ずっと、言ってた
――え?
「……え?」
すみれは石を載せた手を持ち上げた。今度は、聞き取れた。けれど、耳へ近づけても、声のする場所は変わらない。
――ちょ、待って。今、あたしに訊いた?
「はい。あなたに……」
――え、え、怖い怖い! 怖いんだけど!
手を下ろしかけて、止まった。
「お返事しては、いけませんでしたか」
――いけないっていうか。だって、今まで、そんなこと……。
途切れた先を待った。庭の葉が擦れる音だけが戻ってくる。すみれの指の腹は、石の丸みを押さえたまま動かない。
――ほんとに、聞こえてんの?
「……聞こえています」
今度は言い終えるまで、声は挟まらなかった。
「すみれ」
隣の奈々子先輩が、すみれと手元を見比べていた。
「今、その石と話してる?」
「はい。今、急に……奈々子先輩には、聞こえませんか」
「すみれの声だけ」
――そっちには聞こえないのね。ああ、びっくりした。
すみれは、膝の上まで手を下ろした。こんな声だったのか。高くて、少し尖っていて、言い終わるのを待たずに次が来る。さっきまで指で熱を確かめていた、その同じ石から。
「いつから、お話しできたんですか」
――ずっとよ。あたしは、ずっと言ってたわよ。誰も何も返さなかっただけ。
「昨日、食堂のお話をしたときも?」
――昼の食堂なんて混むに決まってるって、言った。
すみれは唇を開いたまま、しばらく石を見ていた。昨日は、話し終えてからお風呂へ入った。何か返ってくるなら、温かさだと思っていた。
「……分かりませんでした」
――でしょうね。あんた、人の話なんかお構いなしに、はいおしまい、ってするもの。
「だって、聞こえなかったんです」
――こっちは返してたの。あんたのせいで、あたしだって大変だったんだから。
「それはこちらの台詞です!」
奈々子先輩の手が、すみれの袖へ触れた。
「すみれ、声」
すみれは廊下へ目をやった。奥から人は来ない。息を吸い直して、手のひらへ顔を寄せた。
「急に熱くなったり、冷たくなったり。何をしても理由が分からなくて、わたし、何度も困ったんです。今だって、落としてしまうところでした」
――好きで熱くしてたんじゃないわよ! あたしだって、どうにかしようとしてたの!
「わたしだって、あんなふうに人の気持ちが届いてこなければ――」
――それ、あたしのせいじゃないから。そんな力、あんたにあげてない。
すみれは、続きを言えなくなった。
手の中の石は、温かいままだった。返事を聞き間違えたか確かめるように、指先で向きを変えてみる。
「では……どうして、わたしには」
――知らない。あんたがなんでそんなに拾えるのかなんて、あたしに訊かないでよ。
奈々子先輩が、袖から手を離した。
「何だって?」
「わたしに人の感情が届くのは、この石から与えられた力ではないそうです。どうしてそうなったのかも、分からないと」
口にすると、胸元に何も触れていないことが急に気になった。そこへ戻したところで、答えが変わるわけではないのに。
「じゃあ、それをやめてって言われても、石のほうも困るんだね」
――そう! そっちの子、分かってるじゃない。ていうか、あそこ何だったの。馬が走るって、みんなして騒いでたところ!
「東京競馬場、ですか」
――あっちもこっちも一斉に欲しがって、喜んだと思ったらぐしゃぐしゃになって、また欲しがって。死ぬかと思ったんだけど!
「死ぬんですか?」
――そういう意味じゃない!
反射で肩が上がった。少し遅れて、息が漏れる。笑いかけたのに、喉の奥が引っかかった。
顔へ何度も水をかけた、洗面台を思い出した。戻れば大丈夫だと思ったことも、そのあと、知らない人へ向けて口にした言葉も。
「あのときは……わたしも、どうしたらいいか分からなくて」
――知ってるわよ。
声が、少しだけ低くなった。
――あたしだって、少しは取ってたの。全部あんたに行かないように。でも、あんなにいっぺんに来たら無理。
「人の、気持ちを?」
――そうよ。気持ちいいのもあったけど、途中からもう、何が何だか。あたしだって嫌だったし、あんたまで苦しそうにするし。
すみれは石を包んでいた指をゆるめた。
「苦しいものを、取ってくださっていたんですか」
――それだけじゃないってば。あたしは、浮かれてるようなののほうが好きなの。あんたにとって何がいいかなんて知らないわよ。
そこまで言って、声が止まった。
すみれも、すぐには何も言わなかった。手のひらからはみ出していた紐を寄せて、石の横へ置く。
「勝手にあなたのせいにしていたことは、すみません。でも、わたしにばかり怒らないでください」
――……あたし、そんなに怒ってないし。
奈々子先輩が、口元に手を当てていた。すみれが見ると、少しだけ首を振る。
「ごめん。ちゃんと言い返すんだなと思って」
「今まで、言いたいことがたくさんありましたので」
――こっちにもあるわよ。
すみれは石へ目を戻した。声を聞けば聞くほど、訊きたいことが変わっていく。その中に、一つ、ずっと知りたかったことがあった。
「お母様は……どこで、あなたを手に入れたんですか」
返事までに、間があった。奈々子先輩も手を下ろして、座り直した。
――それは、よく覚えてない。
「母のところにいらしたことは、覚えていますか」
――声はね。笑うと、言葉の最後が聞き取れなくなるの。あの人。
すみれは顔を上げた。庭の木が、風でゆっくり動いている。
――でも、その前に誰がいたとか、どうやって渡ったとかは、分からない。顔や景色を見てたわけじゃないし。聞こえるものが変わって、気づいたら、ってこともあるのよ。
母が何を言いかけて笑ったのか、すみれには思い浮かばなかった。ただ、続きを訊こうとすると、胸の奥が少し痛んだ。
「……覚えていることがあったら、また教えてください」
――覚えてたらね。




