届く音
羽田を出てからは、環八通りをひとすじに走った。りあさんの肩はまだ少し上がったままだったけれど、車線を変えるときにミラーを見る回数が、行きより一つ減っている。
ほのかさんが、膝の鞄を置き直して、前の座席へ身を乗り出した。
「ねえ、りあすけ。これから行くとこって、どういうお家なの」
「お母さんの実家。今住んでんのは伯母さん。お母さんのお姉さん」
「……あたしたちまで行って、平気なやつ?」
「連れてこいって言われてるし。あーしの友達、見たいらしいよ」
「見たいって、なにそれ」
「そういう人なんよ」
すみれは、足元に置かれた紙袋の縁を、そっと立て直した。羽田で、りあさんが箱を裏返してまで選んだものが、この中に入っている。
襟元の紐を引いて、石を手のひらへ出してみた。りあさんのそばだと、たいてい冷たくなる。今朝からずっとそうだった。冷たいことは冷たい。けれど、乗り込んだときほどではない。窓から日が入っているせいでしょうか、とすみれは思って、石を襟元へ戻した。
やがて大きな道を外れると、車は住宅地へ入った。道が細くなり、両側の家が近くなる。坂を上がりきったところで塀の続く一角へ出て、奈々子先輩が「この先の左」と言った。りあさんは小さく息を吸い、ウインカーを出す。
◇
門の前だけ、道が少し広くなっていた。りあさんは一度も切り返さずに車を寄せ、エンジンを切ってから、ようやく長い息を吐いた。
降りると、風の匂いが変わっていた。木の塀の内側から、大きな木が枝を道の上まで出している。屋根瓦の端が日を受けて光り、その日が、家を出たときよりずいぶん低いところにあった。
引き戸の開く音がして、中から女の人が出てきた。
「りあちゃん、ほんとに自分で運転してきたの」
「したし」
「ぶつけてない?」
「ぶつけてないって!」
女の人は車の前と後ろを見てから、りあさんの腕を軽く叩いた。袖をまくった腕に、洗い物の途中のような濡れた跡がある。
「ならいいけど。……あら、ほんとに大勢ねえ」
すみれは、袂を押さえて頭を下げた。
「はじめまして。蓮雀寺すみれと申します。今日は、大勢でお邪魔してしまってすみません」
「まあ、ご丁寧に。……あら、着物なのね」
ほのかさんが、すみれの半歩後ろから「お邪魔します」と言った。奈々子先輩と星乃先輩も名乗ると、伯母さんは引き戸を大きく開けてくれた。
りあさんは車の後ろから風呂敷の包みを持ち上げ、すみれは紙袋を取ってそちらへ差し出した。
「ありがとう。……あ、それはあーしが持つ」
三和土は広く、ひんやりしていた。りあさんは上がってから膝をついて、脱いだ靴の向きを直している。ほのかさんが慌てて同じようにして、片方だけ揃え損ねていた。
すみれも草履を揃えて、廊下へ上がった。
上がった足が、そこで止まる。
胸元の石が、冷たくなかった。
確かめる前に、廊下の先から伯母さんが手招きをした。
通されたのは、庭に面した部屋だった。障子を開け放したままにしてあって、縁側の向こうに、外から見えていた大きな木の根元が見える。
「散らかってるけど、適当に座って」
りあさんは風呂敷の包みと紙袋を座卓の端へ置いた。
「これ、お母さんから。あと、これ空港で買ったやつ」
「まあ、お母さんにありがとうって言っといてね。……お菓子、切ってくるから待ってて」
伯母さんは包みを持って奥へ立った。ほのかさんが「あ、手伝います」と腰を浮かせ、盆に載った湯呑みを運んでくる。
戻ってきた伯母さんは、切り分けた菓子を人数分の小皿に載せて座卓へ置いた。りあさんが言っていたとおり、この家では、座るとお茶が出てくるらしかった。
「それ、スミレっちが選んだやつ」
りあさんは、すみれのほうを見ずに言った。
「あら。じゃあ、お礼はそちらね」
「い、いえ。わたしはただ、そちらの包みのほうが好きだと申し上げただけで」
伯母さんは笑って、すみれと星乃先輩の前の皿を、断りもなく一つずつ増やした。星乃先輩は手を伸ばして皿を引き寄せ、湯呑みを持ち上げている。
すみれも湯呑みへ手を伸ばしかけ、そこで止めた。
襟の内側が、温かい。呼びかけたときに触れて、確かめようとするともう消えている、あの短い温もりではなかった。この部屋へ通されてからずっと、ぬるま湯へ指を浸しているように続いている。
それに、静かだった。
伯母さんがお茶を勧める声も、ほのかさんの笑い声も、すぐそばにある。それなのに、届いてくるものがほとんどない。神社の中とも、星乃先輩のそばとも違う静けさだった。
伯母さんが、湯呑みの縁を指で拭った。
「そうだ、りあちゃん。帰る前に、御鏡さまへご挨拶していってね」
「うん」
りあさんは湯呑みをことりと置き、膝の上で指を組んだ。ほのかさんが顔を上げる。
「みかがみさま?」
「奥に部屋があってさ。鏡が置いてあんの。お母さんの家、昔からそれ祀ってて」
「神社みたいなこと?」
「神社ではないんよ。ただ、置いてある」
奈々子先輩が、湯呑みを座卓へ戻した。
「神棚とは、別にですか」
「別よ」
「触ってもいいんですか」
ほのかさんが訊くと、伯母さんは湯呑みを持ったまま、あっさり答えた。
「だめ」
「どうしてですか?」
「知らないわよ。昔からそう言われてるの。訊いても、うちの父も教えてくれなかったし」
「写真は?」
「それもだめ」
「うわ、ほんとにだめなやつだ」
ほのかさんがスマートフォンを膝へ下ろした。すみれは湯呑みから手を引き、顔を上げた。
「あの」
声を出すと、全員がこちらを向いた。
「わたしも、ご一緒してもよろしいですか。……その、御鏡さまのところへ」
「いいわよ。見るだけね」
伯母さんは頷いて、膝へ手をついて立ち上がった。
「案内するわ。お茶は、戻ってから淹れ直しましょ」
りあさんが先に立って襖を開ける。ほのかさんが慌てて立ち上がり、星乃先輩は最後に腰を上げた。
廊下は、座敷よりも一段暗かった。歩くたびに、板がわずかに鳴る。突き当りを曲がると、日の入らない側へ出て、空気がまた冷たくなった。
りあさんは、曲がる場所でも、襖の数えかたでも迷わない。案内するはずの伯母さんより先に立って、次の角へ向かっていく。二人の声が、廊下の先で遠くなった。
すみれは、歩きながら襟元へ手をやった。石を引き出して、手のひらで包み込む。内側から、ゆっくりとした波のようなものが伝わってきた。すみれ自身の脈とは、速さが合っていない。
「すみれ、大丈夫?」
隣で、奈々子先輩が声を落とした。
「はい。……石が、いつもと違うんです。家へ上がってから、ずっと温かくて。それに、みなさんの気持ちも、ほとんど届いてきません」
奈々子先輩は廊下の先へ目を向け、それから、すみれの手元を見た。
すみれの後ろで、星乃先輩の足が遅くなった。壁のほうや、天井のあたりへ、順に目をやっている。
「……なんか、変だな」
角のところで、りあさんが足を止めて振り返った。
「なにが?」
「分からん。雰囲気が」
「白蛇様、なんか言ってる?」
「いや。黙ってるな」
りあさんは、ふうん、とだけ言って先を向いた。星乃先輩も、そのあとに続いて歩く。
突き当りで、伯母さんが襖を開けた。
畳のよく乾いた、ほかに何も置かれていない部屋だった。障子は閉めてあり、光は薄い。その奥の壁ぎわに、木の台が一つ据えてある。白い布が敷かれ、その上に、丸い鏡が立ててあった。
思っていたよりも、ずっと小さい。すみれの手のひらより少し大きいくらいで、面は青みがかって曇っている。人の顔を映せるようには、とても見えなかった。
「あ、」
ほのかさんが、それだけ言って口を閉じた。
「はい、御鏡さま」
伯母さんは敷居のところで膝をつき、軽く頭を下げた。
りあさんは、部屋へ一歩だけ入って、そこで座った。膝の前へ手を揃えて、頭を下げる。
「……ども。ごぶさたしてます」
ほのかさんが、すみれのほうへ身を寄せて、小声で言った。
「話しかけるんだ」
「うち、そうすんの」
りあさんは、顔を伏せたまま答えた。頭を下げていた時間は、思ったよりも長かった。
すみれは、敷居の手前で膝をついた。
手のひらの中の石は、温かい、では足りなくなっていた。同じ間隔をおいて、内側から何かが寄せては引いていく。握り込んでも収まらず、指の付け根のあたりが、じんわりと汗ばんできた。
奥にある青い鏡の面に、ぼんやりと何かが映り込んでいる。目を凝らして、持ち上げた自分の手と、その上の石だと分かった。ずいぶん遠くにあるように見える。
「すみれ」
後ろから、星乃先輩の声がした。
「その石、さっきからそうなのか」
「……はい」
星乃先輩はすみれの手元を見つめ、腕を組んだ。
顔を上げたりあさんが、自分の二の腕を撫でた。
「……ねえ、スミレっち。あーし、さっきから、なんかむずむずすんだけど」
「むずむず?」
ほのかさんが小声で顔を寄せる。
「痛いとか、痒いんじゃなくてさ。じっとしてると気になるっていうか。……前にも、あったかも。ここ来たとき」
りあさんは首を傾げながら、腕を撫で続けていた。
そのときだった。
手のひらの中で、石の内側から、指の腹を押し返すような感触があった。
脈ではなかった。
熱でも、ざらつきでもない。
何かが、言葉になりかけている。
すみれは息を詰め、石へ目を落とした。温もりしかない。さっきの感じを探そうとして、指が震えた。石の先が手のひらから滑り、慌ててもう片方の手を添える。
「……すみません」
すみれは両手を膝へ下ろして、頭を下げた。
「少しだけ、席を外してもよろしいでしょうか。風に当たりたくて」
伯母さんが瞬きをする。
「そう。廊下の突き当たりを右に行くと、庭に出られる縁側があるから、そこで休みなさい」
「ありがとうございます」
すみれは立ち上がり、敷居から離れた。
足早に廊下へ出る。
後ろから、衣擦れの音が追ってきた。
振り返ると、奈々子先輩がいた。すみれの歩幅に合わせて並んで歩いてくれる。
廊下の突き当たりを右へ折れると、庭へ開いた縁側に出た。座敷からも少し離れていて、奥の人の声は、もう言葉までは聞き取れない。
すみれは縁側の端へ行き、膝をついた。
握っていた指をゆるめ、石を手のひらへ載せ直す。もう片方の手を下へ重ねると、震えが少し収まった。奈々子先輩も隣に腰を下ろし、すみれの顔を覗く。
「さっき、何か言いかけた?」
「はい。でも……まだ、うまく言えなくて。もう一度、確かめたいんです」
奈々子先輩が静かに頷き、庭のほうへ視線を向けた。
すみれは石へ向き直り、朝のご挨拶をするときと同じように、丸みへ親指を添えた。
「どうされたんですか。先ほどから、いつもと違います」
返事はなかった。
庭の木の葉が、風で擦れ合う音がする。石の温かさは、重ねた下の手にまで伝わってくるけれど、そこからは何も分からない。
すみれは、石をしまわずに待った。朝なら、そろそろ襟元へ戻している。けれど、今日はまだ手を離したくなかった。
すみれは少し顔を上げ、息を吐いた。
その途中で、
――……な……
すみれの息が止まった。
続きは来ない。見慣れた丸みから目を離せずにいると、隣で奈々子先輩が身じろぎした。視線を向けると、奈々子先輩もすみれを見ていた。
すみれは石へ視線を戻し、声を落とした。
「今……何か、おっしゃいましたか?」




