第6話 じゃあ、やめる
※本話には、一部動物がつらい状況に置かれる描写があります。苦手な方はご注意ください。
◇
「何の、実験ですの?」
セレナは扉の前から動けなかった。
アルベルトは机の上へ視線を戻した。
「これ」
指先が、銀色のブローチに触れる。
「完成させられるかと思って」
「それは……王妃様が研究をおやめになったものでしょう?」
「うん」
「触ってはいけないとも言われましたわ」
「知ってるよ」
あまりにも普通に返され、セレナは言葉に詰まった。
「では、どうして?」
「母上がやめただけだから」
「同じことです!」
「違うよ」
アルベルトは少しも声を荒らげない。
「母上が完成させないことと、僕が完成させられないことは違うでしょう?」
セレナには、その違いが分からなかった。
いや。
アルベルトが何を言いたいのかは分かる。
だからこそ、理解したくなかった。
「だから、この子を使ったんですの?」
「うん」
アルベルトがうさぎを見る。
そこには罪悪感も、楽しんでいる様子もなかった。
ただ研究対象を見る目だった。
机の上には細かな文字で数字が並んでいる。
時間。
魔力の量。
石の変化。
アルベルトはもう一度、ブローチへ目を落とした。
中央の石は透明なままだった。
「……やっぱり駄目か」
「何がです?」
「反応しない」
アルベルトは記録に何かを書き加えた。
「条件が違うみたい」
セレナには何のことか分からない。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、妙な寒気がした。
アルベルト。
命を使う研究。
うさぎ。
そして、王妃がやめた魔道具。
ふいに、古い記憶が蘇った。
――そういえば。
アルベルトには弟がいた。
今は三歳のルシアン。
前の人生では、幼くして亡くなっている。
急死だったと聞いた。
その後、王妃も亡くなった。
幼い我が子を失った悲しみから体調を崩したのだと、当時は誰もがそう話していた。
セレナも疑わなかった。
王太子妃教育に追われ、詳しく知ろうともしなかった。
けれど今。
目の前にいるアルベルトを見ていると、胸の奥に嫌なものが広がっていく。
「……アルベルト様」
「なに?」
「このあと、何をするおつもりですの?」
初めて、アルベルトの視線がブローチから離れた。
「どうして?」
「分かりません」
セレナ自身、何を疑っているのか分からない。
まさかと思う。
いくら何でも、そんなはずはない。
けれど。
「これ以上、続けさせてはいけない気がします」
うさぎへ近づいた。
器具に手を伸ばす。
「何してるの?」
「外します」
「まだ終わってないよ」
「終わりです!」
思った以上に大きな声が出た。
アルベルトが瞬きをする。
「どうして?」
「この子が苦しんでいるでしょう!」
アルベルトは白いうさぎを見た。
その胸が上下するのを確認するように、しばらく眺める。
「まだ生きてるよ」
「そういう問題ではありません!」
「でも」
アルベルトは本当に分からないという顔をした。
「死なないと分からないこともある」
セレナの指先が冷たくなった。
悪意があるわけではない。
うさぎを苦しめることを楽しんでいるわけでもない。
ただ、知りたい。
それだけなのだ。
だからこそ、怖かった。
「この子が痛いのが分からないんですの?」
「分かるよ」
「だったら!」
「でも、僕は痛くない」
セレナはアルベルトを見つめた。
冗談ではない。
うさぎが痛い。
自分は痛くない。
アルベルトの中では、その二つが別々に存在している。
「命は大切です!」
「どうして?」
「どうしてって……」
「母上も薬の研究に使ってるでしょう?」
「王妃様は、こんなことなさいません!」
「何が違うの?」
セレナは口を開いた。
けれど、言葉が出てこなかった。
命は大切だから。
相手の気持ちを考えなければならないから。
そんなことを言っても、今のアルベルトには届かない気がした。
何を言えば、この子に分かるのだろう。
白いうさぎが、かすかに身じろぎした。
その姿を見て。
セレナは考えるのをやめた。
「……では、わたくしが嫌です」
アルベルトがこちらを見た。
「セレナが?」
「ええ」
「どうして?」
「この子が痛いからです」
「でも、セレナは痛くないでしょう?」
「痛くありません」
「じゃあ、どうして?」
「それでも悲しいんです」
アルベルトが黙った。
「この子が苦しんでいるのを見ると、わたくしは悲しい。アルベルト様がこの子を傷つけていることも、嫌です」
緑色の瞳が、じっとセレナを見つめる。
いつものように何を考えているのか分からない。
ただ、先ほどまでとは違って、すぐに質問は返ってこなかった。
やがてアルベルトが口を開く。
「僕がやめたら」
そこで一度、言葉を切った。
「セレナは悲しくなくなる?」
「……ええ」
「そう」
アルベルトはうさぎを見る。
それからブローチを見た。
透明な石は、何の光も宿していない。
しばらくして。
「じゃあ、やめる」
「……本当に?」
「うん」
セレナはすぐにうさぎへ駆け寄った。
慎重に器具を外し、白い身体を抱き上げる。
まだ温かい。
小さな胸も動いている。
「よかった……」
息を吐いた。
腕の中のうさぎに気を取られていたセレナは、アルベルトが何をしているのか、ほとんど見ていなかった。
アルベルトは机の上のブローチを手に取っていた。
銀の縁。
透明な石。
その表面を親指で一度なぞる。
そして、小さな箱へ戻した。
蓋を閉じる。
かちり、と音がした。
◇
王妃のもとへ戻ろうと部屋を出たところで、廊下の向こうから軽い足音が聞こえてきた。
「にいさま!」
セレナの身体が強張った。
小さな男の子が走ってくる。
柔らかな蜂蜜色の髪が跳ね、青緑色の瞳が嬉しそうに細められている。
ルシアンだった。
「にいさま!」
勢いのままアルベルトへ抱きつく。
アルベルトの身体がわずかに揺れた。
「走ると転ぶよ」
「ころばない!」
「この前、転んだでしょう」
「きょうはころばないもん」
ルシアンは気にした様子もなく、兄の手を握った。
「にいさま、いっしょにいこう!」
セレナは二人を見つめた。
前の人生では幼くして亡くなった王子。
急な病だったと聞いていた。
けれど、先ほどのアルベルトの言葉が耳から離れない。
――死なないと分からないこともある。
「はやく!」
「走らないよ」
「じゃあ、あるく!」
ルシアンがアルベルトの手を引く。
アルベルトは弟を見る。
セレナは無意識に、腕の中のうさぎを抱く手に力を込めていた。
「いいよ」
アルベルトはそう答えた。
ルシアンの小さな手を握ったまま、歩き出す。
薄い金色と、蜂蜜色。
二つの頭が並んで遠ざかっていく。
何一つ、確かなことはない。
それでもセレナは、その小さな背中から目を離せなかった。
前の人生では、もうすぐいなくなってしまう子。
今度は。
あの子も、いなくならないでほしい。




