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一人で、来られた

 休みの日の昼過ぎ、すみれは都営浅草線の蔵前駅を出て、教えられた通りの道を歩いていた。


 白鳥先輩に教えてもらった神社だった。今日は先輩に予定があると聞いていたけれど、約束の日を待つ前に、一人でもあの静けさを確かめてみたかったのだ。


 角を曲がると、ビルとビルのあいだに、すっと赤い鳥居が立っていた。


 すみれは鳥居の正面で立ち止まり、浅く息を吸ってから、深く一礼した。敷石を靴底で踏んだ瞬間、大通りを走る車の音や、行き交う人たちの細かな焦燥が、ふっと後ろへ遠のく。


 胸元で、羽織の内側に入れた石がひやりと冷えた。


 ――あの日と同じだ。


 手水舎で手を清め、玉砂利を踏んで拝殿へ向かう。鈴を鳴らして手を合わせると、ふいに一つの思いが浮かんだ。


 白鳥先輩と、これからも。


 そこから先の言葉は、うまく浮かばなかった。ただ、目を閉じて深く頭を下げた。


 社務所へ向かうと、窓口にいくつかの御朱印帳が並んでいた。淡い菫色の表紙が、目に留まる。


「御朱印帳をいただきたいのですが」


「最初の頁にお書きしてありますので、そのままお持ちいただけますよ」


 白い小袖に緋色の袴をつけた巫女さんから、両手で御朱印帳を受け取った。


「よいお参りでしたね」


「ありがとうございます」


 開くと、濃い墨の文字と鮮やかな朱の印が、まだ新しい匂いを立てている。自分の名前と同じ色なのが少し照れくさかったが、自分で歩いて手に入れた、最初の一冊だった。


     ◇


 鳥居を出て一礼すると、途切れていた街の気配が、再び肌に触れ始めた。


 行き交う人の急ぐ足音や、すれ違う人から届く疲れ。胸元の石も、ゆっくりと体温へ戻っていく。


 それでも、胸の奥は軽かった。静まる場所がほかにもあると分かっただけで、いつもの重さが少し遠のいた気がする。まっすぐ帰るのが惜しくなり、川沿いを歩いて見慣れない路地へ入ったところで、小さな立て看板が目に入った。


『地酒あります』


 紺色の暖簾には、白い字で「結」と染め抜かれている。二十歳を過ぎてから、家で少しだけ口にしたお酒の、喉の奥がじんわり温かくなる感覚を思い出した。


「……大人しくしていてくださいね」


 羽織の上から、胸元の石にそっと触れる。混んできたら怖いかもしれない。けれど今日は、ここまで一人で来られたのだ。


 すみれは暖簾をくぐった。


     ◇


「いらっしゃいませー!」


 店内は、昼と夜のあいだの静けさだった。まだ開店して間もないのか、客の姿はまばらだ。すみれはカウンターの端へ腰を下ろした。


「おひとりですか? カウンターどうぞ!」


 迎えてくれた店員は、快活そうにポニーテールを揺らす女の子だった。すみれと同年代に見える。注文の前に年齢確認を求められ、身分証を見せると、ぱっと眉を上げた。


「あ、同い年ですね! あたしもハタチなんです。お酒、何にします?」


「外で一人でお酒を飲むのは初めてで……甘口か辛口かも、あまり分からなくて」


「じゃあ、軽めで飲みやすいのを小さめのグラスでお出ししますね」


 女の子が奥へ戻っていくのを見届けて、すみれは鞄から買ったばかりの御朱印帳を取り出し、カウンターの隅へ置いた。


 すぐに、冷えた小さなグラスが運ばれてくる。


「どうぞ! さらっとして飲みやすいお酒です」


「ありがとうございます」


 そっと口に含む。冷たくて、ほんのり甘い。喉の奥がぽっと温かくなった。女の子がカウンターを拭きながら、すみれの横の帳面に目を留めた。


「あ、御朱印帳ですか? すっごく可愛い色ですね」


「はい。自分で選びました」


 少し得意げに答えてから、なんだか誇らしげにしすぎた気がして恥ずかしくなり、すみれは慌ててグラスに口をつけた。女の子は屈託なく笑い、奥の片付けへ戻っていった。


     ◇


 御朱印帳を開いては閉じ、また開いては閉じる。


 そうこうしているうちに、暖簾をくぐる足音が重なり、店内へぽつぽつとお客が入ってきた。仕事帰りの疲れや苛立ちが背中越しに届いてくるが、お酒のせいか、まだ息を整えてやり過ごせている。


 けれど。


 背中のあたりに、ひとつだけ、動かないものがあった。


 他のお客の感情は会話に合わせて流れていくのに、それだけが同じ場所からじっと動かない。


 ふいに、うなじから襟元へ、何かが這い上がってきた。


 触れられているわけではない。それなのに、冷たい指でなぞられているような感触が消えない。払いのけようとして手が止まった。払う場所が、どこにもない。


 胸元の石が、急激に熱を帯び始めた。ざらついた、粘りつくような熱だった。


 ――出なきゃ。外へ、出ないと。


 立ち上がろうと足を踏ん張ったが、膝に力が入らない。羽織の上から胸元の石を両手で強く握りしめた。けれど熱は収まらず、目の前が白くかすんでいく。手元を支えようと伸ばした腕が、カウンターのグラスにカツンと当たった。


「……あ」


 小さな音だった。けれど、正面にいた店員の女の子がぴたりと手を止めた。


「お客さん……?」


 すみれは顔を上げようとしたが、首が重くて上がらない。肩で浅く息をつく。


「お水、飲める!?」


 女の子の笑顔が消えていた。カウンター越しに身を乗り出し、すみれの青ざめた顔を覗き込む。


「外、行こ! 風当たろ! 荷物持つから、肩貸して!」


 女の子は素早くカウンターを回り込んでくると、すみれの鞄を抱え、脇を抱えるようにして背中を支えてくれた。


     ◇


「ゆっくり息吐いてね。そう、吐いて、吸って」


 表の路地へ出ると、夕暮れの風がすっと抜けていった。壁に背を預けると、背中を優しくさすられる。届いてくるのは、まっすぐな心配だけだった。


「すみません、急に……ご迷惑を……」


「気にしない気にしない! そういうこともあるよ、一人で緊張しちゃったんでしょ?」


 路地の奥――店の勝手口があるほうから、足音が近づいてきた。


 片手に酒の入ったグラスを持った小柄な女性が、ふらりと歩いてくる。黒いジャケットをラフに羽織っていた。


「星乃さん、奥からまた酒持って出てる! 割ったら大将に怒られますよ!」


「割らん」


 女性――星乃と呼ばれた人は平然と答えると、すみれの前にしゃがみ込み、じっとその目を見た。


「酔っただけなら、そんな目にはならんぞ」


 星乃はグラスを軽く揺らし、顎をしゃくった。


「……そこ、風が抜ける。少し横に寄れ」


 言われた通り半歩動くと、冷たい風が首筋を撫でた。うなじに張りついていた嫌な感触が、少しずつ薄れていく。詰まっていた息が、ようやく通るようになった。


「名前は?」


 星乃の視線が、一瞬だけすみれの胸元――羽織の襟のあいだをかすめた。


「蓮雀寺、すみれです」


 星乃は小さく頷いただけだった。


「れんじゃく……難しい! じゃあ、すみれちゃんで! あたしは一瀬ほのか。ここでバイトしてるの」


 女の子が明るく笑って割って入り、星乃を振り返る。


「ほら、星乃さんも!」


「……星乃だ」


「もう、相変わらず無愛想なんだから。……すみれちゃん、お水もう一杯持ってくるね。星乃さん、すみれちゃんのこと見てて!」


 ほのかが暖簾の向こうへ小走りで戻っていった。


 路地に、星乃と二人きりで残される。


 星乃は立ち上がり、空のグラスを持ったまま壁にもたれ、空を見上げていた。


「……あの、星乃さん」


「ん」


「ご迷惑をおかけして、すみません」


「気にしてない」


 星乃は横目でちらりとこちらを見た。


「それより、落ち着いたか」


「はい。だいぶ楽になりました」


「ならいい」


 それ以上、星乃は何の詮索もしてこなかった。ただ壁にもたれたまま、夕暮れの風に当たっていた。


 すみれは、羽織の上から胸元の石へそっと触れた。


 ひやりと、冷えていた。


 あの日、鳥居の内側で冷えていたときと同じだった。


「お待たせー! お水持ってきたよ!」


 暖簾をくぐって戻ってきたほのかに、すみれは顔を上げた。


「ありがとうございます」


 差し出された冷たいグラスを、両手でしっかりと受け取る。


 冷えた水を喉へ流し込みながら、ふと気づく。


 石が冷たくなったのは、星乃さんが来てからだった。

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