内堀通りを南へ
「スミレっち、そっち閉まった?」
乗り込んだばかりのドアへ、すみれがもう一度手をかけると、りあさんは運転席から身をひねって、奈々子先輩の側、星乃先輩の側と順に見ていった。
「ベルトも。ほっしーも」
「してる」
「こっちからじゃ見えないんだって」
星乃先輩が、肩にかかった帯を指で引いてみせる。りあさんはミラー越しにそれを確かめてから、前へ向き直った。
連絡が来たのは、今週のはじめだった。
お母さんのほうのご親戚の家へ、届け物をしに行くこと。免許を取ったので、自分の運転で行きたいこと。それでも、一人で行くのはまだ心細いこと。
そのあとに、もう一行だけ付いていた。
『せっかくだから羽田空港も寄りたい! 飛行機乗らなくても遊べるらしいよ』
すみれは、その一行を何度か読み返した。空港へ行くのは、初めてだった。
膝の上でスマートフォンが震える。
『ごめん、弟の用事がまだ終わらなくて。片づいたら電車で行くね』
ほのかさんに弟がいることを、すみれは今まで知らなかった。
「ほのかさんは、羽田で合流だそうです」
「おっけ。じゃあ、あーしらは先行っとこ」
りあさんの声はいつもどおりだった。返信を送って鞄へしまい、すみれは襟元の紐を引いた。手のひらへ出した石は、朝からずっと冷たい。りあさんのそばだと、たいていこうなる。
「今日は、車で羽田空港へ行きますよ。そのあとが、りあさんのご親戚のお家です」
「……何やってるんだ、お前」
隣で星乃先輩が、すみれの手元を覗き込んでいた。
「お話ししています。足利から帰ってきてから、毎日です」
「毎日か」
「はい。朝のご挨拶と、その日にあったことを。何をお話しすればいいのかは、まだよく分からないのですが」
「昨日は何話したん?」
前からりあさんの声が飛んできた。
「大学の食堂が混んでいたお話です」
「石にそれ言うん!?」
笑われて、すみれも少し笑った。石は冷たいままだったけれど、しばらく待っていると、親指の付け根へ短い温もりが触れた。すみれはそこを一度握り直してから、襟元へ戻した。
「ナナコ先輩、ナビお願いしていいですか。あーし、画面見てると前が見れんくなる」
「うん。……高速なら三十分くらいだけど、下道でも一時間半くらいで着くみたい」
「下道で。あーし、まだ高速はちょっと」
奈々子先輩が画面を上へなぞる。りあさんは横目でそれを見て、急に身を乗り出した。
「待って。この道、皇居のとこ通れます?」
「通れるね。靖国神社の辺りで曲がる形になるかな」
「じゃあ絶対そっち! せっかくなら皇居の近く通ろ!」
りあさんはハンドルの上で両手を組み替え、ひとつ息を吸った。
「よし。出ます」
出口で自転車が一台通り過ぎ、そのあとから歩いてくる人も通してから、車はゆっくりと駐車場を出た。
すみれは背もたれへ体を預けた。窓の外の歩道が、いつもより低いところにある。りあさんの運転する車に、本当に乗っていた。
◇
走り出してすぐ、車の中が静かになった。
最初は、みんなが外を見ているからだと思った。けれど、しばらくして分かった。喋らないのはりあさんだった。
いつもなら、こちらが答え終わる前に次の言葉が来る。今は、両手の位置が変わらない。首だけが左右へ動いて、そのたびにミラーの中の目が、すみれの知らない速さで何かを確かめている。
届いてくるものも、いつもと違っていた。前の座席から、細く張ったものが伸びている。楽しさのようでもあり、そうでないようでもあった。
やがて左手に、大きな鳥居が見えた。奥までは、車の窓からでは分からない。すみれが首を回して見送っていると、奈々子先輩の声の調子が変わった。
「御影さん、次を右ね。右折したら内堀通りに入るよ」
「内堀通りってどこ!? 通りの名前とか分からんし!」
「この先の右。大丈夫」
「はい!」
交差点はすぐだった。りあさんはウインカーを出し、ミラーを見て、もう一度見てから、ゆっくり右へ回っていく。
道が変わると、左が開けた。
「わ、お濠」
りあさんが言ったのは、それだけだった。
すみれは窓へ寄った。木の下に水が続いていて、向こう岸の石垣まで、まだずいぶんある。曲がった先にもまだ続いているのが、電車の窓から見るのとは違って分かった。向かいの車線を、大きな観光バスが二台続けて過ぎていく。
半蔵門の交差点を越えたあたりから、道が広がり始めた。前に白い車、右にタクシー。その向こうにもまだ車線があって、どこへつながるのか、すみれには分からない。頭の上を、青い案内標識が次々に流れていく。
「なんなんここ、車線多すぎん!?」
声は大きいのに、りあさんの肩はこちらを向かない。
「りあ」
星乃先輩が呼んだ。返事はなかった。
「おい、りあ」
「……」
「無視か」
「御影さん、ここはまっすぐだよ」
「まっすぐってどの車線!?」
「今いるところで大丈夫」
「おっけ」
りあさんはハンドルを持ち直して、まっすぐ前を向いた。
すみれは、前の二つの座席を見比べた。星乃先輩の声には何も返さないのに、奈々子先輩の言葉には、必ず短く返っていく。返ってきた分だけ、車が動いていく。
信号が黄色に変わり、車が止まった。りあさんが長く息を吐く。すみれも、いつの間にか上がっていた肩を下ろした。
「りあ」
「……」
「りあさん」
「……」
「御影りあ」
「今! 集中してんの!」
星乃先輩が声を出して笑った。りあさんはミラーを一度睨んでから、また前を向く。
少し走ったところで、また信号に捕まった。赤は、なかなか変わらない。
奈々子先輩が画面を戻して、指で道をなぞっている。りあさんは首を回してから、そちらを覗き込んだ。
「ナナコ先輩、あとどんくらい混んでます?」
「この先を過ぎれば、少しましになると思う」
「よかった。……ナナコ先輩がいてくれてほんと助かる」
その言い方が、あんまり自然だった。
「……なんだか、仲がいいですね」
言ってから、思っていたより声が出ていたことに気づいた。奈々子先輩が振り向く。
「すみれ?」
「あ、いえ。その、お二人とも、息が合っていらっしゃるので」
「合ってるっていうか、あーしが全部ナナコ先輩に頼ってるだけだし」
「私は、見たものを言ってるだけだよ」
二人がほとんど同時に言うので、すみれは笑ってしまった。
「りあさん」
「んー」
「運転ができるって、すごいですね」
「今の見てて言う?」
「はい。だって、わたしたちを乗せて、ちゃんと走っていますし」
信号が青になった。りあさんは交差点をもう一度見てから、車を出す。
「……こわくは、ないんですか」
「こわいよ。今もめっちゃこわい」
すみれは、少し身を乗り出した。
「では、どうして運転しようと思われたんですか」
りあさんは、すぐには答えなかった。前の車が離れ、間が空いて、また詰まる。
「行きたいとこに、自分で行けるじゃん」
りあさんの声は、さっきまでより低かった。
「乗せてってもらうのも楽なんだけどさ。それだと、あーし、いつまでも連れてってもらう人じゃん」
すみれは、前の座席の背を見ていた。
「……はい。分かる気がします」
「え、なに。スミレっちに分かられると、ちょっと恥ずいんだけど」
りあさんが笑って、すぐにまた前を向いた。
窓の外の建物が、少しずつ低くなっていく。
◇
駐車場に入ってから停め終わるまで、りあさんは一言も喋らなかった。
一度入れかけた枠を出て、もう少し先の空いているほうへ移り、切り返して、ゆっくり下がる。すみれは降りる支度をしかけた手を止めて、待った。
エンジンの音が消える。
「着いたぁ……」
りあさんが、ハンドルに額をつけた。
「お疲れさま」
車を降りると、風が思ったより強かった。りあさんはスニーカーで二度床を踏んでから、大きく伸びをする。髪が顔にかかると、いつもの手つきで払いのけた。
「ほっしー、後ろで寝てたっしょ」
「起きてた」
「じゃあ、あーしのすごい駐車、見た?」
「見てない」
「見なさいよ!」
すみれは笑いながら、車の後ろの柱を一枚撮っておいた。
自動ドアを抜けると、音がいっぺんに変わった。
天井が高い。見上げても、どこで終わっているのか分からない。床のほうでは、幾筋もの流れが速さを変えないまま交わっていた。走っている人はいないのに、全体はずいぶん速く動いている。案内板には、聞いたことのある地名と、そうでない地名が半分ずつ並んでいた。
人はこれだけいるのに、届いてくるものは薄い。みんな、それぞれの行き先のほうを向いていた。
「スミレっち、置いてくよー」
昼は、窓の広い席が空いていた店で軽く済ませた。
◇
「腹ごなしにお土産見よ。あーし、持ってく用も買わないと」
売り場は、店がいくつも並んで、それだけで一つの通りのようになっていた。箱を壁みたいに積んだ棚が、通路の両側にどこまでも続いている。
りあさんは、その前で真面目な顔をしていた。箱を裏返して、細かい字のところまで読んでいる。
「そちらは、どれにするんですか」
「親戚んとこ持ってく用。……甘いのでいいと思う? あそこ、行くと必ずお茶出てくんのよ」
すみれが横から覗くと、りあさんは箱を二つ並べて、片方をこちらへ向けた。すみれが、そちらの包みのほうが好きです、と答えると、りあさんは「じゃあそれ」と言って、かごへ入れた。それでもまだ、すぐには動かなかった。
星乃先輩は、少し先の酒の棚の前にいた。手には何も持っていない。
すみれは、奥の棚まで歩いてみた。知らない土地の名前が、包みの上に並んでいる。どれも、誰かにとっては帰り道に買うものなのだろう。
棚の端に、奈々子先輩が立っていた。
「あ、これ、まだあるんだ」
「ご存じなんですか」
「うん。……昔、よく見たから」
奈々子先輩は、その包みを一つだけ手に取って、値段のあたりを見てから、元の場所へ戻した。
「ナナコ先輩! こっち来て、どっちがいいと思います?」
呼ばれて、奈々子先輩はそちらへ行った。すみれも、棚をもう一度見てから、あとを追った。
会計を待っている間に、鞄の中でスマートフォンが震えた。
『今着いた! 展望デッキで合流しよ』
「ほのかさん、展望デッキだそうです」
「じゃ、上いこ」
◇
展望デッキへ出た瞬間、風が正面から来た。
「すみれちゃーん!」
フェンスのそばで、ほのかさんが大きく手を振っている。すみれがそちらへ行くと、ほのかさんはもうスマートフォンを出していた。慣れた手つきでイケメモを開き、画面を押す。すみれも鞄から出して、同じようにチェックインを押した。
「すみれちゃん、律儀だよね」
「ほのかさんに教えていただきましたから」
顔を上げて、そこで足が止まった。
白い機体が、思っていたよりずっと近くにあった。窓から遠く見るのとは、大きさの見当がまるで違う。翼の下を小さな車が何台も横切っていき、そばで働いている人は、豆粒より少し大きいくらいに見えた。
音は途切れない。低いところで空気が鳴っているような響きが、ずっと足元から届いている。
「髪、無理なんだけど」
両手で押さえながら、りあさんが言った。奈々子先輩は目の上へ手をかざして滑走路のほうを見ている。星乃先輩はフェンスの隙間から、遠くの一機を目で追っていた。
ちょうど、その一機が動き始めるところだった。ゆっくり向きを変え、遠ざかり、それから急に速くなる。すみれがスマートフォンへ伸ばしかけた手を止めているうちに、前の車輪が浮いた。
大きな機体が、そのまま空へ上がっていく。
「……飛びました」
音に声が埋もれた。もう一度言おうとして隣を見ると、りあさんも空を見上げていた。
機影が小さくなってから、すみれはスマートフォンを構えた。
「今度は、わたしが撮ります」
「もう飛んでっちゃったよ?」
「りあさんを」
りあさんが一瞬きょとんとして、それから、顔の横に指を二本立てた。
撮れた写真には、髪を風に押さえきれていないりあさんと、その向こうの白い空が入っていた。すみれは画面を見て、少し笑った。
◇
車へ戻ると、後部座席の真ん中にほのかさんが座った。すみれはその隣に乗る。行きよりも、少し肩が近い。りあさんの紙袋は、すみれの足元へ置かれた。
「ねえ、りあすけの運転って、大丈夫なの?」
「任せろし!」
言うだけ言って、りあさんはミラーの角度を直した。
「ナナコ先輩、ナビお願いします」
「はい」
「スミレっち、ほっしー黙らせといて」
「……善処します」
「おい」
りあさんは一人ずつベルトを確かめていく。星乃先輩が先に帯を引いてみせた。
「ほら、ちゃんと締めてるぞ。満足か」
「うるさ」
「ちょっと、車内で喧嘩しないでよ」
ほのかさんが、二人の間を見比べて笑う。
すみれは、自分のベルトを引いてから言った。
「りあさん。もし迷っても、わたしは大丈夫です」
「迷う前提なんだ?」
「あっ。いえ、そういうつもりでは……」
隣でほのかさんが声を上げて笑い、運転席でも肩が揺れた。すみれは慌てて片手を振る。
「分かってるって。ありがと、スミレっち」
奈々子先輩が、助手席から振り返った。
「私がナビするから、大丈夫だよ」
「頼りにしてます、ナナコ先輩」
りあさんの手が、鍵を回す。
「じゃ、行こっか」
車が出口へ向かって走り出す。ここから先の道を、すみれはまだ知らない。




