第4話 勉強とは別のこと
王妃の研究室は、セレナが想像していたものとは随分違っていた。
もっと整然としていると思っていたのだ。
棚には本がびっしりと並んでいる。
そこまではいい。
問題は、その隙間という隙間に置かれた瓶だった。
透明な液体。
濁った緑色の液体。
乾燥した葉。
何かの根。
小さな種。
窓辺には鉢植えが並び、机の上には見たことのない器具まで置かれている。
「……すごい」
思わず呟いた。
「あら、気に入った?」
「よく分かりません」
「正直ね」
王妃は楽しそうに奥へ進んでいく。
セレナも後を追いながら、辺りを見回した。
机の端では、小さなガラス容器の下に淡い青色の光が灯っている。
「王妃様、これは?」
「保温用の魔道具よ」
王妃が何でもないように答える。
「火を使うと温度が安定しないでしょう? 薬液を一定の温度に保つために作ったの」
「作った?」
「ええ」
セレナは王妃と魔道具を交互に見た。
「王妃様がお作りになったんですの?」
「そうよ」
初耳だった。
前の人生で、王妃が研究をしていたことすら詳しく知らなかった。
まして魔道具まで作っていたなんて。
隣には、透明な板に細い線がいくつも刻まれたものがある。
「こちらは?」
「植物に含まれる魔力の強さを見るもの。まだ誤差が大きいのだけれど」
その奥には鋼色の箱。
「これは?」
「保存用」
王妃が蓋を開けた。
中には葉が何枚か並んでいる。
どれも今摘んできたばかりのように瑞々しい。
「薬草は採取した瞬間から変質するものも多いの。だから、できるだけ採取時の状態を保つための魔道具よ」
「便利ですわね」
王妃は頷いた。
「とても高いけれど」
セレナはそっと蓋を閉じた。
「大切に扱いますわ」
「そうしてちょうだい」
王妃が笑う。
さらに奥の棚には、用途の分からないものが雑多に置かれていた。
石。
金属片。
割れた結晶。
鎖のようなもの。
途中まで組み立てられた小さな器具。
セレナが近づこうとすると、
「ああ、そっちは駄目」
王妃に止められた。
「触らないでね」
「危険なんですの?」
「失敗作と、途中で放り出したものばかりだから」
王妃はさらりと言った。
「何が起こるか、私にも分からないわ」
セレナは一歩下がった。
王妃が笑う。
「賢明ね」
「どうしてそんなものを置いておくんですの?」
「いつか続きを思いつくかもしれないでしょう?」
セレナには理解できない。
失敗したなら片づければいい。
役に立たないなら捨てればいい。
そう思った。
けれど、王妃にとっては違うらしい。
「王妃様は、お薬の研究をなさっているのでは?」
「薬も、ね」
「魔道具も?」
「面白そうなら何でも」
王妃は当然のように答えた。
「植物も好きだし、薬も好き。魔道具も面白いわ。どうして一つに決めなくちゃいけないの?」
セレナは答えられなかった。
どうして。
考えたこともない。
勉強にはいつも目的があった。
歴史は国政のため。
語学は外交のため。
礼法は王家の威信を損なわないため。
学ぶものは、自分が選ぶものではなかった。
「面白そうだから……」
セレナが呟く。
「立派な理由でしょう?」
「……そうでしょうか」
「私はそう思うわ」
王妃は机の上から乳鉢を一つ取り出した。
そして、何枚かの葉を中へ放り込む。
「はい」
乳棒を差し出された。
「何ですの?」
「すり潰して」
「わたくしが?」
「やってみるのでしょう?」
いつの間にそんな話になったのだろう。
けれどセレナは乳棒を受け取った。
◇
「硬いですわ」
「もっと力を入れて」
「入れています!」
「全然」
「六歳ですのよ、わたくし!」
「あら、そうだったわね」
ごりごりと薬草を潰す。
青臭い匂いが強くなっていく。
最初は嫌だった。
腕は疲れるし、葉はなかなか潰れない。
けれど形がなくなり、少しずつ濃い緑色へ変わっていくのを見ていると、不思議と面白くなってきた。
「できました!」
「まだ」
「えっ」
「もう少し」
「……王妃様は厳しいですわ」
「研究に妥協は禁物よ」
王妃は真顔だった。
セレナは仕方なく、また乳棒を動かした。
その後、潰した薬草を別の液体と混ぜることになった。
「これを入れて」
「どのくらいですの?」
「そのくらい」
「そのくらいでは分かりません」
「適当でいいわよ」
「研究に妥協は禁物なのでは!?」
「あら、よく覚えていたわね」
「ついさっきです!」
王妃が笑った。
セレナは呆れながら液体を注いだ。
ぽたり。
ぽたり。
少しずつ。
色が変わる。
深い緑から、茶色へ。
それから。
妙な匂いがした。
「……王妃様」
「何?」
「臭くありません?」
王妃も鼻を寄せる。
次の瞬間。
二人同時に顔をしかめた。
「窓!」
「はい!」
セレナは椅子から飛び降りた。
王妃も慌てて反対側の窓へ向かう。
二人で窓を開け放つ。
春の風が勢いよく入り込み、研究室にこもった匂いを外へ押し流していった。
「……失敗ね」
王妃が言った。
セレナは息を切らしながら振り返った。
「適当でいいとおっしゃったではありませんか!」
「だから失敗したのかしら」
「王妃様!」
また笑われた。
セレナも怒っていたはずなのに。
気づけば、笑っていた。
何の役にも立たなかった。
薬はできなかった。
腕は疲れた。
部屋は臭くなった。
今日覚えたことが、将来何の役に立つのかも分からない。
なのに。
楽しかった。
そのことが、セレナには少し不思議だった。
◇
「またやる?」
帰り際、王妃に聞かれた。
セレナは答える前に少し考えた。
何になるのか。
何の役に立つのか。
いつものように考えかけて。
「はい」
答えていた。
「またやりたいです」
「そう」
王妃はそれ以上何も言わなかった。
ただ、少し嬉しそうに笑った。
研究室を出て廊下を歩いていると、向こうから小さな人影がやってきた。
薄い金髪。
緑色の瞳。
アルベルトだった。
セレナは一瞬だけ身構える。
けれどアルベルトは気にした様子もなく、セレナの前で足を止めた。
「セレナ」
「ごきげんよう、アルベルト様」
「今日は何しに来たの?」
「王妃様のお手伝いですわ」
「何したの?」
「薬を作りました」
少し考える。
「……失敗しましたけれど」
「そう」
アルベルトは頷いた。
それだけだった。
やはり自分に会いに来たのかとも聞かない。
婚約が保留になったことについても何も言わない。
「では、失礼いたします」
「うん」
セレナは横を通り過ぎた。
数歩進んでから、
「セレナ」
また呼ばれた。
振り返る。
「何ですの?」
「臭いよ」
「…………」
セレナは自分の袖を嗅いだ。
薬草と、あの失敗した薬の匂いがしっかり染みついている。
顔が熱くなった。
「知っていますわ!」
「そう」
「言わなくてもよろしいでしょう!」
アルベルトは首を傾げた。
「どうして?」
セレナは口を開き。
閉じた。
前のお茶会で王妃が同じことを説明していた気がする。
「……もう結構です!」
踵を返して歩き出す。
後ろから追いかけてくる気配はなかった。
当然だ。
アルベルトに会いに来たわけではない。
婚約だって、もう決まっていない。
これから王宮へ来るとしても、目的は王妃だ。
アルベルトは、たまたまそこにいるだけ。
それでいい。
セレナはそう思った。
このときは、まだ。




