第25話 アルベルトとの結婚
結婚しようと決めてから、そう日は経っていない。
王都から少し離れた、小さな教会。
王族の婚礼が行われる場所としては、あまりにも慎ましかった。
高い天井も、長い赤絨毯もない。
何百人もの貴族が並ぶ席も、王家の紋章を掲げた豪華な装飾もない。
白い壁。
古い木の長椅子。
色硝子を通して差し込む、春の柔らかな光。
祭壇の周りには月白草が飾られていた。
風が入るたび、淡い白の花がかすかに揺れる。
控えの間では、最後の支度が整おうとしていた。
侍女が髪に白い小花を挿し、慎重に角度を確かめる。
「いかがでしょう、奥様」
母はすぐには答えなかった。
鏡の中のセレナを、じっと見ている。
「……綺麗ね」
声が少しだけ掠れていた。
「泣いていらっしゃるの?」
「まだ泣いてないわ」
母が笑った。
侍女たちも、つられるように小さく笑う。
今日は髪を結い上げていない。
柔らかく波打たせた髪を背中へ流し、白い小花をいくつか散らしている。
ドレスも華美なものではなかった。
王家の宝石も、重い刺繍もない。
柔らかな白い布地に、ごく細い刺繍だけ。
「気に入っていますの」
「ええ。セレナらしいわ」
母の手が伸びた。
整えられた髪には触れず、頬をそっと撫でる。
「十七年なんて、あっという間ね」
「そうです?」
「あなたはそうでしょうね」
母は少し笑って、手を離した。
その目がまた潤んでいる。
セレナは何となく目を逸らして、鏡へ戻した。
白いドレスの自分。
その後ろに、母がいる。
ただそれだけの光景を、しばらく見ていた。
扉が叩かれた。
「入ってもいい?」
王妃の声だった。
「どうぞ」
扉が開く。
入ってきた王妃はセレナを見るなり、足を止めた。
「まあ」
母が少しだけ得意そうに笑う。
「綺麗でしょう?」
「ええ、とても」
王妃はセレナの前まで来ると、上から下まで眺めた。
「本当にこれでいいの?」
「これがいいんですの」
「もっと盛大にもできるのよ」
「後日、夜会はするのでしょう?」
「それはするけれど……」
王妃はまだ何か言いたそうだった。
「王族の婚礼で、ここまで小さい式は前代未聞よ」
今日ここに招いたのは、本当に身内だけだった。
国王と王妃。
ルシアン。
父と母。
あとは神父と、最低限の付き人だけ。
人が多いのは嫌だとアルベルトが言った。
セレナにも異論はなかった。
今日ここにいてほしい人は、みんないる。
それで十分だった。
「それにしても、ずいぶん急いだわね」
王妃が言った。
「そうでしょうか」
「婚約期間すらなかったのよ?」
そう言われれば、確かにそうだ。
結婚しようと決めて。
そのまま、結婚することになった。
「アルベルトなんて、翌日には日取りを持ってきたのよ」
「……翌日?」
「最短でいつ式を挙げられるか調べて、必要な手続きまで全部揃えて」
「まあ」
「待つ理由がない、ですって」
声まで簡単に想像できた。
セレナは思わず笑う。
「アルらしいですわね」
「あなたも大概よ。止めなかったんだから」
母まで頷いている。
「お母様まで」
「だって本当でしょう?」
「そうですけれど」
「十七歳で結婚したいと言い出したと思ったら、あっという間だったもの」
母は呆れたように言いながらも、どこか楽しそうだった。
セレナは鏡へ目を戻した。
白いドレス。
下ろした髪。
王太子妃になるための婚礼衣装ではない。
ただ、自分が選んだもの。
ふと、可笑しくなった。
私は結婚する。
私を処刑台に送った男と。
あまりにも、おかしな話だ。
一度目のアルベルトは、自分を見ていなかった。
婚約者だから隣にいる。
いずれ王太子妃になるのだから、国のために働く。
セレナが何を望んでいるのか。
何を嫌がっているのか。
そんなことを考えようともしなかった。
最後には、セレナの言葉を信じることすらなく、処刑台へ送った。
あの日の自分に今の姿を見せたら。
きっと、信じない。
けれど。
昨日会ったばかりなのに、今日も会いたいとやって来る人を知っている。
不安になれば、何も言わずそばに寄ってくる人を知っている。
自分が選ばれたことを、泣きそうなほど喜んだ人を知っている。
同じアルベルトだ。
過ぎたことが、なかったことになるわけではない。
それでも。
今、自分が結婚したいのは。
今のアルベルトだった。
「わたくしも、待つ理由がありませんもの」
ぽつりとこぼす。
王妃が鏡越しにセレナを見た。
母も何も言わなかった。
やがて、王妃が笑う。
「本当に似た者同士ね」
そのとき。
扉の向こうで、足音が止まった。
三人ともそちらを見る。
「まだ?」
セレナは吹き出した。
王妃の眉間に皺が寄る。
「アルベルト。入ってきたら怒るわよ」
「入らないよ」
「だったら向こうで待っていなさい」
足音は動かない。
母が口元を押さえている。
王妃は完全に呆れていた。
セレナは扉を見た。
「アル」
それだけ呼ぶ。
しばらくして。
「……分かった」
足音が遠ざかっていく。
母がとうとう笑った。
「本当にあなたの言うことは聞くのね」
母がセレナの前へ回った。
ドレスの裾を確認し、ほんの少しだけ整える。
それから顔を上げた。
「行きましょうか」
「はい」
セレナは立ち上がった。
母が手を差し出す。
その手を取って、一歩踏み出す。
扉の前で、ふと足が止まった。
緊張しているのだろうか。
自分でもよく分からない。
胸の奥が、先ほどから落ち着かなかった。
母の指が、セレナの手を一度だけ握った。
何も言わない。
セレナも何も言わなかった。
扉が開く。
春の光が差し込んだ。
その向こうに。
アルベルトが待っていた。




