第5話 うさぎ
※本話には、一部動物がつらい状況に置かれる描写があります。苦手な方はご注意ください。
◇
王妃の研究室に、白いうさぎがやってきた。
「まあ、可愛い!」
扉を開けたばかりのセレナは、王妃への挨拶もそこそこに窓辺へ駆け寄った。
木で作られた小さな囲いの中で、真っ白な毛のかたまりが長い耳をぴくりと動かしている。
しゃがみ込むと、今度は鼻が忙しなく動いた。
「王妃様、触ってもよろしいですか?」
「優しくね」
許しを得て、そっと背中へ触れる。
指先が沈み込むほど柔らかい。
セレナが背を撫でるたび、うさぎの耳が小さく動いた。
「こんな子、前はいませんでしたわ」
「昨日、連れてきてもらったの」
「飼われるんですの?」
「半分はね」
王妃の答えに、セレナは振り返った。
「半分?」
「薬の安全性を確かめるためでもあるのよ」
撫でていた手が止まる。
「……この子で?」
王妃はセレナの表情を見て、少し困ったように笑った。
「いきなり危険な薬を飲ませたりはしないわ。成分を調べて、安全性を確認して、それでも生き物でなければ分からないことを確かめるためよ」
王妃も隣にしゃがみ、うさぎの背中を撫でた。
「薬を作っていると、どうしても生き物の力を借りなければならないことがあるの」
白い毛の下で、小さな身体が呼吸している。
「でも、知りたいからといって何をしてもいいわけではない。必要以上に苦しませてはいけないし、必要のない命まで奪ってはいけない」
「……はい」
「研究者が知りたいと思う気持ちには、際限がないから」
最後の言葉だけ、少し違って聞こえた。
いつもの王妃なら、もう少し軽やかに笑って言いそうなものなのに。
「母上」
後ろから声がした。
振り返ると、アルベルトがいた。
いつからそこにいたのだろう。
薄い金髪は今日もきちんと整えられ、緑色の瞳が静かに王妃を見ている。
「なあに?」
「命を使わなければ完成しない研究なら?」
王妃の手が止まった。
ほんの一瞬。
けれど、すぐそばにいたセレナには分かった。
「完成することが分かっていても?」
アルベルトが重ねて尋ねる。
王妃はすぐには答えなかった。
その視線が研究室の奥へ向かう。
セレナもつられて目をやった。
以前、触れてはいけないと言われた棚だった。
壊れた結晶や、組み上がっていない魔道具。
金属片。
用途の分からない小さな器具。
その中に、銀色の小さな箱があった。
特別華美なものではない。
けれど王妃は、確かにそれを見た。
「やめるわ」
アルベルトが首を傾げる。
「完成できるとしても?」
「ええ」
「どうして?」
王妃は今度こそ、まっすぐ息子を見た。
「完成させることより、大切なものがあるからよ」
「大切なもの」
「そう」
アルベルトはしばらく王妃を見つめていた。
理解したのか、していないのか。
その顔からは読み取れない。
「……そう」
それだけ言って、いつもの椅子へ向かった。
最近のアルベルトは、セレナが研究室にいると、いつの間にか自分もそこにいる。
何かを手伝うわけではない。
大抵は本を読んでいるだけだ。
今日も棚から一冊抜き取ると、椅子に座ってページを開いた。
セレナはもう一度、銀色の箱を見る。
「王妃様。あれも魔道具ですの?」
「ええ。ずいぶん前に作りかけたものよ」
「何のための?」
王妃は少し考えてから、
「失敗作」
とだけ答えた。
「失敗作にも目的くらいあるでしょう?」
「あるけれど、もうやめた研究だもの」
王妃は立ち上がる。
「それより、今日はあなたにも手伝ってもらうわよ」
セレナもそれ以上は追及しなかった。
王妃がやめた研究。
それ以上でも、それ以下でもない。
このときのセレナにとって、銀色の箱はそれだけのものだった。
◇
数日後。
「あら?」
研究室へ入った王妃が、窓辺を見て足を止めた。
「どうなさいました?」
「いないわ」
「何がです?」
「うさぎ」
セレナも囲いを見る。
空だった。
藁と水、それから食べかけの葉だけが残されている。
「逃げたんでしょうか」
「どうかしら。朝はいたのだけれど」
王妃は囲いを調べた。
壊れているところはない。
出入口も閉じられている。
「誰かが連れ出したのかしらね」
それほど心配している様子ではなかった。
世話をする侍女もいる。
研究を手伝う者も出入りする。
誰かが連れていった可能性はいくらでもある。
セレナもそう思った。
けれど。
研究室を見回す。
いつもなら窓辺の椅子にいるはずの姿もなかった。
「アルベルト様は?」
「今日はまだ見ていないわね」
胸の奥が、ざわついた。
なぜその二つを結びつけたのか、自分でも分からない。
「少し探してきます」
「うさぎを?」
「はい」
「見つからなかったら戻っていらっしゃい」
「分かりました」
研究室を出る。
近くにいた侍女に聞いてみたが、誰もうさぎを知らなかった。
庭にもいない。
薬草園にも。
セレナは次第に王宮の奥へ進んでいた。
行く当てがあるわけではない。
それでも、なぜか研究室へ戻る気にはなれなかった。
普段ほとんど使われていない廊下まで来たところで、足が止まった。
かたり。
小さな音がした。
古い物置が並ぶ一角だった。
もう一度。
今度は、何か硬いものが触れ合う音。
セレナは一番奥の扉へ近づいた。
「……アルベルト様?」
返事はない。
取っ手へ手をかける。
扉は鍵がかかっていなかった。
ゆっくりと押し開ける。
「――」
セレナは、その場に立ち尽くした。
アルベルトがいた。
小さな机の前に座っている。
その傍らに、探していた白いうさぎが横たわっていた。
身体には細い器具が取り付けられ、その先から何本もの線が伸びている。
胸は上下している。
生きている。
けれど、研究室で元気に跳ねていた姿とはまるで違った。
アルベルトは紙に何かを書いていた。
そして。
机の中央に置かれていたものを見て、セレナは息を呑んだ。
銀色の箱が空いている。
そこに置かれているのは銀色のブローチ。
王妃の研究室にあったものだった。
触れてはいけないと言われていた、未完成の魔道具。
その傍らで、白いうさぎが力なく横たわっている。
「……何を、しているんですの?」
アルベルトが振り返った。
驚いた様子はなかった。
見つかったことに焦る様子もない。
緑色の瞳が、静かにセレナを映す。
「実験」
ただ、それだけを答えた。




