第15話 兆し
ある日の午後。
セレナは研究室にいた。
「王妃様」
「なあに?」
研究台では、王妃が乾燥させた薬草を乳鉢ですり潰している。
開け放した窓から風が入り、吊るされた薬草がかすかに揺れた。
「流行り病というのは、起こる前に分かるものですか?」
ごり、と乳鉢の音が止まった。
「ずいぶん唐突ね」
「そうですわね」
「何か気になることでもあるの?」
「東部で、熱を出す方が増えていると聞きました」
嘘ではない。
十七歳になってから、東部の話には意識して耳を傾けていた。
前の人生でも、始まりは些細な噂だった。
季節外れの風邪が流行っているらしい。
最初は、それだけだった。
「どの辺り?」
「ラーデン周辺です」
王妃がすりこぎを置いた。
「症状は?」
「高熱と咳。長引く方も多いそうです。重くなると、息が苦しくなる方もいると」
「いつ頃から?」
「二週間ほど前だったと思います」
王妃は少し考えた。
「調べましょう」
「まだ、ただの風邪かもしれません」
「それなら、それでいいじゃない」
あっさりと言われ、セレナは瞬いた。
「何も起きていないと分かるのも、立派な調査結果よ」
胸の奥にあったものが、少しだけ緩んだ。
前の人生では、異変に気づいた頃には遅かった。
医療院から薬が消えた。
毎日のように鐘が鳴った。
そして――
「アルベルト」
「聞いてる」
すぐ隣から声がした。
アルベルトが本を閉じる。
「東部の医療院から、ここ一月の患者数を集めて。症状別に。年齢と重症化した人数も欲しいわ」
「分かった」
「ラーデンだけではなく、周辺もね」
「街道沿いも取るよ」
王妃が顔を上げた。
「街道?」
「人から人へうつるなら、人の移動を見た方がいいでしょう」
アルベルトは紙を引き寄せ、町の名を書き始めた。
「患者が増え始めた日も分かれば取っておく」
「お願い」
「うん」
立ち上がったアルベルトに、王妃が声をかける。
「今日中じゃなくてもいいわよ」
「今日分かることを、明日まで待つ理由がないでしょう?」
柔らかな薄い金髪を揺らし、研究室を出ていく。
セレナは閉じた扉を見た。
「あの子、ああいうことは本当に早いのよね」
「……そうですわね」
六歳の頃。
他人が痛くても、自分は痛くないと言った少年。
ずいぶん変わった。
「セレナ」
「はい」
「あなたにも働いてもらうわよ」
王妃から紙の束を渡される。
「もちろんですわ」
何もしないまま、記憶の中の未来が近づいてくるのを待つより、その方がずっとよかった。
◇
翌朝。
研究室へ入ったセレナは、机の上を見て足を止めた。
「……もう届いたんですの?」
「近いところからね」
王妃はすでに何枚もの報告書を広げていた。
「アルベルトが夜のうちに手配したみたい。こっちへ来て」
セレナは隣へ行き、差し出された紙を受け取った。
「ラーデンは?」
「昨日の時点で三十二人」
「こちらが年齢別ですわね。重症者は……六人」
「思ったより多いわ」
次の紙へ目を移したところで、人の気配が近づいた。
アルベルトだった。
いつにも増して髪が乱れている。
撫でつけることもしない薄い金髪はふわふわと好きな方へ流れ、長い前髪の奥で緑の瞳が眠たげに霞んでいた。
セレナの隣まで来ると、何も言わずに空いている方の手を取る。
少し身を屈めて、
ぽす。
自分の頭に乗せた。
セレナは一度だけそちらを見た。
そのまま指を髪に滑らせる。
柔らかな金髪を二度ほど撫でると、アルベルトの目元がふっと緩んだ。
口元にも、満足そうな笑みが浮かぶ。
「ベルツからも来ているわ」
王妃が次の紙を差し出した。
セレナは空いた手で受け取る。
「増え始めたのは……ラーデンより十二日ほど後ですわね」
「そう見えるわ。問題はハーンよ」
セレナの手が髪から離れた。
すぐに、その手首を取られた。
「昨日までは三人だったの。今朝の報告では十一人」
「急に増えていますわね」
報告書を読みながら、アルベルトに引かれるまま窓辺へ向かう。
長椅子に腰を下ろすと、アルベルトも隣に座った。
そのまま身体を倒し、当然のようにセレナの膝へ頭を乗せる。
長い脚が、長椅子の端からはみ出した。
セレナは紙を持ち直しただけだった。
「地図を見せてくださいませ」
「はいはい」
王妃も地図を持ってこちらへ来る。
セレナは膝に落ちたアルベルトの前髪を払いながら、広げられた地図を覗き込んだ。
「ラーデンからベルツまでは?」
「街道なら二日ほど。ベルツからハーンまで一日半」
王妃の指が動く。
ラーデン。
ベルツ。
ハーン。
三つの町を、一本の街道が繋いでいた。
「同じ道ですわね」
「ええ。それに、患者が増えた順番も合っている」
セレナは地図の先へ視線を移した。
王都。
まだ、そこに印はない。
膝の上で、アルベルトが目を閉じた。
セレナの指が髪を梳くたび、眉間に残っていたわずかな力まで抜けていく。
やがて頬が緩み、口元に小さな笑みだけが残った。
ずいぶん幸せそうな寝顔だった。
「症状は?」
「これよ」
王妃が報告書を重ねる。
セレナは片手で受け取った。
高熱。
咳。
強い倦怠感。
一部には、呼吸の異常。
最後の一行で、目が止まった。
閉め切られた部屋。
枕元の水差し。
母の浅い呼吸。
何度呼んでも、もう開かなかった目。
「セレナ」
王妃の声が、遠くなりかけた記憶を引き戻した。
「……はい」
「薬草の在庫を調べてもらえる?」
「解熱と咳に使うものを中心に?」
「ええ。今ある量と、次の入荷予定も」
「分かりました」
セレナは報告書の余白に書き留める。
月白草。
白鈴花。
乾燥したリュカの葉。
「仕入れ先も調べておきますわ」
「お願い。ただし、まだ買わないで」
セレナはペンを止めた。
「市場が反応しますものね」
「そう。今、大量に買えば噂になる。薬が必要になる前に、薬の値段だけが上がるわ」
「では、在庫と仕入れ先だけ」
「それでいいわ」
セレナは続きを書いた。
いつの間にか、膝の上から規則正しい寝息が聞こえていた。
視線を落とす。
アルベルトはすっかり眠っている。
徹夜の疲れが残る目元とは裏腹に、表情だけは穏やかだった。
セレナの手が離れたままになっていることにも、もう気づいていない。
少し乱れた前髪を指で払う。
柔らかな髪は、すぐにまた額へ落ちた。
もう一度払う。
また落ちる。
セレナは諦めて、そのまま頭をひと撫でした。
アルベルトの口元が、眠ったままわずかに緩んだ。
「セレナ、ここ」
王妃の指が地図の一点を叩いた。
セレナの視線はすぐに地図へ戻る。
「ハーンですか?」
「ええ」
そこから指が西へ滑る。
次の大きな町を越えれば、王都だった。
思っていたより近い。
窓の外では、いつもと変わらない朝が始まっていた。
馬車が行き交い、庭師が花壇に水をやっている。
膝の上では、アルベルトが安心しきって眠っていた。
誰もまだ知らない。
けれど地図の上では。
病は、もうすぐそこまで来ていた。




