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私を処刑した王子を6歳から矯正してみます  作者: すなな


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第23話 こぼれた不安

鐘の音が遠ざかっても、セレナは答えられなかった。


幼馴染。

王太子。

家族のような人。

どれも間違ってはいない。

けれど、どれもしっくりこなかった。


「……ごめん」


先に口を開いたのはアルベルトだった。


「どうして謝りますの?」

「困らせたから」

「困っているというより……」


分からないのだ。

アルベルトが、自分にとって何なのか。

考えれば考えるほど、簡単な言葉では足りない気がした。

向かいに座るアルベルトが、窓の外へ視線を移す。

しばらく黙っていたかと思えば。


「僕、王太子をやめようと思ってる」

「……はい?」


あまりに唐突で、今度は言葉そのものの意味が分からなかった。


「第一継承権を、ルシアンに譲りたい」

「ちょっと待ってくださいませ」

「うん」

「王妃様は?」

「まだ知らない」

「陛下は?」

「話してない」

「では、どなたかに相談を?」

「してないよ」


アルベルトがセレナを見る。


「セレナが最初」


胸が、ひとつ大きく鳴った。


「なぜ、わたくしに……」

「最初に言いたかったから」


それだけ。

けれど、あまりにも当然のように言われて、セレナは続きを聞けなくなった。


「どうして、王太子を?」

「ルーを見てたら、ずっと思ってたんだ」

「ルシアン様を?」

「うん」


アルベルトは背もたれに身体を預けた。


「あいつ、人が好きなんだよね」


十四歳になったルシアンは、誰とでもよく話す。

身分に関係なく人の名前を覚え、誰かが困っていれば自然に手を貸す。

今回の流行り病でもそうだった。


「誰かが苦しんでたら放っておけない。泣いてたら気になるし、喜んでたら自分も嬉しそうにする」

「それは、ルシアン様の長所ですわ」

「うん」


アルベルトは小さく頷いた。


「あいつの方が、王に向いてると思う」

「そんなこと――」

「セレナ」


静かな声に、言葉が止まった。


「僕は頭も悪くないし、王太子として必要なことは一通りできると思う」

「一通りどころではありませんわ」

「でも、それだけじゃ駄目だと思うようになった」


アルベルトは膝の上で指を組んだ。


「あのうさぎ、覚えてる?」


セレナの表情が変わる。

六歳の頃。

小さな白いうさぎ。


「……覚えています」

「あのとき僕、本当に分からなかったんだ」


声は淡々としていた。


「うさぎが痛いことが、どうして僕がやめる理由になるのか」


セレナは何も言わなかった。


「苦しそうにしてるのを見るのが、楽しいとさえ思ってた」

「アル……」

「あのままだったら、うさぎだけじゃ足りなくなってたかもしれない」

「そんなこと――」

「あったかもしれないよ」


自分を責めているようには聞こえなかった。

ただ、六歳だった自分を振り返っている。


「今は、人が泣いてたら悲しいんだって分かる。傷つければ苦しいことも分かる。自分が何をすれば、相手がどう感じるのかも考えるようになった」


一度、言葉を切る。


「でも、考えないと分からないことがある」


アルベルトは窓の外を見る。


「ルーは、考える前に分かる」

「……」

「僕は、人が悲しんでいる理由を考えることはできる。どうすれば喜ぶのかも学んだ。王として振る舞うことだって、たぶんできる」


夕暮れの光が、横顔に差している。


「でも、何万人もの人生を預かるなら」


アルベルトは静かに言った。


「僕より、あいつの方がいい」

「そんなことありませんわ」


今度は、セレナが遮った。


「だって今、アルは国の人たちのことを考えて、王位を譲ろうとなさっているのでしょう?」


アルベルトがセレナを見る。


「ご自分が王になりたいかではなく、誰が王になった方が国のためになるのかを考えていらっしゃる」


セレナは身を乗り出した。


「それを、人の心が分からない方が考えますの?」


しばらく、アルベルトは何も言わなかった。

やがて、ゆっくり首を振る。


「セレナは僕を買いかぶりすぎだよ」

「アル?」

「僕は、やっぱり分からないよ。人に興味がない」


静かな声だった。


「王都でたくさんの人が病気になった。助けなきゃいけないことは分かるし、そのために何をすればいいかも考えられる」


視線が落ちる。


「でも、一人ひとりの顔を思い浮かべて心配してるわけじゃない」

「それは――」

「ルーは違う」


アルベルトは言った。


「あいつは、知らない人が苦しんでてもかわいそうだと思える」


膝の上で組んでいた指が、少し強く絡む。


「僕が気になるのは」


視線が上がった。


「セレナだけだよ」


息が止まりそうになった。


「セレナが嫌がったから、嫌がることはしちゃいけないって覚えた。セレナが笑うと嬉しいから、どうすれば人が喜ぶのか考えるようになった。セレナが悲しそうにすると嫌だから、傷つけない方法を考えるようになった」


一つずつ。

自分自身を確かめるように。


「結局、僕はずっとセレナを基準にしてるだけなんだよ」

「アル……」

「だから」


そこで声が揺れた。


「セレナが僕以外の誰かを好きになったら、どうしたらいいのか分からない」


アルベルトが俯く。


「僕以外の人と結婚してほしくない。僕の知らないところに行ってほしくない」


セレナは何も言えなかった。


「でも、そんなこと言える立場じゃないでしょう?」


少しだけ笑った。

ひどく頼りない笑い方だった。


「婚約者でもない。恋人でもない」


昨日までなら。

それでも構わなかったのかもしれない。

ずっと近くにいられれば、それで。


「なのに、セレナがいなくなるかもしれないって思うと」


声が掠れた。


「苦しくなるんだよ」


アルベルトが息を吸う。


「怖いんだ」


ぽたりと。

組んだ手の上へ、涙が落ちた。

アルベルトは拭おうとしなかった。


「王太子じゃなくなって」


もう一滴。


「セレナまでいなくなったら」


唇を噛む。


「僕には、何もない」


セレナは動けなかった。

アルベルトはふわりと笑った。


「セレナが、好き」


涙をポロポロと流しながら微笑む。

そして絞り出すように言った。


「大好き」


アルベルトが泣くところなら、何度も見たことがある。


幼い頃は、思い通りにならなくて泣いた。

寂しいとくっついてきたこともある。


けれど、今は違った。


何も求めてこない。

抱きついてもこない。

撫でてほしいと頭を差し出すこともしない。

ただ、俯いて泣いている。


それを見ていたら。

考えるより先に、身体が動いた。


セレナは向かいの席から立ち上がった。


馬車が揺れる。

身体が傾いた。

それでも構わず、アルベルトの隣へ腰を下ろす。


そして。

何も言わず、抱きしめた。


「……」


腕の中で、アルベルトが固まる。

いつもとは逆だった。


隣へ来るのも。

肩に頭を乗せるのも。


後ろから抱きつくのも。

いつもアルベルトだった。


セレナは、それを受け入れるだけ。

なのに今は、自分から腕を回している。


なぜ。


かわいそうだから?

泣いているから?


十年以上、一緒にいるから?


どれもしっくりこない。


ただ。

離したくなかった。


アルベルトの腕が、ゆっくり上がった。

けれど、セレナの背中に触れる直前で止まる。


「……僕も、いい?」


胸が跳ねた。


今まで、そんなことを聞いたことなどなかったのに。


セレナは答えなかった。

代わりに、アルベルトの服を少し強く掴んだ。


それを返事だと思ったのだろう。

背中へ、そっと腕が回る。


いつもの抱擁とは違った。

甘えるようでもない。


当たり前のように触れてくることもない。

大切なものを確かめるように、静かだった。


「……セレナ」


耳元で名前を呼ばれる。

それだけなのに、心臓がうるさい。


――セレナにとって、僕って何?

答えられなかった。


幼馴染。

王太子。

家族のような人。

どれも間違ってはいない。

でも。

どれも、今のこの気持ちには足りない。

セレナはアルベルトの胸元へ、そっと額を寄せた。


答えは、まだ分からない。

ただ。


アルベルトがいなくなるところを想像したら。

胸が苦しくなった。





馬車が公爵邸へ着いた頃には、辺りは薄暗くなっていた。

先に降りたアルベルトが、セレナへ手を差し出す。

いつもなら何も考えず取る手なのに。

今日は一瞬だけ躊躇った。


「セレナ?」

「……何でもありませんわ」


その手を取る。

触れた指先が、妙に熱い。


「本当に、王太子をおやめになるの?」

「うん。そのつもり」

「そう……」


驚くほど、嫌ではなかった。

アルベルトが王太子ではなくなる。

前なら、考えられなかったはずなのに。

今は。

先ほど腕の中で泣いていた人の方が、ずっと気になった。


「では」


セレナは歩きながら尋ねた。


「王太子でなくなったら、何がしたいです?」

「え?」

「何かあるでしょう?」


アルベルトはしばらく考えた。


「……分からない」


珍しく、頼りない答えだった。

生まれた瞬間から、王になることが決まっていた。

その先を考える必要などなかったのだろう。


「では、考えましょう」

「何を?」

「やりたいことを」


アルベルトがセレナを見る。


「一緒に?」

「もちろん」


答えてから、セレナは首を傾げた。


「なぜそんな顔をしていますの?」

「……嬉しいなと思って」


アルベルトが笑った。

泣いたあとの目元が、まだ少し赤い。

その顔を見た瞬間。

また、胸が跳ねた。

セレナは慌てて前を向いた。

西門のそばを通ったところで、甘い香りがした。


「あ」


花壇に、月白草が咲いている。


「ここにもあるんだ」

「去年、植えたんですの」

「セレナが?」

「ええ」


二人で花壇へ寄った。 

夕闇の中で、白い花だけが淡く浮かんでいる。

アルベルトが一輪へ手を伸ばした。

けれど。

摘む直前で、指を止める。


「やめた」

「どうして?」

「残しておこう」


セレナは月白草を見て、少し笑った。


「ええ。また見に来ましょう」

「来年?」

「来年も」

「その次は?」


セレナが笑う。


「その次も」


アルベルトは何も言わなかった。

月白草ではなく、セレナを見ている。

その視線に気づいて、セレナも顔を上げた。

目が合う。

今日はなぜか、すぐには逸らせなかった。

王太子と、その婚約者ではない。

今の二人には、婚約すらない。


そしてアルベルトは、王太子であることまで手放そうとしている。

それなのに。


今の方が、ずっと近かった。

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