第3話 何にもならなくても
婚約は、なくなった。
正確には、保留になった。
あまりにも簡単に。
「……保留、ですか?」
「ああ」
父はそう言って、いつものように紅茶を一口飲んだ。
セレナは父と母の向かいに座ったまま、何度か瞬きをした。
王宮でのお茶会から数日。
呼ばれたときには、てっきり叱られるのだと思っていた。
礼は適当に済ませた。
王太子より先に菓子を取り、それも四つも食べた。
勉強が嫌いだと言った。
礼儀作法も嫌いだと言った。
最後には、王太子妃教育など絶対にしたくないとまで言い切った。
前の人生の自分なら、卒倒していたかもしれない。
けれど、すべてわざとだ。
アルベルトに嫌われるため。
王家から、王太子妃には相応しくないと思われるため。
だから婚約がなくなるのは、望んでいた通りのはずだった。
「王妃陛下とも話した」
父が続ける。
「もともと、王家から望まれるのであれば、お前を王太子妃候補として育てるつもりだった。だが、お前が望んでいないのなら話は別だ」
「でも……」
「将来、お前とアルベルト殿下の双方が望むなら、そのとき改めて考えればいい」
父の声は穏やかだった。
「今決める必要はないだろう」
「……それで、よろしいんですの?」
思わず尋ねると、父が眉を上げた。
「お前は嫌なのだろう?」
「それは……はい」
「なら、いいじゃないか」
それで話は終わった。
セレナは呆然とした。
前の人生で十数年もの間、自分を縛り続けたもの。
王太子の婚約者。
未来の王太子妃。
それに相応しくあらねばならないという重圧。
朝から晩まで続いた教育も、失敗してはいけないという緊張も、すべてそこから始まった。
あんなにも大きかったものが。
今は。
――嫌なら、しなくていい。
それだけで消えてしまった。
「セレナ?」
母に呼ばれ、顔を上げる。
「嬉しくないの?」
「……嬉しいです」
そのはずだった。
望んでいた通りなのだから。
それなのに。
自室へ戻っても、妙な落ち着かなさは消えなかった。
机の前に座る。
何も置かれていない机。
前の人生なら、ここには教本が積み上げられていた。
王国史。
周辺諸国の歴史。
礼法。
語学。
音楽。
王家の系譜。
覚えることはいくらでもあった。
次に何をすればいいのか、迷ったことなどない。
いつだって、やらなければならないことがあったから。
けれど今は。
「……何をすればいいのかしら」
誰も答えてはくれなかった。
◇
「何がしたいの?」
数日後。
王妃はあっさりと尋ねた。
「……はい?」
「せっかく時間ができたのでしょう?」
王妃は庭を歩きながら、楽しそうに言った。
「何かやってみたいことはないの?」
「やってみたいこと……」
セレナは足を止めかけた。
まただ。
答えられない。
「勉強でしたら」
「勉強がしたいの?」
「いえ」
「じゃあ、どうして勉強なの?」
セレナは黙った。
王妃は急かさない。
春の風が二人の間を抜けていった。
「……必要だからですわ」
ようやく答える。
「何に?」
「何に、とは……」
王太子妃になるため。
そう言いかけて、口を閉じた。
もう、その必要はない。
「では、刺繍は?」
「王族の女性として――」
そこでも止まる。
「語学」
「外交のために」
「歴史」
「国政を理解するため……」
答えるたびに、王妃が少し笑う。
セレナはだんだん居心地が悪くなった。
「王妃様」
「なあに?」
「わたくしをからかっていらっしゃいます?」
「少しだけ」
「王妃様!」
王妃が声を上げて笑った。
前の人生で遠くから見ていた王妃とは、随分印象が違う。
もっと静かで、近寄りがたい人だと思っていた。
けれど実際にはよく笑う。
そして、思ったことをかなりはっきり口にする。
――アルベルト様は、王妃様に似たのかしら。
一瞬そう思って、すぐに否定した。
あれは少し違う気がする。
「それで?」
王妃が尋ねる。
「セレナがしたいことは?」
また答えられなくなった。
長い沈黙のあと、セレナは小さく言った。
「……分かりません」
「そう」
「おかしいでしょうか」
「どうして?」
「自分のことなのに、分からないなんて」
王妃は少し考えた。
それから、さも簡単なことのように言った。
「分からないなら、いろいろやってみればいいじゃない」
「いろいろ?」
「やってみて、つまらなければやめればいいのよ」
セレナは目を瞬いた。
「やめてもいいんですの?」
「嫌なのに続ける必要がある?」
まただ。
この人と話していると、ときどき今まで自分が信じていたものが、ひどく簡単にひっくり返される。
「でも、それでは何にもならないかもしれません」
「何にもならなくてもいいじゃない」
王妃は笑った。
「楽しいかもしれないでしょう?」
その考え方は、セレナにはよく分からなかった。
何の役にも立たないことをする。
何にもならないかもしれないことに時間を使う。
そんな時間が、自分にあっただろうか。
「ちょうどいいわ」
王妃が立ち止まった。
「今日は私の研究室にいらっしゃい」
「研究室?」
「そう。まずは一つ目ね」
何が一つ目なのか分からないまま、セレナは王妃についていった。




