分からないのですが」
「いなければ、食事だけして帰ろう」
「……はい!」
◇
夕方には、まだ少し早い時間だった。
紺色の暖簾の前で、足が止まった。白い布の向こうから、鍋が触れ合うかすかな金属音と、仕込みの気配が漏れている。
「入れる?」
「はい」
すみれは自分で暖簾を上げ、引き戸を引いた。
「いらっしゃいませー!」
お盆を抱えた女の子が奥から小走りでやってきて、ぴたりと足を止めた。
「あ――すみれちゃん!」
「こんばんは」
「もう平気なの?」
「はい。おかげさまで」
「よかった! また来てくれて嬉しいな」
女の子――ほのかさんの視線が、ふとカウンターの端へ向いた。
つられて目をやると、黒い上着を羽織った小柄な背中があった。手元のグラスは、もう半分ほど空いている。
まだ、ずいぶん早い時間なのに。あの方は、いつからここにいらっしゃるのだろう。
「一瀬さん。先日は、大変ご迷惑を……あの、改めてお礼を言いたくて伺いました。本当にありがとうございました」
「そんな、たいしたことしてないよ!」
ほのかさんは笑って手を振った。
「あと、一瀬さんじゃなくていいって。あたしも『すみれちゃん』って呼んじゃってるし、ほのかで」
「では、ほのかさん」
「うん、それで!」
すみれはカウンターの端へ向き直り、深く頭を下げた。
「星乃さんも、先日はありがとうございました」
「ん」
グラスがわずかに持ち上がり、ことりと下りた。
「一瀬、奥のテーブル」
厨房から、スキンヘッドの店主が串を返したまま声をかけた。それから、星乃さんへ顎をしゃくった。
「お前も、あっち」
「ん」
星乃さんも、グラスを片手に持ったまま立ち上がった。
◇
奥のテーブル席へ通され、腰を下ろす。
「お飲み物どうします?」
「わたしは、番茶をお願いします」
「じゃあ、私はウーロンハイを」
「はーい。星乃さんは?」
「同じの」
「同じのって、どっちの同じのですか」
「……酒の方だ」
「お代わりですね。すみれちゃん、ほんとにお茶でいいの?」
飲みたい気持ちはあるけれど、先日のことがある。
「はい。今日は、やめておきます」
「えらいね!」
ほのかさんが厨房へ戻り、ほどなく湯呑みとグラスを運んできた。
「お待たせしました。えっと、すみれちゃんの先輩ってことでいいのかな?」
「うちの後輩が、お世話になりました」
白鳥先輩が短く頭を下げた。
「白鳥奈々子です。一瀬さんと星乃さん、本当にありがとうございました」
「そんな、気にしないでくださいよ。……そういえば、お二人はどこの大学なんですか?」
「東都文理大学です」
白鳥先輩が答えると、ほのかさんがお盆を抱えたまま固まった。
「えっ、あたしもです!」
「そうなんですか」
「あーそっか! 和装の子がいるって聞いたことあったけど、すみれちゃんのことだったんだ!」
「きょ、恐縮です……」
学内でそんな噂が立っていたとは知らず、お酒は飲んでいないのに耳の後ろが熱くなった。
「変わった格好してるもんな」
向かいから、星乃さんがぼそりと言った。
「星乃さんがそれ言います!? いつも昼からお酒飲んでる人が普通だと思います!?」
「昼に飲んでいるだけだ」
「それが普通じゃないんです!」
「一瀬、これ頼む」
厨房から店主の声が飛んだ。
「はーい!」
ほのかさんが慌てて戻っていく。残された星乃さんは、何事もなかったようにグラスを傾けた。
「あの、星乃さんは普段……」
「私も東都文理。四年だ」
「え」
「星乃さん、今日の授業は」
「終わった」
「もう、必要な単位はほとんど取っているんじゃない」
白鳥先輩が卓の端を見ながら言った。
「就職も、決まっているんですか」
「決まってないが」
「……そうですか」
すみれは返答に迷い、番茶に口をつけた。
「あの、そういえば。星乃さんの名字を、まだ伺っていませんでした」
星乃さんはすぐには答えなかった。グラスを置き、指先で縁をなぞる。
「……日渡」
「日渡先輩、ですね」
「星乃でいい」
「ですが、先輩ですので」
星乃さんは視線を逸らし、短く間を置いた。
「……星乃先輩なら、いい」
「なんか盛り上がってるね~!」
ほのかさんが卵焼きの小皿を持って戻ってきて、星乃先輩の隣へ腰を下ろした。
「休憩もらってきた!」
「星乃先輩が、同じ大学の四年生だと伺っていました」
「あはは、星乃さん、お酒ばっか飲んでるから何やってる人かわかんないよね~」
「うるさい」
星乃先輩が短く返しながら、空いたグラスを指差す。
「で、すみれちゃん。この間は大丈夫だったの? やっぱりお酒のせい?」
ほのかさんに尋ねられ、すみれが言い淀んでいると、白鳥先輩がグラスを置いて静かに口を挟んだ。
「本人も、よく分かっていないみたいで」
「そっか。じゃあ、今日は無理しないでね」
「はい」
引き戸が開き、仕事帰りらしい二人組が入ってきた。店内のざわめきが、少しずつ増えていく。
けれど、羽織の胸元は静かだった。
布の上からそっと触れてみると、ひやりと冷えている。
あの日、星乃さんが来たあとも、石はこうして冷えていた。
今も、星乃先輩が目の前に座っているから冷えているのだろうか。
「そういえば、すみれちゃん。あの日、どうして一人でうちに来たの?」
向かいからほのかさんが身を乗り出した。
「白鳥先輩に教えていただいた神社へ行った帰りだったんです。そこで御朱印帳を選んで、御朱印もいただいて」
すみれは鞄から菫色の帳面を取り出し、卓の上へ置いた。
「これです」
「へえ、可愛い!」
ほのかさんが覗き込む。白鳥先輩は両手で受け取ると、表紙の布地を親指でそっとなぞった。
「いい色だね」
「わたしの名前と同じ色なんです」
「御朱印巡りか。いい趣味だな」
星乃先輩も横から目を落とした。
「白鳥先輩は、神社だけじゃなくて、土地のこともいろいろご存じなんですよ」
「そんなに詳しくない」
「でも、わたしよりずっと詳しいです」
「どんなところに行くんですか?」
ほのかさんが訊くと、白鳥先輩は御朱印帳を閉じながら答えた。
「神社とか、お寺とか。古い町を歩いたり」
「いいなあ。案内とかしてもらえるんですか?」
「案内というほどじゃないけど」
「白鳥先輩と歩くと、普段なら気づかないことを教えていただけるんです」
「だから、そんなに詳しくないって」
白鳥先輩が困ったように御朱印帳を返してくれた。受け取ると、ほのかさんが箸を止めて、何かを思いついたように顔を上げた。
「あたしも、行ってみたいところが結構あるんですよ。でも、一人で遠出するのはちょっと心細くて」
「一人が嫌なだけだろ」
「それもあります!」
ほのかさんはあっさり認めてから、白鳥先輩に向き直った。
「奈々子さんって呼んでもいいですか?」
「好きに呼んで」
「じゃあ奈々子さん、今度あたし、どこか連れていってくださいよ」
「私が?」
「はい! すみれちゃんも一緒に! あと――」
ほのかさんが隣を見た。
「まあ、楽しんでこい」
星乃先輩は、最初から自分を勘定に入れていなかった。
「何言ってるんですか。星乃さんもですよ!」
「私はいい」
「よくないです」
ほのかさんが即座に言い返す。
もし、四人で出かけたら。
そう考えただけで、胸の奥が少し弾んだ。
「はい! わたしも行きたいです!」
立ち上がりかけ、膝が卓の裏に当たってガタンと鳴った。湯呑みの中で番茶が揺れる。
「大丈夫?」
「はい。少し、気持ちが先に立ちました」
「すみれちゃん、たまに大胆だよね」
「そうでしょうか」
「そうだよ」
すみれは座り直し、星乃先輩を見た。
「星乃先輩も、一緒に行きましょう」
「遠いところは嫌だ」
「まだ行くとは言ってないのに、条件は出すんですね」
「近場なら考える」
「やった。参加ですね!」
「考えると言った」
すみれは、隣を向いた。
「奈々子先輩も、お願いします」
言ってから、呼び方が変わっていることに気づいた。ほのかさんの「奈々子さん」という呼び方に、引きずられたのかもしれない。
奈々子先輩は何も言わなかった。ただ、手にしたグラスを卓へ戻す音が、ことりと静かに響いた。
「……私が行きたいところでよければ」
「やったー!」
ほのかさんの声に、カウンターの客が一度だけこちらを見た。
「どこにします?」
「まず近場」
「星乃さん、そればっかり!」
「日帰りなら、そんなに遠くには行けないよ」
「電車で一時間くらいですか?」
「一時間半までなら」
「じゃあ、連絡先まとめますね!」
ほのかさんがポケットからスマートフォンを取り出した。
「星乃さんも出してください」
「私はいい」
「よーくーなーいーです!」
星乃先輩は面倒そうに眉を寄せながらも、上着のポケットから端末を出した。奈々子先輩も鞄から取り出す。すみれは二人に遅れて、慌てて自分の画面を開いた。
ほのかさんが作った連絡先のグループに、四人の名前が並ぶ。
自分の名前の上に、三人の名前があった。
「すみれ」
不意に呼ばれて、顔を上げた。
奈々子先輩が、画面から視線を上げてこちらを見ていた。
「行き先、決まったら連絡する」
名前で呼ばれたことに気づくまで、一拍かかった。
「……はい!」
また少し声が大きくなり、ほのかさんが笑った。奈々子先輩はもう画面へ目を戻している。
すみれは、返してもらった御朱印帳を膝の上で抱えた。
次は、一人ではない。
そう思うだけで、まだ決まってもいない行き先が、楽しみだった。




