第20話 変わった未来
対策を始めて四日目。
「減ってる」
アルベルトの指が、数字の上で止まった。
セレナはすぐ隣へ寄った。
「昨日より?」
「うん」
新しく症状が出た人数が、初めて前の日を下回っていた。
一日だけ。
まだ安心はできない。
それでも、セレナの肩から少し力が抜けた。
「セレナ様」
振り返る。
公爵家の侍女が、研究室の入り口に立っていた。
息を切らしている。
その顔を見た瞬間。
「奥様が、今朝から熱を出されております」
指先が冷たくなった。
◇
馬車の中で、セレナは一言も話せなかった。
「咳は?」
アルベルトが侍女へ尋ねる。
「少しございます」
「呼吸は?」
「今のところ問題ないと、お医者様は」
「薬は?」
「すでにいただいております」
「そう」
馬車が揺れる。
窓の外を、見慣れた王都の景色が流れていく。
前も、最初は熱だけだった。
膝の上で握りしめていた手に、温かいものが触れた。
アルベルトだった。
何も言わず、指を包んでいる。
セレナはその手を握り返した。
◇
「お母様」
「あら、セレナ」
声が返ってきた。
母は寝台の上で笑っていた。
頬が赤い。
時折、小さく咳をする。
「そんな顔をしないでちょうだい」
セレナは寝台のそばへ行き、母の手を取った。
熱い。
息が止まりそうになった。
「セレナ?」
「お医者様は何と?」
「今のところ、重い症状はないそうよ」
「お薬は?」
「いただいたわ」
「いつ?」
「朝に一度」
「次は?」
「セレナ」
熱い手が、頬に触れた。
「落ち着きなさい」
「……嫌です」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
母の手を握る指に、力が入った。
「セレナ」
後ろからアルベルトが呼んだ。
「薬を確認してくる。母上にも連絡するよ」
「……はい」
「必要なら、王宮から医師も呼ぶ」
扉が閉まった。
セレナは椅子に座った。
薬はある。
医師もいる。
それでも、母の手を離せなかった。
◇
熱は三日続いた。
アルベルトは毎日来た。
朝、公務へ向かう前に。
夜、公務を終えてから。
「今日は?」
「まだ熱があります」
「そう」
大丈夫とも。
きっと治るとも言わなかった。
ただ隣に座った。
セレナも、それでよかった。
四日目の朝。
「セレナ」
声に目を開けた。
「お母様?」
「お腹が空いたわ」
「……え?」
「昨日のスープ、まだあるかしら」
セレナは母の額に手を当てた。
もう、熱くない。
「お母様」
「なあに?」
「熱が……」
もう一度触れる。
やっぱり熱くない。
母が笑った。
「よかったわ。寝ているのも飽きたところなの」
その顔が、滲んだ。
「セレナ?」
「なんでもありません」
「なんでもない顔じゃないでしょう」
母の手が伸びる。
髪を、ゆっくり撫でられた。
「……よかった」
それだけで精一杯だった。
◇
部屋を出ると、廊下にアルベルトがいた。
壁に背を預けて、本を読んでいる。
「アル」
すぐに顔が上がった。
「熱、下がりました」
「うん」
「お腹が空いたって」
「よかった」
アルベルトが笑った。
それを見たら、また泣きそうになった。
「……間に合いました」
声が震える。
「今回は、間に合ったんです」
アルベルトは何も聞かなかった。
ただ、そこに立っていた。
セレナは一歩近づいた。
もう一歩。
額を、その胸に預ける。
アルベルトの身体が、一瞬だけ固まった。
「……少しだけ、このままで」
「うん」
背中に腕が回る。
いつものように勝手に抱きついてくる腕とは違って、ひどく静かだった。
セレナは目を閉じる。
少し前まで頬に触れていた母の手は、温かかった。
今度は、その温かさを失わずに済んだ。




