渡良瀬橋
すみれは、石に添えた指を動かせずにいた。
今の温かさも、長くは続かなかった。丸みの下へ指を差し入れてみると、そちらはもう冷たい。
「また、温かくなりました」
隣のほのかさんが、手のひらを覗き込んだ。
「今? 呼んだあと?」
「はい。……もう一度、訊いてみます」
長椅子の前にいるりあさんが、すみれの手元へ顔を近づける。奈々子先輩も座ったままこちらを向いていた。星乃先輩は長椅子の端で、膝に載せた鞄を押さえている。
「……聞こえているんですよね?」
首から垂れた紐をたるませ、石を手のひらに置いたまま待つ。冷たさが少し緩んだ。すみれが口を開くより先に、指の腹へ、また短い温もりが触れる。
「わたしに、何かしてほしいことがあるんですか」
今度は、待っても変わらない。
問いかけを言い直そうとして、どこを直せばよいのか分からなくなった。先ほどと同じように温かくなったとしても、何をしてほしいのかまでは分からない。
「何か言っているような気はするんです。でも、何を言っているのかは分かりません」
「でも、呼んだあとに温かくなったんしょ? さっきから」
「はい。それが返事なのかも、まだ……」
りあさんは石を見たまま、「そっか」と言った。外から見ただけでは、何も変わっていない。
「石に何かが宿るっていう話なら、昔からあるよ」
奈々子先輩の声に、すみれは顔を上げた。
「石そのものを神様としてお祀りしたり、神様がそこに宿ると考えたり。でも、この石がそうなのかは分からないけど……」
すみれの手のひらへ視線を落とし、少し首を傾けた。
「そういう石に、話しかけたりもするんですか」
「お願いをしたり、ご挨拶をしたりはするね。返事がもらえるかは、また別だけど」
すみれは手元へ目を戻す。石の穴を通る紐が、少しよれていた。指で直しながら見ると、見慣れた曲がり方まで気になってくる。どちらがこちらを向いている、ということもないのだろうか。
「石に意思がある、な~んて」
ほのかさんの声で、りあさんが顔を上げた。
「ほのっち、それ言いたかっただけじゃん」
「ちょっと思っちゃった。でも、そういうのもあるのかなって」
奈々子先輩が口元を緩める。すみれも笑うと、ずっと前へ寄っていたほのかさんが、長椅子の背へ身を戻した。
すみれは石を両手で包んだ。何かがこちらへ返ってきているような気は、まだしていた。
少し離れたところで、落ち葉を集める音がする。
命さんが、拝殿の脇から出てきていた。片手に塵取りを持ち、箒の先で、散らばった葉を寄せている。
すみれは立ち上がった。
「命さん」
「はい?」
呼びかけると、命さんは箒を止めた。すみれは長椅子から数歩進み、そこで足を止める。
「石に訊いてみたら、また温かくなったんです。でも……何を言っているのかまでは、分からなくて」
「もっと知っていきたいって、ご自分で言っていたでしょう。いいんじゃないですか」
「それって、どういう……」
命さんは小さく笑った。
「頑張ってくださいね。あ、そろそろ今日の派遣も終了です。それでは、また」
残った葉を塵取りへ入れると、命さんは掃除道具を持って社の脇へ回った。ほどなく、手提げを一つ持って戻ってくる。
「皆様も、お気をつけて」
「命さん」
命さんが振り向いた。
「また、どこかでお話を聞かせていただけますか」
命さんは、にこりと笑った。
「ええ。ご縁があれば」
すみれが頭を下げると、命さんはほのかさんたちにも会釈して、参道を歩いていった。鳥居の前で一礼し、通りへ出る。道を譲った自転車の人にも軽く頭を下げていた。
「……普通に帰るんだね」
ほのかさんが、鳥居の向こうを見た。
「なんなん、あの人。ほんとに人じゃないん?」
りあさんが訊いた。星乃先輩は鞄を肩にかけ、立ち上がった。
「普通の人間じゃないのは確かだ。ただ、あいつの言うこと、全部真に受けるなよ」
「ほっしーでも分からんの?」
「分からん。だから言ってる」
「巫女さんの派遣って、本当にあるのかな」
少し考えるように目を伏せて、奈々子先輩はやがて小さく首を振った。
「……今ここで考えても、分からないね。今日はこのくらいにしておこうか、すみれ」
「はい……」
すみれは、石を胸元へ戻した。襟にかかった紐を直してから、長椅子に置いていた鞄を取る。
「歌碑、行くぞ」
星乃先輩が言うと、りあさんが笑った。
「ほっしーの仕込みだったんじゃない?」
「そんなわけあるか」
奈々子先輩も立ち上がった。りあさんが肩ひもを掛け直しながら、ほのかさんの横へ来る。
「その前に、お昼食べよ。あーし、もうお腹すいた」
「あたしも。朝いっぱい食べたのにね」
鳥居を出て、五人で通りへ戻った。
◇
昼食を済ませ、帰りの特急だけ押さえた。夕方の橋を見てからでも間に合うと、奈々子先輩が言った。店を出てからも通りの店先で何度か足を止め、川沿いへ戻るころには、建物の影が歩道まで伸びていた。
「あった。あれだ」
星乃先輩が指した先に、黒い歌碑が立っていた。公園のそばの、道を歩いていれば通り過ぎてしまいそうなところだった。ほのかさんとりあさんは、そのまま川のほうへ寄っていく。
先にいた二人連れが写真を撮り終えるまで、星乃先輩は少し離れて待っていた。人が離れると、前へ出る。
すみれは隣に立ち、刻まれた「渡良瀬橋」の文字を見た。その下にも文字が並んでいる。端から目で追っていく間も、星乃先輩は黙って読んでいる。
写真を撮るのかと思ったが、まだスマートフォンは出さない。上から下まで読んで、もう一度、初めのほうへ目を戻している。
すみれが読み終えて横を見ると、ようやく鞄の口を開けたところだった。
すみれは脇へ退いた。星乃先輩は歌碑の正面と、橋がそばに見えるほうから、それぞれ写真を撮る。
すみれもスマートフォンを出した。歌碑だけを入れようとすると橋がほとんど写らず、少し横へ向けると、今度は星乃先輩の背中が入る。
「星乃先輩。そのままで、一枚撮ってもいいですか」
星乃先輩が振り向いたので、すみれは慌てて続けた。
「いえ、こちらを向かなくても。歌碑を見ているところを」
「ああ、そういうことか」
星乃先輩は歌碑へ向き直った。少し待ってから、すみれは撮る。
画面の中には、歌碑を前にした黒い上着と、その向こうの川があった。すみれが「撮れました」と言うと、星乃先輩は戻ってきて、画面を覗き込んだ。
「これも、あとでくれ」
「はい」
スマートフォンをしまうと、川のほうにいた二人が戻ってきた。奈々子先輩も、碑の横から離れる。
「そろそろ、橋に行くか」
星乃先輩に呼ばれ、すみれは川のほうへ向き直った。
◇
渡良瀬橋に沿う歩道へ入ると、風が上着の裾を押した。
鉄の骨組みの間を車が通っていく。そちらへ目をやってから川を見ると、朝よりも水面が近く感じられた。欄干の下には砂利の白い岸があり、その先を、幅の違う流れが寄り合いながら進んでいる。
西の空に、日が低くかかっていた。水の細かな凹凸が光り、少し顔を動かすだけで、まぶしい場所が変わる。
「あ、ここ。ここ、きれい」
ほのかさんが立ち止まり、りあさんを呼んだ。星乃先輩はもう少し先の欄干に寄っていて、こちらを振り返っても戻っては来ない。向こうから歩いてきた人を通してから、すみれたちのほうが、星乃先輩のいるところまで歩いた。
「朝とは、ずいぶん違いますね」
「朝は向こうから見ただけだからな」
星乃先輩が、川岸のほうを指した。遠くから眺めていた骨組みが、今はすぐ横にある。車が継ぎ目を越す音がして、すみれの足元へも、かすかな振動が伝わった。
ここを人や車が渡っていく。その途中に自分も立っているのが、まだ少し変な感じだった。
ほのかさんが撮ったものをりあさんへ見せ、奈々子先輩も横から覗いている。すみれは少し後ろで、川から吹いてくる風を受けていた。
星乃先輩がスマートフォンを構える。朝のように橋全体を入れようとはしていない。今度は川と、向こうの山を撮っているらしかった。
「どうだ」
差し出された画面には、水面の光が細く写っていた。すみれは顔を近づけてから、実際の川へ目を戻す。
「……もっと、まぶしいです」
「だよな」
星乃先輩はスマートフォンをしまい、もう一度、川の向こうを見た。
「……これが、歌に出てくる夕日か。いいな」
「白蛇様も、満足してますか?」
「ああ。ご満悦だ」
しばらく、車の音と川を渡る風だけを聞いた。りあさんは、顔にかかる髪を片手で押さえている。
ほのかさんの横顔に、傾いた日の色が差している。りあさんがそれを撮ろうとして、「こっち向かんでいいって」と笑った。
すみれも一枚撮ろうとした。けれど、画面を出す間にほのかさんが笑ってしまい、りあさんの肩まで揺れた。写った二人は、少しぶれている。
その写真を消さずに残した。
歩いてくる人が増え、五人は橋を渡りきった。ほのかさんがりあさんのスマートフォンを借り、こちらへ声をかける。
「ねえ、みんな、ちょっと寄って。五人で撮ろうよ」
すみれは奈々子先輩の肩に触れるくらいまで寄った。りあさんがほのかさんの後ろから顔を出し、星乃先輩も隣へ入る。
「ほっしー、普通にして」
「普通が難しいんだが」
言い終わる前に、ほのかさんが撮った。
画面の中では、川も橋も少しずつしか写っていない。五人の顔は大きく、星乃先輩だけが、まだ何か言いかけていた。
写真を確かめたあとも、その場に残った。日が山の端へかかると、りあさんも話をやめた。
全部が隠れるまで、思っていたより早かった。奈々子先輩に名前を呼ばれて、すみれは振り向く。
「そろそろ行こうか」
「はい」
ほのかさんとりあさん、奈々子先輩が先に歩き始めた。星乃先輩は、少しだけ橋を見ている。
すみれは隣で待った。
「……よし。帰るか」
星乃先輩がこちらへ向いたので、すみれも前を向く。少し先の曲がり角で、三人が待っていた。
◇
足利市駅のホームへ上がる頃には、空の明るさは西の端に残るだけになっていた。
特急を待つ間、ほのかさんから五人で撮った写真が届いた。すみれも、歌碑の前の一枚を星乃先輩へ送る。
「来た」
星乃先輩は、歌碑を見ていた自分の背中をしばらく眺めていた。
列車に乗ると、すみれと奈々子先輩の席は二人並びだった。すみれが窓側へ入り、奈々子先輩が隣に座る。
通路の向こうには星乃先輩とほのかさん、その後ろにりあさんが座った。
「すみれ。歌」
通路側の星乃先輩が、イヤホンのケースを開けていた。片方を自分の耳へ入れ、もう片方をこちらへ差し出す。奈々子先輩が受け取って、すみれへ渡してくれた。
「あたしも。ちょっと待って」
ほのかさんは鞄からイヤホンを出し、星乃先輩の画面を見ながら、同じ曲を自分のスマートフォンで探している。すみれもその画面を見せてもらった。
森高千里。「渡良瀬橋」。
ほのかさんが「これだね」と言い、星乃先輩が頷く。すみれはイヤホンを耳に収め直した。反対側の耳には、閉まる扉の音が届いていた。
列車が動き始める。
初めて聴く曲なのに、歌の中に出てくる場所は、いくつも知っていた。公衆電話のガラスに映っていた通り。鳥居の先の木立。さっきまで目の前にあった川と、暮れていく空。
その景色が浮かぶたび、電話の前で立ち位置を直す星乃先輩や、風で髪を押さえるりあさんまで一緒に出てくる。ぶれた写真の中で笑っていたほのかさんも、写真の中で肩を並べた奈々子先輩も。すみれは窓の外へ目を向けた。近くの建物はもう後ろへ流れていて、遠くの空だけがなかなか動かない。
隣で、奈々子先輩が小さな袋を開けている。差し出されたのは、昼間に買った飴だった。声を出さずに頭を下げて受け取り、まだ包みのまま持っておく。
曲が終わると、車輪の音が急にはっきりした。
イヤホンを外したすみれへ、星乃先輩が顔を向ける。
「どうだった」
「好きです。……帰ってからも、聴きたいです」
「聴けるようにしとくか」
「はい。お願いします」
借りたイヤホンを返すと、星乃先輩はケースに収めた。ほのかさんも、片方のイヤホンを外している。
「なんか、もう一回、橋見たくなるね」
「今度は先に聴いてから来られますね」
「うん。そうしよ」
すみれは自分のスマートフォンを開き、届いた写真をもう一度並べて見た。五人で撮った一枚の横に、ぶれたほのかさんとりあさんがいる。歌碑も、朝の橋も、その先にあった。
「次は、どこへ行きましょうか」
すみれが言うと、ほのかさんがこちらを向いた。後ろのりあさんも顔を出す。
「今度、ご飯から決めるのもよくない?」
「いいね。あ、でも、泊まりもまたしたい」
「帰りが遅くならないところなら、日帰りでもいいぞ」
星乃先輩の声に、ほのかさんが「それ、行く場所によるでしょ」と返す。
「すみれは、どこかある?」
隣から訊かれて、すみれは写真を閉じた。
「少し、探してもいいですか」
「うん。私も見てみる」
奈々子先輩の画面に地図が開く。すみれは隣から覗き込み、自分のスマートフォンにも、同じ地図を広げた。




