↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
24/42

内堀通りを南へ

「スミレっち、そっち閉まった?」


 乗り込んだばかりのドアへ、すみれがもう一度手をかけると、りあさんは運転席から身をひねって、奈々子先輩の側、星乃先輩の側と順に見ていった。


「ベルトも。ほっしーも」


「してる」


「こっちからじゃ見えないんだって」


 星乃先輩が、肩にかかった帯を指で引いてみせる。りあさんはミラー越しにそれを確かめてから、前へ向き直った。


 連絡が来たのは、今週のはじめだった。


 お母さんのほうのご親戚の家へ、届け物をしに行くこと。免許を取ったので、自分の運転で行きたいこと。それでも、一人で行くのはまだ心細いこと。


 そのあとに、もう一行だけ付いていた。


『せっかくだから羽田空港も寄りたい! 飛行機乗らなくても遊べるらしいよ』


 すみれは、その一行を何度か読み返した。空港へ行くのは、初めてだった。


 膝の上でスマートフォンが震える。


『ごめん、弟の用事がまだ終わらなくて。片づいたら電車で行くね』


 ほのかさんに弟がいることを、すみれは今まで知らなかった。


「ほのかさんは、羽田で合流だそうです」


「おっけ。じゃあ、あーしらは先行っとこ」


 りあさんの声はいつもどおりだった。返信を送って鞄へしまい、すみれは襟元の紐を引いた。手のひらへ出した石は、朝からずっと冷たい。りあさんのそばだと、たいていこうなる。


「今日は、車で羽田空港へ行きますよ。そのあとが、りあさんのご親戚のお家です」


「……何やってるんだ、お前」


 隣で星乃先輩が、すみれの手元を覗き込んでいた。


「お話ししています。足利から帰ってきてから、毎日です」


「毎日か」


「はい。朝のご挨拶と、その日にあったことを。何をお話しすればいいのかは、まだよく分からないのですが」


「昨日は何話したん?」


 前からりあさんの声が飛んできた。


「大学の食堂が混んでいたお話です」


「石にそれ言うん!?」


 笑われて、すみれも少し笑った。石は冷たいままだったけれど、しばらく待っていると、親指の付け根へ短い温もりが触れた。すみれはそこを一度握り直してから、襟元へ戻した。


「ナナコ先輩、ナビお願いしていいですか。あーし、画面見てると前が見れんくなる」


「うん。……高速なら三十分くらいだけど、下道でも一時間半くらいで着くみたい」


「下道で。あーし、まだ高速はちょっと」


 奈々子先輩が画面を上へなぞる。りあさんは横目でそれを見て、急に身を乗り出した。


「待って。この道、皇居のとこ通れます?」


「通れるね。靖国神社の辺りで曲がる形になるかな」


「じゃあ絶対そっち! せっかくなら皇居の近く通ろ!」


 りあさんはハンドルの上で両手を組み替え、ひとつ息を吸った。


「よし。出ます」


 出口で自転車が一台通り過ぎ、そのあとから歩いてくる人も通してから、車はゆっくりと駐車場を出た。


 すみれは背もたれへ体を預けた。窓の外の歩道が、いつもより低いところにある。りあさんの運転する車に、本当に乗っていた。


     ◇


 走り出してすぐ、車の中が静かになった。


 最初は、みんなが外を見ているからだと思った。けれど、しばらくして分かった。喋らないのはりあさんだった。


 いつもなら、こちらが答え終わる前に次の言葉が来る。今は、両手の位置が変わらない。首だけが左右へ動いて、そのたびにミラーの中の目が、すみれの知らない速さで何かを確かめている。


 届いてくるものも、いつもと違っていた。前の座席から、細く張ったものが伸びている。楽しさのようでもあり、そうでないようでもあった。


 やがて左手に、大きな鳥居が見えた。奥までは、車の窓からでは分からない。すみれが首を回して見送っていると、奈々子先輩の声の調子が変わった。


「御影さん、次を右ね。右折したら内堀通りに入るよ」


「内堀通りってどこ!? 通りの名前とか分からんし!」


「この先の右。大丈夫」


「はい!」


 交差点はすぐだった。りあさんはウインカーを出し、ミラーを見て、もう一度見てから、ゆっくり右へ回っていく。


 道が変わると、左が開けた。


「わ、お濠《ほり》」


 りあさんが言ったのは、それだけだった。


 すみれは窓へ寄った。木の下に水が続いていて、向こう岸の石垣まで、まだずいぶんある。曲がった先にもまだ続いているのが、電車の窓から見るのとは違って分かった。向かいの車線を、大きな観光バスが二台続けて過ぎていく。


 半蔵門の交差点を越えたあたりから、道が広がり始めた。前に白い車、右にタクシー。その向こうにもまだ車線があって、どこへつながるのか、すみれには分からない。頭の上を、青い案内標識が次々に流れていく。


「なんなんここ、車線多すぎん!?」


 声は大きいのに、りあさんの肩はこちらを向かない。


「りあ」


 星乃先輩が呼んだ。返事はなかった。


「おい、りあ」


「……」


「無視か」


「御影さん、ここはまっすぐだよ」


「まっすぐってどの車線!?」


「今いるところで大丈夫」


「おっけ」


 りあさんはハンドルを持ち直して、まっすぐ前を向いた。


 すみれは、前の二つの座席を見比べた。星乃先輩の声には何も返さないのに、奈々子先輩の言葉には、必ず短く返っていく。返ってきた分だけ、車が動いていく。


 信号が黄色に変わり、車が止まった。りあさんが長く息を吐く。すみれも、いつの間にか上がっていた肩を下ろした。


「りあ」


「……」


「りあさん」


「……」


「御影りあ」


「今! 集中してんの!」


 星乃先輩が声を出して笑った。りあさんはミラーを一度睨んでから、また前を向く。


 少し走ったところで、また信号に捕まった。赤は、なかなか変わらない。


 奈々子先輩が画面を戻して、指で道をなぞっている。りあさんは首を回してから、そちらを覗き込んだ。


「ナナコ先輩、あとどんくらい混んでます?」


「この先を過ぎれば、少しましになると思う」


「よかった。……ナナコ先輩がいてくれてほんと助かる」


 その言い方が、あんまり自然だった。


「……なんだか、仲がいいですね」


 言ってから、思っていたより声が出ていたことに気づいた。奈々子先輩が振り向く。


「すみれ?」


「あ、いえ。その、お二人とも、息が合っていらっしゃるので」


「合ってるっていうか、あーしが全部ナナコ先輩に頼ってるだけだし」


「私は、見たものを言ってるだけだよ」


 二人がほとんど同時に言うので、すみれは笑ってしまった。


「りあさん」


「んー」


「運転ができるって、すごいですね」


「今の見てて言う?」


「はい。だって、わたしたちを乗せて、ちゃんと走っていますし」


 信号が青になった。りあさんは交差点をもう一度見てから、車を出す。


「……こわくは、ないんですか」


「こわいよ。今もめっちゃこわい」


 すみれは、少し身を乗り出した。


「では、どうして運転しようと思われたんですか」


 りあさんは、すぐには答えなかった。前の車が離れ、間が空いて、また詰まる。


「行きたいとこに、自分で行けるじゃん」


 りあさんの声は、さっきまでより低かった。


「乗せてってもらうのも楽なんだけどさ。それだと、あーし、いつまでも連れてってもらう人じゃん」


 すみれは、前の座席の背を見ていた。


「……はい。分かる気がします」


「え、なに。スミレっちに分かられると、ちょっと恥ずいんだけど」


 りあさんが笑って、すぐにまた前を向いた。


 窓の外の建物が、少しずつ低くなっていく。


     ◇


 駐車場に入ってから停め終わるまで、りあさんは一言も喋らなかった。


 一度入れかけた枠を出て、もう少し先の空いているほうへ移り、切り返して、ゆっくり下がる。すみれは降りる支度をしかけた手を止めて、待った。


 エンジンの音が消える。


「着いたぁ……」


 りあさんが、ハンドルに額をつけた。


「お疲れさま」


 車を降りると、風が思ったより強かった。りあさんはスニーカーで二度床を踏んでから、大きく伸びをする。髪が顔にかかると、いつもの手つきで払いのけた。


「ほっしー、後ろで寝てたっしょ」


「起きてた」


「じゃあ、あーしのすごい駐車、見た?」


「見てない」


「見なさいよ!」


 すみれは笑いながら、車の後ろの柱を一枚撮っておいた。


 自動ドアを抜けると、音がいっぺんに変わった。


 天井が高い。見上げても、どこで終わっているのか分からない。床のほうでは、幾筋もの流れが速さを変えないまま交わっていた。走っている人はいないのに、全体はずいぶん速く動いている。案内板には、聞いたことのある地名と、そうでない地名が半分ずつ並んでいた。


 人はこれだけいるのに、届いてくるものは薄い。みんな、それぞれの行き先のほうを向いていた。


「スミレっち、置いてくよー」


 昼は、窓の広い席が空いていた店で軽く済ませた。


     ◇


「腹ごなしにお土産見よ。あーし、持ってく用も買わないと」


 売り場は、店がいくつも並んで、それだけで一つの通りのようになっていた。箱を壁みたいに積んだ棚が、通路の両側にどこまでも続いている。


 りあさんは、その前で真面目な顔をしていた。箱を裏返して、細かい字のところまで読んでいる。


「そちらは、どれにするんですか」


「親戚んとこ持ってく用。……甘いのでいいと思う? あそこ、行くと必ずお茶出てくんのよ」


 すみれが横から覗くと、りあさんは箱を二つ並べて、片方をこちらへ向けた。すみれが、そちらの包みのほうが好きです、と答えると、りあさんは「じゃあそれ」と言って、かごへ入れた。それでもまだ、すぐには動かなかった。


 星乃先輩は、少し先の酒の棚の前にいた。手には何も持っていない。


 すみれは、奥の棚まで歩いてみた。知らない土地の名前が、包みの上に並んでいる。どれも、誰かにとっては帰り道に買うものなのだろう。


 棚の端に、奈々子先輩が立っていた。


「あ、これ、まだあるんだ」


「ご存じなんですか」


「うん。……昔、よく見たから」


 奈々子先輩は、その包みを一つだけ手に取って、値段のあたりを見てから、元の場所へ戻した。


「ナナコ先輩! こっち来て、どっちがいいと思います?」


 呼ばれて、奈々子先輩はそちらへ行った。すみれも、棚をもう一度見てから、あとを追った。


 会計を待っている間に、鞄の中でスマートフォンが震えた。


『今着いた! 展望デッキで合流しよ』


「ほのかさん、展望デッキだそうです」


「じゃ、上いこ」


     ◇


 展望デッキへ出た瞬間、風が正面から来た。


「すみれちゃーん!」


 フェンスのそばで、ほのかさんが大きく手を振っている。すみれがそちらへ行くと、ほのかさんはもうスマートフォンを出していた。慣れた手つきでイケメモを開き、画面を押す。すみれも鞄から出して、同じようにチェックインを押した。


「すみれちゃん、律儀だよね」


「ほのかさんに教えていただきましたから」


 顔を上げて、そこで足が止まった。


 白い機体が、思っていたよりずっと近くにあった。窓から遠く見るのとは、大きさの見当がまるで違う。翼の下を小さな車が何台も横切っていき、そばで働いている人は、豆粒より少し大きいくらいに見えた。


 音は途切れない。低いところで空気が鳴っているような響きが、ずっと足元から届いている。


「髪、無理なんだけど」


 両手で押さえながら、りあさんが言った。奈々子先輩は目の上へ手をかざして滑走路のほうを見ている。星乃先輩はフェンスの隙間から、遠くの一機を目で追っていた。


 ちょうど、その一機が動き始めるところだった。ゆっくり向きを変え、遠ざかり、それから急に速くなる。すみれがスマートフォンへ伸ばしかけた手を止めているうちに、前の車輪が浮いた。


 大きな機体が、そのまま空へ上がっていく。


「……飛びました」


 音に声が埋もれた。もう一度言おうとして隣を見ると、りあさんも空を見上げていた。


 機影が小さくなってから、すみれはスマートフォンを構えた。


「今度は、わたしが撮ります」


「もう飛んでっちゃったよ?」


「りあさんを」


 りあさんが一瞬きょとんとして、それから、顔の横に指を二本立てた。


 撮れた写真には、髪を風に押さえきれていないりあさんと、その向こうの白い空が入っていた。すみれは画面を見て、少し笑った。


     ◇


 車へ戻ると、後部座席の真ん中にほのかさんが座った。すみれはその隣に乗る。行きよりも、少し肩が近い。りあさんの紙袋は、すみれの足元へ置かれた。


「ねえ、りあすけの運転って、大丈夫なの?」


「任せろし!」


 言うだけ言って、りあさんはミラーの角度を直した。


「ナナコ先輩、ナビお願いします」


「はい」


「スミレっち、ほっしー黙らせといて」


「……善処します」


「おい」


 りあさんは一人ずつベルトを確かめていく。星乃先輩が先に帯を引いてみせた。


「ほら、ちゃんと締めてるぞ。満足か」


「うるさ」


「ちょっと、車内で喧嘩しないでよ」


 ほのかさんが、二人の間を見比べて笑う。


 すみれは、自分のベルトを引いてから言った。


「りあさん。もし迷っても、わたしは大丈夫です」


「迷う前提なんだ?」


「あっ。いえ、そういうつもりでは……」


 隣でほのかさんが声を上げて笑い、運転席でも肩が揺れた。すみれは慌てて片手を振る。


「分かってるって。ありがと、スミレっち」


 奈々子先輩が、助手席から振り返った。


「私がナビするから、大丈夫だよ」


「頼りにしてます、ナナコ先輩」


 りあさんの手が、鍵を回す。


「じゃ、行こっか」


 車が出口へ向かって走り出す。ここから先の道を、すみれはまだ知らない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。