声の、ない場所
「その服、着物?」
今日だけで、三度目だった。
声をかけられる前から、視線には気づいていた。好奇心と値踏み。混じり合った誰かの体温のような重みが、肌を撫でていく。
すみれは足を止め、淡い藤色の羽織の襟元をそっと押さえた。
「着物に見えるように仕立てた、普通の服です。下も袴ではなく、ロングスカートで」
「へえ、かわいい。似合ってる」
「ありがとうございます」
「写真撮ってもいい? インスタ載せたいんだけど」
女子学生がスマートフォンを構え、隣の二人も身を乗り出した。向けられた表情は楽しそうに見える。けれど、肌へ届いたものはまったく違った。笑顔とは噛み合わない、冷たい刺々しさだった。
喉がきつく締まった。
「あ……写真は、すみません。その、見世物ではないので」
言ってから、血の気が引いた。
違う。そんな強い言葉を返すつもりはなかった。「苦手なので」と笑って断るはずだったのに、肌へ届いた刺々しさに、身体が先に拒絶を返してしまったのだ。
「……は? 何それ。褒めただけじゃん」
「あ、いえ、申し訳ありません、そういう意味では――」
「感じ悪。行こ」
三人はあからさまに背を向けた。投げつけられる苛立ちが、波のように肩へ打ち寄せる。胸元の石が、じわりと熱を帯びた。
「……めっ、ですよ」
布の上から、指でそっと石を押さえる。
また、やってしまった。相手が口にしていない感情に、勝手に怯えて、相手を怒らせる。高校の頃からずっとそうだ。写真の中の母は、好きな服を着て、楽しそうに笑っていた。あんなふうになりたくて、大学に入ってからは好きな装いで通おうと決めたのに。指先の震えは、なかなか止まらなかった。
人の視線から逃げるように壁際へ寄り、歩き出したとき、
「落としましたよ」
背後から、低く澄んだ声がした。
振り向くと、背の高い女性が立っていた。差し出された手のひらに、菫色の組紐が載っている。履修案内に挟んでいた、大切な栞だった。
「す、すみません。ありがとうございます」
「人が多いから、踏まれるところだった」
「母からもらったものなので……助かりました」
頭を下げながら、すみれは息を呑んだ。その女性の視線が、すみれの装いを一度だけ静かにかすめた。
けれど、胸元の石は熱を持たなかった。
値踏みも、からかいも、先ほどぶつけられたようなざらついた感情も届かない。ただ、静かだった。ざわめくキャンパスの中で、その人の周りだけ、余計な波が立っていなかった。
「なら、よかった」
女性はそれだけ言うと、講義棟の角を曲がっていった。
あの人と、もう一度話してみたい。理由を考えるより先に、心にその佇まいが強く残った。
◇
数日後、図書館の窓際でその人を見つけた。机の上に、厚い箱入りの資料と大きな複製地図を広げている。
お礼は言った。栞も手元にある。これ以上話しかける理由はどこにもない。迷惑かもしれない。近くへ行ったら、あの人からも強い苛立ちや拒絶が届いてしまうかもしれない。
すみれは一度、書架の陰へ身を引いた。
けれど、ここで背を向ければ二度と話せない。胸元の石を羽織の上からぎゅっと握りしめる。硬い輪郭を指先で確かめるうちに、震えが少し収まった。すみれは息を吸い、踏み出した。
「あの」
女性が本から顔を上げた。薄い驚きのあと、すみれの手元へ視線が落ちる。
「ああ。落とした人」
「はい。落とした人です」
ほかに言い方はなかったのかと耳の後ろが熱くなる。
「もう落としてない?」
「今日は、奥までしっかり挟みました」
履修案内を開いて見せると、女性の口元がかすかに緩んだ。嫌な感情は届かない。澄んだ空気のまま、静かにそこにいてくれる。
「蓮雀寺すみれです。文学部の二年です」
「白鳥奈々子。文学部の三年」
「奈々子先輩、ですね」
「白鳥でいいよ」
「では、白鳥先輩」
奈々子は一度頷き、視線を机の古地図へ戻した。細い指が、住宅地の中に引かれた一本のなだらかな曲線をなぞっている。
「ここ、昔は川だったの。今は蓋をされて道になってる」
「川が、道に……ですか」
「建物は変わっても、道はしぶといから。……帰りに、突き当たりまで歩いてみるつもり」
「突き当たりに、何かあるんですか」
「神社」
「神社、お好きなんですか」
「好き」
迷いのない即答だった。
「どういうところが、ですか」
「行けば分かるところ」
ぶっきらぼうなようでいて、地図を追う奈々子の横顔は、本当にそれが好きなのだと伝えていた。相手に押しつけず、自分の好きなものを当たり前に大切にしている佇まい。
格好いい、と思った。
「白鳥先輩。……わたしも、ご一緒してよろしいですか」
奈々子は驚いたようにすみれを見た。それから、袴風のスカートと編み上げブーツへ視線を落とす。
「けっこう歩くよ」
「歩けます。見た目より、ずっと」
奈々子は短く「そう」と言い、広げていた地図を丁寧に畳み始めた。
「じゃあ、行こうか」
◇
古い川の跡だという道は、住宅と寺の板塀のあいだを緩やかにうねっていた。
夕暮れの通りには、家路を急ぐ買い物客や学生が行き交っている。すれ違うたび、他人の疲労や焦燥が、肌をかすめていく。無意識に肩をすぼめるすみれの横で、奈々子は一定の歩幅を崩さない。
「その服、好きなの」
前を向いたまま、奈々子が尋ねてきた。
「はい。母の写真を見てから、ずっと憧れていて。大学に入ったら、絶対に着ようと決めていたんです。……目立ちたいわけでは、ないのですが」
先日の女子学生たちの顔がよぎり、声が小さくなる。奈々子は足を止めず、淡々と言った。
「似合ってると思うよ。好きなものを着てる人は、見てて気持ちがいい」
息が止まりそうになった。言葉の裏を探るまでもない。何の含みもない、ただ事実として告げられた声だった。
隣を歩く奈々子からは、やっぱり重い感情が届かない。押し寄せることも、こちらの胸を削ることもない。
「白鳥先輩の隣は……なんだか、とても歩きやすいです」
「私、歩くの速い方だけど」
「そういう速さではなくて……」
言い淀むすみれを、奈々子は問い詰めなかった。ただ、曲がり角の先へ視線を遣る。木々の茂みの向こうに、大きな鳥居が夕闇の中に浮かび上がっていた。
「着いたよ」
鳥居の前で、奈々子が立ち止まり、浅く一礼する。すみれも真似をして頭を下げ、その背中を追って鳥居をくぐり抜けた。
靴底が、敷き詰められた玉砂利を踏みしめる。硬い音が鳴った。
その瞬間だった。
肌へ触れていた他人の感情が、潮が引くように消え去った。
「っ……」
すみれはその場に足を止めた。
風が梢を揺らすざわめきも、遠くの電車の音も聞こえている。奈々子が玉砂利を踏む音もする。音は何も消えていない。肩や胸を絶えず圧迫していた重みだけが、綺麗に抜け落ちていた。
胸元で、石がひやりと冷えている。布越しに伝わるその冷たさは、まるで長い熱病から醒めたように清冽だった。
「どうしたの」
振り返った奈々子に、すみれは呟いた。
「……静か、です。嘘みたいに」
「そう? 風の音がしてるけど」
「音ではなくて……ここには、何も届いてこないんです」
奈々子は首を傾げた。けれど突き放すような気配はまるでない。
すみれは自分の胸元にそっと触れた。自分の心臓の音だけが、トク、トクと、ひどく鮮明に鳴っている。濁りのない、自分だけの呼吸が、肺を満たしていく。
こんな場所が、あったのか。
奈々子に続いて手水舎で手を清め、拝殿の前に立つ。二礼二拍手一礼。奈々子の作法を真似て手を合わせながら、すみれは目を閉じた。願い事など浮かばなかった。ただ、この静けさの中に、少しでも長く立っていたかった。
◇
境内を出て鳥居をくぐり直すと、夕方の街のざわめきとともに、人の疲れや苛立ちが再び肌にまとわりついてきた。胸元の石が、じわじわと体温へ戻っていく。先ほどまで当たり前だった重さが、今は息苦しいほどに耐え難く感じられた。
「白鳥先輩」
駅へ向かう道すがら、すみれは思わず奈々子を呼び止めていた。
「ん?」
「あの神社は……あそこだけが、特別なのでしょうか」
奈々子は立ち止まり、不思議そうにすみれの目を見つめた。
「どういう意味?」
「あんなふうに、息ができる場所を……わたし、生まれて初めて知りました。神社なら、どこでもあのように静かなのですか」
奈々子は答えを急がなかった。少し考えるように視線を泳がせ、それから小さく息をつく。
「神社によって、空気は全然違うよ。敷地の広さも、祀られてる神様も、立ってる場所の歴史も違うから。……行ってみないと分からない」
「行かないと……分からない」
「うん」
奈々子は前を向いたまま、それ以上は言わずにすみれの歩幅を待った。
あの静けさを、もう一度知りたい。そして――どうしてこの人の隣だけが、あんなにも凪いでいるのかを知りたい。
「白鳥先輩」
すみれは羽織の袂を握りしめ、前を向いた。
「また……わたしを、どこかの神社へ連れていっていただけませんか」
知り合ったばかりの後輩の願いに、奈々子は一瞬だけ目を見開いた。断られるかもしれない。身を強張らせたすみれに、奈々子はふっと口元を緩めた。
「いいよ。……私が行きたいところでよければ」
「はい!」
思わず弾んだ声が夜の通りに響いて、すみれは慌てて口元を押さえた。奈々子が小さく吹き出し、前を向いて歩き出す。
すみれは半歩遅れて、その隣へ並び直した。
人混みのざらついた気配はまだ肌を撫でている。けれど、胸元の石に触れる指先は、もう震えてはいなかった。




