第22話 アルベルトの憂鬱
ヴァレン商会を出ると、迎えの馬車がすでに待っていた。
御者が扉を開ける。
セレナが先に乗り込み、その向かいにアルベルトが腰を下ろした。
扉が閉まる。
ほどなく馬車が動き出した。
「疲れました?」
「ちょっと」
アルベルトの肩から、ふっと力が抜ける。
「先ほどまで完璧でしたのに」
「外だからね」
「今も外ですわよ」
「セレナしかいないからいいの」
いつものアルに戻っている。
セレナは少し笑った。
手元へ目を落とす。
ヴァレン商会でもらった月白草。
窓の外では、商業区の建物の向こうへ陽が傾き始めていた。
馬車が角を曲がる。
開いた窓から風が入り、白い花弁が揺れた。
ふわりと、甘い香りがする。
「月白草の香りが強くなってきましたわ」
セレナは花を少し持ち上げた。
「やっぱり、この時間の香りが好きです」
「……そう」
アルベルトの視線が、月白草へ落ちる。
「捨ててとは言わないんですのね」
「言わないよ」
「意外ですわ」
「僕だって、それくらい我慢できる」
「気にしてはいるんですのね」
「気にするよ」
「ただのお花ですわ」
「誰にもらったかが問題なんだけど」
セレナは少し笑った。
「何?」
「いいえ」
「笑ったでしょう」
「笑っていませんわ」
「笑った」
いつものやり取り。
なのに、アルベルトはうまく笑えなかった。
商会で向かい合っていた二人が、頭から離れない。
セレナが尋ねれば、レオンはすぐに答えた。
レオンが話せば、セレナはまた次を尋ねる。
妙に、話が合っていた。
あいつは、きっとセレナを好きになる。
根拠なんてない。
ただ、そんな気がした。
そして、もっと嫌なのは。
セレナも、ああいう男に惹かれるかもしれないと思ったことだった。
「アル?」
「何?」
「先ほどから、ぼんやりしていますわよ」
「考えてた」
「何を?」
アルベルトは答えず、窓の外を見た。
流れていく街並み。
少し前まで人影の少なかった通りにも、ようやく人が戻り始めている。
「あいつ、仕事できるでしょう」
「レオン様?」
「うん」
「ええ。とても」
即答だった。
「話しやすかった?」
「そうですわね。こちらの意図をすぐに汲んでくださるので、とても話が早かったです」
「……そう」
「アルも、お仕事では随分違いますのね」
「僕?」
「はい。今日は少し驚きました」
「変だった?」
「いいえ」
セレナは首を振った。
「王太子らしかったですわ」
「……そっか」
アルベルトは再び窓の外を見る。
王太子らしかった。
褒められたはずなのに、その言葉が妙に胸に残った。
馬車が小さく揺れる。
セレナの手の中で、白い花も揺れた。
「……盗られそう」
「はい?」
「セレナが」
セレナが目を瞬く。
「誰にです?」
「ああいうやつ」
「レオン様?」
「うん」
「どうしてそうなりますの?」
「分からない」
本当に分からない。
ただ、そう思ってしまった。
「わたくしは物ではありませんわ」
「分かってるよ」
「でしたら、盗るも盗られるも――」
「でも」
アルベルトはセレナを見る。
「僕たち、婚約者じゃないでしょう」
セレナの言葉が止まった。
六歳のあの日、婚約しないと決めた。
それでよかった。
セレナが嫌がるものを、もう押しつけたくなかった。
でも。
では今、自分は何なのだろう。
「セレナ」
「はい」
「僕って」
言葉が止まった。
聞くのが、少し怖かった。
「セレナにとって、何?」
ちょうどそのとき、遠くで夕刻の鐘が鳴り始めた。
セレナは答えなかった。
馬車の車輪の音だけが、二人の間を埋めていく。
手の中の月白草から、甘い香りがしていた




